(ナガサキノート)核廃絶の誓い、命の限り

有料記事

山本恭介・28歳
[PR]

川野浩一さん(1940年生まれ)

 川野浩一(かわのこういち)さん(74)=長与町=が代表を務める町の市民団体は6月、町議会に集団的自衛権の行使容認に反対する意見書を国に提出するよう求める請願をした。請願を受け、6月16日に町議会は「憲法9条を形骸化する集団的自衛権の行使は絶対に許せない」とする意見書を可決し、安倍首相らに送った。

 市民団体は「長与町『平和で安全な町宣言』を生かし憲法9条を守る会」。川野さんは集団的自衛権の行使について、「憲法の解釈改憲で戦争への道が開かれかねない」と心配し、行動を続けてきた。憲法9条を守るよう呼びかける署名は、7千を超える数が集まった。

 「平和は自分たちでつくるもの」との思いが根底にある。だからこそ、原水爆禁止日本国民会議原水禁)の議長、県平和運動センター被爆者連絡協議会の議長などを務めながら、毎日のように集会などに走り回る。原動力は「原爆を生き延びた者としての使命感」だ。

 川野さんは朝鮮半島の北西部にある平安北道で生まれた。現在の北朝鮮に位置する。川野さんの父親は長崎で家族が経営していた建材販売店が昭和恐慌で借金を負い、返済のために一旗あげようと、当時の植民地だった朝鮮半島に渡った。だが商売はうまくいかず、最終的に現地の警察官になった。

 長崎に戻ってきたのは1941年の夏。父親が兵隊として召集されたことがきっかけだった。川野さんはまだ1歳6カ月。北朝鮮の記憶は全くない。

 当時の様子を父親から聞くようになったのは、川野さんが20歳代後半になってから。酒を飲んで酔った父は植民地の警察官としてどんな光景を見てきたかを、よく話した。「朝鮮人の首が電柱にぶら下がっていることがあった」など残酷な話も聞いた。そのたびに母親が話をさえぎったことを覚えている。

 「記憶はないけれど、いつかは行ってみたい場所だった」。川野さんの思いは、のちにかなうことになる。

 3人きょうだいの長男として育った川野さん。北朝鮮から引き揚げてからは、母親の両親が営む長崎市の中島川沿いの料理屋で暮らした。

 原爆が投下されたのは5歳の時。当時は度重なる空襲により、通っていた幼稚園には行かなくなっていた。当日は爆心地の南東3・1キロの本紙屋町(現・麴屋町)で近所の小学5年生の友人と、家の前にあった防火水槽を背に遊んでいた。

 上空から「ブーン」という音が聞こえてきた。川野さんは「友軍機やろう」と言った。味方の戦闘機のことをそう呼んでいた。突然、友人は自分の家に向けて走り出した。友人の手が玄関の戸に届くかどうかというところで、記憶が途絶えた。光は覚えていない。

 気がつくと、15メートルほど飛ばされていたという。体には血が付いていた。近くで、近所の中学2年の少年が額を切っていた。血はその少年のもので、川野さんにけがはなかった。昼間なのに、周りは薄暗くなっていた。

 爆風で吹き飛ばされて目を覚ました川野さん。上空で再び爆音がした。怖くなり、5メートルほど先の防空壕(ごう)に逃げた。近所の大人が「新型爆弾のごたるばってん、どこに落ちたとやろか」と話している。母親が迎えに来て、中島川沿いの家の近くの壕に入った。

 祖父母は壕と家を行き来していたが、川野さんが外に出ようとすると、「大やけどして男か女か分からん状態の人がたくさんおる。出ちゃいかん」と止められた。そのため、大けがをした被爆直後の人を見た記憶はない。

 夕方になり、瓊浦高等女学校(現・瓊浦高校)横の土手に掘られた防空壕に向かった。途中、長崎駅の方向を見ると、空が炎と真っ黒な煙に包まれていた。怖くなり、母親をせかしながら墓に囲まれた山道をのぼった。

 午後8時ごろ、のぼった山の上から市内を見た。一面が焼け野原だった。トラックに積まれたバケツを、人々が手渡しでリレーをして消火していた。1軒の火が消えると、別の1軒が燃え上がる様子を覚えている。

 川野さんの記憶は山から火の海を見たところで途切れ、次の記憶は8月15日。中学生の少年が瓊浦高等女学校のグラウンドで叫んだ。「日本は負けた。戦争に敗れたぞ」。防空壕(ごう)から、大人たちが「なんば言いよっとか」と次々と出てきて、彼を囲んだ。そして肩を落とし、山沿いの墓を縫うようにして、斜面を下っていった。川野さんも自宅に戻った。ガラスと雨戸が吹き飛んでいた。

 夜、床の間で横になると、穴の空いたバケツが枕元にあり、炭のようなものが入っていた。聞くと、原爆で亡くなった浦上に住む曽祖母の骨だった。ぞっとして、寝付けなかったことを覚えている。

 曽祖母は川野さんをかわいがり、「町は危ないから浦上に来い」と何度も言っていた。行っていたら、死んでいたと思う。自宅の場所は当初、原爆の標的になっていた賑橋の目と鼻の先だ。生き延びた偶然を思い、「亡くなった人の分まで、核兵器廃絶と平和を訴えなければ」と心に刻んでいる。

 川野さんが磨屋小学校(現・長崎市立諏訪小)の3~4年生の頃。先生が授業で、1946年に公布された日本国憲法について教えてくれた。先生は高揚した様子で「これで日本は戦争をしなくなる。平和な社会になる」と言った。憲法について初めて知り、高揚感は川野さんにも感じることができた。学校には原爆で親やきょうだいを失った子や、けがをした子がいた。貧しい子も多く、弁当は芋ばかり、服は継ぎはぎだらけという子もいた。戦争によって苦しい目にあっているだけに、平和憲法は一筋の光に思えた。

 戦後69年、平和憲法のうえ…

この記事は有料記事です。残り6229文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【締め切り迫る】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら