小林弘幸教授に聞く 「ウェルビーイングと自律神経」【前編】

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目次
  1. 血流とその質 どちらも大切
  2. 生活習慣に呼吸法 整えるコツ、身近なところに
  3. 科学だけではわからないことも
  4. 中学2年の体験 研究の原点に
  5. 「ゾーンに入る」とは何か

私たちの体が、寝ている間でも常に血液の循環や呼吸を行い、生命機能を維持できているのは、普段は意識することがない「自律神経」のおかげです。活発なときに優位になる「交感神経」と、リラックスしたときに優位になる「副交感神経」に分類され、両者のバランスが大事だとされています。

自律神経は、ストレスや心と体の健康とも密接な関係があり、モードコントロールを活用してウェルビーイングな毎日を実現するためには、考えるべき重要な要素の一つです。

自律神経研究の第一人者で、スポーツドクターや腸内環境の専門医としても知られる小林弘幸・順天堂大教授に話を聞きました。

血流とその質 どちらも大切

――今、ウェルビーイングの考え方が急速に広まっています。自律神経の専門家という立場から、どういうふうに捉えていますか。

ウェルビーイングとは、体も心もすべてが良好な状態であると、そういうことですよね。では、そのウェルビーイングな状態を保つ「軸」は何かと言われたら、それはやはり「血流」と「血流の質」、そしてその先にある「自律神経」と「腸内環境」だと考えています。

ウェルビーイングが目指す理想に近づくには、まずは血流とその質をしっかりさせること。どちらか一方でも乱れるとダメですね。そしてこれは健康だけじゃなくて、日常生活の「パフォーマンス」にも通じる話です。

よく「心・技・体」ということがいわれますが、僕は「体・技・心」の順番じゃないかと思っているんです。まずは体が健康で、自律神経のバランスがきちんと整っていること。体がしっかりしていれば、心はついてきますから。

何かを成し遂げようとするとき、みんな、まず「心をどうするか」とか「心を鍛えなければ」などと考えがちですが、僕はそこが間違いの始まりじゃないかと思っています。

先日、野球のワールドベースボールクラシック(WBC)で日本が世界一を奪還しましたが、活躍した大谷選手や吉田選手といった一流のプレーヤーは、自律神経の状態もしっかり整えたうえで臨んでいたはずです。

例えば大谷選手は、緊張がピークに達するような場面でも盗塁を決めてみせるくらいですから、相当に良好な自律神経のバランスを保っていたのではないかと思いますね。

それと、周りの環境も重要だと思います。WBCでいうと、準決勝のメキシコ戦で、それまで不振だった村上選手が逆転サヨナラ二塁打を放った場面。

あのときはノーアウト1・2塁で、アウトカウントには余裕があった。だから、自律神経を整えて集中して、「どうにかなる」と開き直ることができたと思うんですよ。もし2アウトで、自分が凡退すれば終わりだと思ったら、さすがにあの場面であのバッティングは厳しい状況だったかなと。

生活習慣に呼吸法 整えるコツ、身近なところに

――自律神経のバランスを保つ重要さはよくわかっているけど、日常生活でのなかで具体的にどうしたらいいのかわからない。そういう人も多いと思います。

自律神経を整えるカギは生活習慣です。

  • 朝起きる時間と夜寝る時間を、できるだけ毎日一定にする
  • 朝食は絶対食べる
  • 腹「七分目」にする
  • 夕食は寝る3時間前に食べる
  • シャワーだけでなく、お風呂にちゃんと入る
  • スマートフォンなどのデジタルデバイスを、寝る1時間前からは見ない
  • エスカレーターを使わずに階段を使う

実はこういったちょっとしたことの積み重ねで、自律神経というのは自然に整っていくものです。人によってはヨガや太極拳、ラジオ体操などが有効な場合もあるでしょう。

そこにプラスしてあえてやるとしたら、よく言っている「1対2の呼吸法」ですね。寝る前の3分間を使って「鼻から3秒吸って、口から6秒吐く」という呼吸を集中してやれば、より自律神経のバランスを整えることができます。

あと、おすすめしたいのは日記です。寝る前に一日を振り返り、文章にしたためることで、心が確実に落ち着きます。

――自律神経を整えるコツは、以外と身近なところにたくさん転がっているんですね。

自律神経を整えるというと、なにかものすごいことをしなきゃいけないみたいに思っている人もいるようですが、そうではなくてもっと身近なところからできることも多いんです。

例えば、仕事中にずっと同じ姿勢を続けているような場合、45分ぐらいごとにちょっと肩を回すなどして体を動かしてみると、血流がよくなって自律神経が整ってくる。ほんのちょっとしたことですよね。

でも、そのほんのちょっとしたことをやらないで同じ姿勢を続けてしまうと、1~2時間も経つと血流が悪くなり、むくみが出ることもある。場合によっては、関節の動きが悪くなる拘縮(こうしゅく)にもつながりかねません。

ほかにも、部屋を片付けてみるとか、そういった行動でも自律神経が整うきっかけになります。難しく考える必要はありません。

科学だけではわからないことも

――ストレスを和らげたり、リラックスしたりするために、ものや道具の力を借りるという考え方もあります。

脳の働きと腸の状態が密接に関係しているという「脳腸相関」は以前から知られていることですが、最近さらに注目を集めるようになっています。腸はセロトニンやオキシトシンといった「幸せホルモン」との関係も深く、発酵食品を利用して腸内環境を整えれば、自律神経が整って心も穏やかになります。

ウェルビーイングを実現するための商品というのもたくさんあるようですが、結局はみんな、自律神経をいかに整えるかということが重要なんだと思います。

いい香りを嗅ぐ、いい音楽を聴く、美しい芸術作品を鑑賞する。人によってはゲームを楽しむというのもあるでしょう。

もちろん、そういったものすべてが科学的に効果が証明されているわけではありません。ですが、人が心地よさを感じるものというのは、僕は科学では割りきれない何らかの力を持っていると思っています。

科学でわかっていることが、人間の体のすべてではありません。まだまだわからないことも多い。そもそも、WBCのようなドラマチックな展開は、科学では語ることができないでしょう。

野球の試合でいう「流れ」だとか、医学に近い世界でいえば「気」だとか。かつてはあまり信じてなかったけど、科学を離れたところにもなんらかの作用や効果はあると、今は思いますよ。

科学では割り切れない部分が、どうしてもある。そこの部分にも目を向けていって、科学で説明できることとどう結びついているのか。それを証明するのが、わたしたちの使命だというふうにも思っています。

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中学2年の体験 研究の原点に 

――たしかに、スポーツの試合のような究極の場面では、日常とは違う不思議さを感じるときがあります。

僕も中学2年生の時に、今の仕事に通じるような不思議な体験をしています。

当時、僕も野球少年でした。埼玉県で準優勝しているチームの四番バッターだったんですよ。地区大会の決勝戦で、0対0で迎えた最終回。僕の前のバッターが三塁打を放って、打順が回ってきました。

相手は、いろいろな高校からスカウトが来るぐらいのいい投手でした。僕は「嫌なところでまわってきたな」と思いましてね。最初に考えたのは四球を選ぶことだったんです。

ところが、いい投手だったのでボールを投げない。全部ストライクコースに入ってくるわけですよ。打ちにいかざるをえないんですが、全部ファールになるんですよ。

でも7球ぐらい続けてファールで粘っていると、だんだんタイミングが合ってきた。いわゆる「ゾーンに入った」状態になったんです。

そのときに来た球は、もうピッチャーが投げた瞬間から「あ、これはヒットになる」とわかりました。打つ前にボールがくっきり見えて、振り抜いた打球はそのままセンター前ですよ。サヨナラ勝ちです。

そして県大会へ。29年ぶりに勝ち上がってきた学校が、そこからあれよあれよという間に準優勝しちゃったんですね。まさに勢いと流れに乗った、そういう感じでした。

たしかまだ13歳ぐらいでしたから、50年近く前の話でしょ。でも、そのサヨナラ安打の瞬間は、ボールの軌跡も手に残った感触も、50年経った今でもはっきりと覚えていますよ。

当時はまだその言葉は知らなかったはずですが、「ゾーンに入って」打ったその一球は、相手の呼吸と自分の呼吸が一致しているのがわかりました。僕が自律神経の研究を始めた原点は、そこにあると思っています。

「ゾーンに入る」とは何か

――絶体絶命のピンチで逆にとんでもない力が発揮された場合など、確かに「ゾーンに入った」というのは、スポーツの世界でよく使われる表現です。どういうものなのでしょうか。

僕は「ゾーンに入る」という現象は、科学的に説明が付くと思っています。簡単に言えば、自律神経の「究極の統一」「究極の安定」ですよ。

呼吸が止まったりいいリズムになったりすることで、自律神経が安定して血流が良くなる。だから目もよく見えるようになるし、感覚も鋭くなる。そういう状態と考えられます。

それと、「ゾーンに入る」ために重要なのが「あきらめる」ということ。ネガティブな意味ではなく、目的のためにほかのことをあえて捨ててしまうというポジティブな考え方で、これがすごく大切です。

例えばさっきのサヨナラ安打。その時の僕は、四球で出塁することをあきらめました。そのことで、迷いがなくなった。だから「ゾーンに入る」ことができたんだと思います。

――「ゾーンに入る」のは、やはり究極の場面で起きる現象。日常生活に応用するのは難しそうですね。

そんなことはありません。例えば、迷いをなくすこと。これは日常生活の中でもきわめて重要です。

たとえば朝出かけるときに、傘を持っていくかどうか。確かに迷うことが多いシチュエーションですが、一度持っていくと決めたら迷うことなく持っていくようにした方がいい。

結果的には判断ミスになってしまうこともあるでしょう。でも、これから始まる新たな一日を、自律神経を整えて快適に過ごすためには、結果はどうあれ「その瞬間瞬間で迷わないこと」の方が重要です。迷えば迷うほど、自律神経は乱れていきます。

確かに「迷いを消す」というのは簡単なことではありません。一流のアスリートだって、実際には常に迷いながら競技と向き合っているケースがほとんどです。

だからまずは「迷いをなくすこと」を意識して、そして一歩を踏み出してみる。そうすれば自律神経が整い、ウェルビーイングに近づくことにつながるんだと思います。

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