(ナガサキノート)被爆後にいじめ 破られた卒業証書

有料記事

力丸祥子・28歳
[PR]

中村由一さん(1942年生まれ)

 「いじめを受けた子どもが自ら命を絶った」というニュースに触れるたび、2歳の時に爆心地から1・2キロの長崎市浦上町(現・緑町)で被爆した中村由一さん(73)の顔が浮かぶ。「もし、その子が中村さんの話を聞いていたら、思いとどまったのではないか」と思うからだ。

 中村さんは原爆で頭に大きな傷が、両足にやけどの痕が残った。引っ越した大浦では、その見た目から壮絶ないじめを受けた。だが、被爆から70年が経った現在は、「今まで経験したこと、すべてが今の自分を支えてくれている」と話す。記者が取材の依頼をすると、「差別を受けた私の怒りもしっかり記録してほしい。それを知ってもらうことが本当の平和につながる」と、幼少時代のつらい経験やその時の気持ちも話してくれた。

 戦後、食料難や貧困に苦しんだ長崎市民の間で差別があったこと、中村さんの人生に原爆がずっと影響し続けたことを、しっかりと記したいと思う。

 中村さんは1942年、父の嘉四郎(かしろう)さんと母のイネさんの子どもとして、浦上町(現在の緑町)で生まれた。中村さんは原爆のけがでそれまでの記憶を失っているので、ここからは、中村さんがのちに母親や親族から聞いた話がもとになっている。

 両親ともに浦上町生まれ。嘉四郎さんは茂木町で漁師になったが、イネさんと結婚後、ふるさとに戻って、子どもの頃に習った靴の修理で生計を立てていた。

 原爆が投下されるまで、中村さんが一緒に過ごしていた兄弟は兄の常己(つねみ)さんと弟の勝利(まさとし)さん。中村さんは3人兄弟の次男だった。中村さんが「人から頼りにされ、面倒見がよかった」というイネさんは、仕事の都合などで親と一緒に過ごせなくなった親戚の子どもを2人預かっていたので、子どもが多い、にぎやかな家庭だったという。

 太平洋戦争が始まると、嘉四郎さんが三菱造船所に徴用され、造船所で働く人たちの靴の製作や修理を担った。

 戦争が激しくなった44年、嘉四郎さんは44歳で戦地へ行った。家には母イネさんと子どもたち5人が残された。働ける人がおらず、生活は苦しかった。イネさんは食料を調達するため、大八車を引いて親戚が住む茂木などにたびたび出かけていたという。

 45年8月9日の記憶は、2歳だった中村さんには残っていない。イネさんが残した被爆証言によると、この日も、茂木の親戚から浦上町の自宅に連絡があった。「薪がなくなったから持ってきてほしい。帰りにカボチャやジャガイモを持って行きなさい」という内容だった。イネさんは中村さんと生後9カ月の弟勝利さんを寝かせると、隣の家で仲間と革靴を作っていた親戚の田中明(たなかあきら)さんに子どもたちがお昼寝中であることを伝え、出発したという。

 田中さんは「長崎にも激しい空襲があるかもしれないから、早く戻るように」と注意して送り出したという。

 中村さんが、後に大人たちから聞いた話によれば、母イネさんが茂木の親戚の家に向かったあと、中村さんは昼寝から目を覚ましたという。生後9カ月だった弟の勝利さんはよく眠っていたが、中村さんが大きな声で歌い始めると、親戚の田中明さんが隣の家から中村さんの家に来た。

 田中さんたちは仕事の仲間と集まり、金づちで革靴の靴底を作る作業をしていた。勝利さんが目を覚まして泣き出すと、仕事の手を止めて面倒を見なくてはいけないので、田中さんは中村さんが歌うのを注意しに来たそうだ。

 後に田中さんが中村さんに語った話によると、玄関を開けた田中さんが「こら、由一。そんなに歌いたいなら、外で歌いなさい」と言った瞬間。田中さんの背後から、家の中にとても強い光が差し込んだという。

 爆風が襲い、田中さんは目を閉じてその場に伏せた。その間に中村さんは飛ばされ、居場所がわからなくなったという。

 中村さんは、倒壊した自宅近くのがれきに埋まった。助けてくれた大人によると、弟の勝利さんも家の下敷きになっていた。親戚の田中明さんと一緒に仕事をしていた仲間の大人は、泣き声を頼りに、まず勝利さんの居場所を捜したという。

 「勝利はこの下で泣いているぞ」。その声と同時に、田中さんが首までがれきに埋まった中村さんの頭につまずき、「由一がいたぞ」と声を上げた。田中さんの声の方が大きく、大人たちが中村さんの方に集まってきた。体の上にある崩れたれんが塀などをどけている間に、田中さんの家から火が出て、瞬く間に中村さんの家に延焼した。田中さんたちは勝利さんを助けることができないまま、中村さんを担いで防空壕(ごう)に向かったという。

 頭から出血し、動かない中村さんを見て、だれもが「即死だ」と思ったという。壕の前には犠牲になった大人の遺体が積み上げられ、その周りを囲むように子どもの遺体が並べられた。中村さんもその一人だった。

 夕方、長崎医科大付属病院(現長崎大病院)から看護婦が来て、負傷者にブドウ糖を注射して回った。母イネさんは「もうこの子は死んでいます」と断ったが、看護婦は「簡単に死ぬと言ってはいけない」と残った1人分を中村さんに注射してくれたという。中村さんは「もしかしたら、この注射が効いたのかもしれない。今でもその看護婦さんに感謝している」と話す。

 夜、壕の前でろうそくをともし、犠牲者の通夜をした。その途中、兄常己さんが叫んだ。「由一の足の指が動いた」。半信半疑の大人たちが注目した時、中村さんの手の指が動き、生きていることがわかったという。中村さんの足の指はがれきの下敷きになったせいで今も動かない。「足の指が動いたのは見間違いだったはず。兄が生きていると言ってくれたから、私はいまここにいる」

 中村さんは被爆してから3日間、眠り続けた。4日目の朝に目覚めたが、それまでの記憶は一切なくなり、言葉を発することも、歩くこともできなくなっていたという。だから、中村さんは被爆体験を話す時、「自分には誕生日が二つある」という。

 母のイネさんが残した証言によれば、生き残った子どもたち4人を連れて親戚のいる茂木に向かった。犠牲になった勝利さんの骨は洗面器に入れて一緒に連れて行ったという。

 兄の常己さんも原爆のとき、右腕手首の動脈を切る大けがをしていた。出血がひどかったが、タオルで二の腕をきつく巻くだけの処置しかできなかった。常己さんの傷は茂木の病院では手当てできないほどひどかったので、イネさんが背負って長崎の病院まで往復した。だが、1カ月後、常己さんはとうとう亡くなってしまった。

 常己さんは血液型が同じ父の嘉四郎さんの帰りを待っていたが、一度も輸血できないままだった。イネさんはそれを悔やんでいた。

 45年10月、嘉四郎さんが戦地から引き揚げてきた。すぐに靴修理の仕事に戻り、戦前から知り合いだったという朝鮮や中国の人の仲介で、大浦地区に住む家を見つけた。46年2月、家族は借家に引っ越し、2人の妹が生まれた。

 中村さんの記憶があるのはこの頃からだ。嘉四郎さんは引き揚げの船を待つ間にメチルアルコールを飲み過ぎて内臓を病んでいた。末っ子の君子(きみこ)さんが生まれて1カ月後、47歳で胃潰瘍(かいよう)で亡くなったという。親しかった韓国人が「アイゴー」と一晩中泣いていた。

 その後、母のイネさんは生活のために土木作業の仕事についた。「母ちゃんは相当、苦労して育てあげてくれた」と中村さん。幼い妹たちも家事を覚え、家族を支えた。

 中村さんは言葉を覚え直し、歩く練習もした。8歳から南大浦小学校(現・大浦小)に通った。爆心地から距離があり、中村さんのように体に目立つ傷痕がある子は少なかったという。それがいじめの原因になった。

 中村さんは南大浦小学校(現・大浦小)に通った。がれきの下敷きになり、熱線でやけどを負った足は動かず、げたをはくこともできなかった。学校に続く急な坂は特に下るのが大変で、裸足で歩いて帰ることもあった。頭にも大きな傷が残っていた。その見た目が、からかいの対象になった。

 先生や同級生に「カッパ」「ハゲ」「原爆」などのあだ名をつけられ、「6年間、一度も中村と呼ばれたことがなかった」。卒業式の時、先生が初めて「中村由一君」と名前を呼んだ。中村さんは、立ち上がることができなかった。そして、先生に「いつものように原爆って呼んでください」と言ったという。先生は保護者たちの前で右往左往していたが、中村さんが立ち上がり、その場が収まったという。

 教室に戻って卒業証書を受け取った。中村さんは「がんばって育ててくれた母ちゃんの証書だな。帰ったら見せてやろう」と誇らしく思ったという。

 小学校の卒業式を終えた中村さんは卒業証書を持って、学校を出ようとした。門の前では、同級生たちが集まって別れを惜しんでいるようだった。

 中村さんが通り過ぎようとすると、一人の同級生の男の子が「おい、中村。卒業証書を見せ合おうよ」と声をかけてきた。6年間「友だち」がいなかった中村さんは、呼び止められたことがうれしくて涙が出たという。

 だが、その子は校庭の真ん中まで走ると、中村さんの証書を掲げ、ビリビリと破った。中村さんは慌てて証書を取り返し、その子を突き飛ばしたという。「ずっとやられっぱなしだったのに、初めて仕返しをしてしまった」。男の子は医務室に運ばれたが、軽傷で済んだという。

 卒業証書はかろうじてつながっていたので、中村さんは自宅に帰って障子紙で貼り合わせたという。帰って来たイネさんは異変に気づいたが、中村さんは「帰りに転んで破れた」と答えるのが精いっぱいだった。

 中村さんは長崎市立梅香崎中…

この記事は有料記事です。残り2787文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【締め切り迫る】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら