希代の天才落語家、立川談志が亡くなって今年の11月で10年。立川志の輔をして「立川談志の原石を持った人」と言わしめる、立川談志の長女・松岡ゆみこが、父・談志とゆかりのある方々と対談をする不定期連載企画。

第4回は、立川談志の親友であり、談志が名付け親でもある毒蝮三太夫(どくまむし・さんだゆう)が登場!

★この対談は、週プレの公式YouTubeチャンネルでも配信中!

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■若き日の談志との出会い

毒蝮 じいさんをこんなにライティングして、もったいねえな。これ『サンデー毎日』じゃないのね(笑)?

ゆみこ 今日は古い話を聞きたいなと思って。

毒蝮 俺は昭和11年生まれだから。

ゆみこ パパと同じ年だもんね。マムちゃん(毒蝮三太夫)のところは子供がいないから、私を養女にしようっていう話も出たんだよね。

毒蝮 養女にしなくてよかったなとつくづく思うよ(笑)。俺、談志の話を一日しないことはないね。お墓にお線香や花をあげるより、こうやって話をすることが一番供養だと思う。

ゆみこ 若かりし頃、談志とマムちゃんのふたりが出会ったのはいつなんですか?

毒蝮 17、18歳の頃じゃないかな。うちの劇団に小林勝彦っていうのがいたんだよね。歌舞伎通で落語も好きで、彼に「俺は落語が好きだから、誰か紹介しろよ」と言ったら、そのとき紹介してくれたのが柳家小ゑん(やなぎや・こえん)【※1】、ゆみこのお父さんだよね。

※1......柳家小ゑん(やなぎや・こえん) 立川談志の、落語家二つ目のときの高座名。入門時の名前は「柳家小よし」であった。

ゆみこ どこで?

毒蝮 第一生命ホールで。

ゆみこ うちのママが働いてたところですよね。

毒蝮 そうそう。そこで柳家小ゑんを紹介されて、赤いジャンパー、ベレー帽、ラッパズボンで。なんとチャラチャラしていやなやつだなと思ったわけよ、生意気でね。彼は第一生命ホールで若手落語会というのをやってた。朝太、のちの(古今亭)志ん朝さんとか、(三遊亭)圓歌(えんか)さんとか、(春風亭)柳昇(りゅうしょう)さんやなんかもね。柳家小ゑんは売れに売れてた。安藤鶴夫【※2】さんも「天才現る」と言ったぐらいだった。

※2......安藤鶴夫(あんどう・つるお) 小説家であり、歌舞伎、演芸、落語などの評論家。1969年没。

俺は日大の藝術学部に行っていたわけ。で、学校の帰りに山手線に乗ってたら、新宿で俺の前に生意気そうなやつが立ったわけよ。トンビっていうコートを着て。フッと見たら柳家小ゑんだったわけ。「小ゑんちゃんじゃねえか」「この間はどうも。俺んちは目黒で降りて鵜(う)の木なんだよ」「俺は荏原中延(えばらなかのぶ)だから、五反田だよ。じゃあ目黒で降りて、一緒に何か食うか」ってなことになって。

ゆみこ ご飯を食べに行ったと。

毒蝮 中華料理屋に行ったの。彼が「餃子7人前食ったら、おごるよ」と言うんだよ。俺は「おごってくれるか?」って、ペロッと食べた。それからチャーハンも食った覚えがあるよ(笑)。「家も近いな、これから行ったり来たりできるな」と言って、それからのつながり。

ゆみこ その餃子は、本当にごちそうしてくれた?

毒蝮 気前がいいと思ったよ、その後の談志とえらい違いだ(笑)。最初に会ったときは、チャラチャラしたいやなやつだなというのが印象だったけど、よく俺の中延の家へ来てくれたね。

ゆみこ 蝮さんのお父さんは江戸っ子?

毒蝮 横浜の生まれ。本所や八丁堀で大工の修業をしたから、江戸っ子みたいになっちゃった。俺がグチャグチャ食ってると、親父が「バカ野郎。グチャグチャ食ってると口の中でクソになるぞ」って、汚えんだよ(笑)。それを談志が聞いていて、「親父さんは落語をよく知ってる」って。落語に出てくるネタなの。(古今亭)志ん生さんなんかがマクラで振るの。親父も立川談志が大好きだったね。

ゆみこ ネタの宝庫というか、父も蝮さんのご実家が好きだったんだろうね。

毒蝮 談志が言ったのは、「おまえの親父とおふくろを見ると、おまえが上品に見える」って(笑)。

■品川駅で殺人未遂!?

毒蝮 駅で腹が立って、談志を突き飛ばしたことがあったよ。

ゆみこ 電車が入ってきたときに、突き飛ばしたの?

毒蝮 そうそう。でもちょうどホームに柱があって、それに手を入れてクルッと1回転して、落っこちないで戻ってきちゃったんだ。

ゆみこ 戻ってきちゃったって(笑)。なんでそんなに腹が立ったの?

毒蝮 ノン君のことですよ。

ゆみこ ノン君というのは、うちの母ですが?

毒蝮 彼女は第一生命ホールで受付をやってたの。で、俺たち「劇団山王」の連中もそこで芝居をやってた。「テアトル・エコー」とか、「劇団四季」もやってたのよ。ノン君はそこのミス受付嬢ですよ。俺たち劇団員はみんな、あのコがエレベーターに乗るときに一緒に乗ろうって。

ゆみこ そんなモテたの?

毒蝮 そう。談志もノン君に肩入れして口説いたわけだ。でもノン君には許嫁(いいなずけ)がいたんだよな。それで付き合うのを断ったんでしょう。

そうしたら談志が品川駅のホームのベンチで「絶対結婚したいんだ」って。「ノン君を絶対に口説き落とす」と言うから、「ノン君には許嫁がいるんだから、彼女がいやだと言ったらできない相談じゃねえか」「いや、手籠めにしてもいいからものにする」って言ってたよ。それで「おまえみたいなやつとは付き合えない!」と言って俺は怒って。

ゆみこ それで突き飛ばしたら、クルッと回って戻ってきた(笑)。

毒蝮 「危ねえじゃねえか! 死んだらどうするんだ!」と言うから、「死んだら、洒落がわからねえやつだって俺は言うよ」って言ったんだけどね。

ゆみこ 婚約者がいたのに、ママの実家で「則子君のおなかには僕の子供がいます」とかウソ言って。結局、許嫁の方が身を引いてくださって、がむしゃらなパパが結婚したんだよね。

毒蝮 正論は通じねえなと思ったね。彼の結婚式で(月の家)圓鏡(えんきょう)さんと一緒に俺も司会をやったけど、彼には生きるという人間力を感じたね。俺もこのぐらい押しの太さがないと、芸能界ではやっていけないんじゃないかなと。彼は欲しいものは取ろうという欲が強かった。

ゆみこ そこで結婚してなきゃ、私もいなかったわけだし。その後すぐ、今度はマムちゃんが奥さんのクリちゃんと結婚するでしょう?

毒蝮 1年後にね。昭和36、37年頃だろうね。

ゆみこ パパが結婚式の準備をしたんでしょ?

毒蝮 当時1000円くらいの会費制だから、引き出物の予算がないんだよ。そうしたら談志が「アイデアでいこうよ」と。「いらないものを集めろよ」って。「それを抽選で皆さんにあげればいいよ」と。

ゆみこ その精神は死ぬまで変わらなかったね。

毒蝮 結婚式に来た人全員に封筒を配ったんだよ、200~300人いたよね。で、中に人名を書いた紙が入ってる。「それで俺がなぞかけをやるから」って。

例えばジャイアンツの「広岡達朗」。名ショートだよ。「皆さん、封筒の中の人名を見てください。『広岡達朗』の方は、引き出物は宝くじです」と言うんだよ。「その心は、"当たらない割には買われてる"」。広岡選手って、2割3分か4分ぐらいの打率なんだけど、名選手でずっと買われていたんだよ。

ゆみこ それ人数分やったの?

毒蝮 そうそう。「『坂本龍馬』の人は、小型のラジオです。"勤王の志士で菊(聞く)一辺倒"」って、これもうまいよ。それを夜中にふたりで考えて。

ゆみこ 仲良かったもんね。父は「俺ほど冠婚葬祭が似合わないやつはいない」と言っていたから、私の結婚式には興味ないと思ってたわけ。そうしたら「この芸人さんを呼ぶ」とか、メンバーから登場の順番まで全部口出しして。結婚式で張り切って3ポーズ着たんだよ。紋付き袴(はかま)からアラブの民族衣装に着替えて、最後にはタキシード着てたから。娘よりお色直し多いっておかしくない?(笑)。

なのに当日、バージンロードを歩くのを急に拒否しだして。こんなに取り仕切ってるくせに、なんで一番の出番をいやだって言うのかなって。それでその役目を蝮さんにお願いしたんだよね。

毒蝮 それで急遽(きゅうきょ)行ったじゃない? そうしたら談志が「やってくれよな」なんて言って。

ゆみこ 腕を組んで、お父さん役をやってくれてね。

毒蝮 いやー、あのとき俺、うれしかったよ。一緒に腕組んで歩いて、ゆみこを相手に渡して終わりなんだよね。それで横を見たら、談志が「よっ! ゆみこ、いい女!」って言ったんだよ、あいつ。

ゆみこ 最前列に紋付き袴着て、やんや手を叩いてすごくうれしそうに。私たちは確信を持っているけれども、子供のいないマムちゃんに、親の役をやらせてあげたかったのかなって。

毒蝮 それは後で気がついた。これがあいつの親心かな、と。名前を「毒蝮」に変える【※3】ときにも、俺に「『ウルトラマン』【※4】でもらってる金、15万円だったら俺が保証するよ」って「美弥」【※5】で口説かれて。あいつに7年も8年も口説かれて「毒蝮三太夫」になったわけだから。今思うけど、「石井伊吉」という本名だったら、仕事なんてないよ。

※3......名前を「毒蝮」に変える 「毒蝮三太夫」の芸名の名付け親は立川談志。もとは「石井伊吉」の名で活動していた。
※4......『ウルトラマン』 「石井伊吉」時代に、アラシ隊員として出演。次作の『ウルトラセブン』にも出演。
※5......「美弥(みや)」 かつて銀座にあった、立川談志行きつけのバー。2016年に惜しまれつつ閉店した。

ゆみこ 「イシイ・イヨシ」って江戸っ子には言いづらいですよね。

毒蝮 言いづらいし、「Ⅰ」が多いんだよ。「愛」が豊富な男なんだ(笑)。「MMの会」っていうのをおばさんたちがつくってくれたんだよ、「蝮を守る会」。

ゆみこ 散々ののしってきたババアどもに守られてるんだ(笑)。愛されキャラだよね。立川談志も超毒舌だけど、蝮さんは愛される毒舌で。

毒蝮 彼は言いっぱなしで切り口を縫合しないよ。彼は本当のことを言うじゃない? 沖縄の開発庁政務次官になったときも1ヵ月でクビになっちゃって、「嘘八百書きやがって。新聞でもって信用できるのは日付だけだ」なんて言ったぐらいだからさ。俺はそのへんうまく言うからね。「ババア」って言いながら、足をくすぐったりなんかしてるから(笑)。

ゆみこ パパも蝮さんも働き者だよね。たぶんパパと一緒で、死ぬ寸前まで仕事してると思う。

毒蝮 談志もしゃべれたら、車いすでもやってたよ。

ゆみこ ああ、そうか。

毒蝮 ただ、声がなくなっちゃったからね。俺、彼から教わってることがたくさんある。お礼とお詫びは早ければ早いほうがいいって。電話より手紙だぞって。お中元が来る前に「どうもありがとう」って先に出したっていうから(笑)。

ゆみこ しゃべれなくなっておうちで介護をしてたときに、最後に行きたがったのはマンションの下のゴミ捨てとポスト。自分で行くって言って。もうすぐ死んじゃうのに、パーッとお金を使うとかじゃなくて、基本は変わらなかったよね。

毒蝮 根本的にブレてないよ。でも10年たって、お父さんのことをこんなに話して、お父さんは幸せだよ。

■立川談志が作った『笑点』

ゆみこ 蝮さんは、私が生まれた頃も全部知ってるわけじゃない?

毒蝮 その頃、談志は目黒のアパートなんだよ。近くにフランク永井さんの家もあった。俺たち夫婦も結婚する前だ、談志は結婚していて。それでふすまを閉めて「おまえたち、そっちでふたりで寝ろよ」と言うんだよね。

ゆみこ 夫婦で泊まったことあるの?

毒蝮 あるんだよ。

ゆみこ スワッピング?(笑) 

毒蝮 あ、スワッピングの話もあった。

ゆみこ エーッ! 誰と?

毒蝮 ノン君とうちのとだよ。

ゆみこ 私の本当のお父さんじゃないよね?(笑) 

毒蝮 これは談志が言いだしたのかな。「おまえよ、クリちゃんとうちのと取り替えようよ」って。「でも取り替えようったって、おまえの家は子供を産んでるだろ? 俺の家は子供いねえだろ。取り替えてもいいけど、差額はいくらだ?」って言ったら話が壊れちゃった(笑)。

そういう面白いっていうか、非常にアイロニーに富んだふたりであったということはあるね。彼はいろんなことを教えてくれたというかね。『笑点』【※6】に出ろと言ったのも彼だからね。

※6......『笑点』 1966年から放送されている演芸番組。立川談志が発案し、初代司会者でもあった。

ゆみこ 座布団運びでしょう?

毒蝮 そうそう。俺は『ウルトラマン』をやってたから、『笑点』なんかやりたくねえよと思ってたんだ。

ゆみこ 何年ぐらい『笑点』やってたんですか? 

毒蝮 1年半しかやってない。最初は俺、答えてたんだよ。俺は科学特捜隊で怪獣と戦って地球を守ってるのが、なんで座布団運ばなきゃならないんだと思ってるんだもん。だから「答えさせろよ」って談志に言った。

ゆみこ アラシ隊員だもんね。カッコいいイケメン俳優だったんですよ。

毒蝮 談志が司会で「座布団運びの蝮が答えたいって。ほら、どうぞ」。俺が答えた、全然ウケない(笑)。(三遊亭)圓楽【※7】さんやなんかからバカにされて。

※7......三遊亭圓楽(さんゆうてい・えんらく) 五代目・三遊亭圓楽。『笑点』放送開始時は回答者として出演し、1983年より司会者を務めた。

で、俺、途中で帰っちゃったことがあるの。そうしたらディレクターが「戻ってきてよ」って、水道橋のガードまで追いかけてきたよ。だって頭へきたよ、「あいつはバカだから、大学出たって何もできないよ」って。あいつほど腹が立つことを言うやつはいないよ。

四国で『笑点』の収録があったんだよ。庵治(あじ)温泉というところだった。そこで俺と談志と圓楽さんがタクシーに乗ってたんだよ。夜8時くらいで暗くなってるんだ。談志が「このへん、『笑点』やってるかね」と言ったら、運転手が「こんな時間に商店は閉まってますよ」と言ったの。日テレがネットワークしてなくて、映ってねえところに行っちゃったんだよ(笑)、商店街と間違えられちゃったんだから。あいつがディレクターに怒ってね。「こんなところで収録したってダメだよ!」って。それが今や、彼が作った番組が日本テレビでは化け物番組になってるわけじゃない?

■談志と毒蝮の最後の別れ

ゆみこ 父は、くさやが好きだったね。

毒蝮 よく伊豆七島へ行ったじゃない? それで「ここのトビウオのくさやが一番だ」って、それを持って日航機に乗ってハワイに行ったときに、機内でもってくさやのにおいがするっていうんで怒られたよ。

ゆみこ おいしいらしいですけど、私は苦手なんです。

毒蝮 談志が参議院議員のとき【※8】、空港へ迎えに行ったんだよね。そうしたら、彼は一般口からじゃなく、VIPのほうから出てくるんだよな、バッジをつけているから。それで「これ、本当は持ってきちゃいけないんだよ」って、生のドリアン。

※8......参議院議員のとき 1971年に、立川談志は参議院議員に当選。1期6年間、政治家としても活動をしていた。

ゆみこ そういうときに悪いことしてるんだ。

毒蝮 税関で「何か持ってきちゃいけないものはありますか?」と聞かれて「ピストルとエロ雑誌が入ってるよ」と言ったら、「冗談でしょう」といって通してくれたと言ったよ(笑)。

ゆみこ 最後、パパと会ったの覚えてる? 私が一緒だった。

毒蝮 お母さんの......。

ゆみこ そうそう、パパのお母さん。おばあちゃんの老人ホームに、パパが車いすで行って。私たちはもう最後のお別れになるかと思って、「よかったら来てください」って言ったら、蝮さんご夫婦で来てくれたじゃない? あのときもうパパは声が出なかったけど。

毒蝮 5月頃だよね。喜んだ顔してくれて。声を失うのは芸人にとっては致命傷だからね。だけど今考えると、あの状態で車いすとか寝たきりになって永らえるよりも、俺より5年も10年も早く死んじゃったけど、面白おかしく生きた人生だよ。

ゆみこ パパが亡くなってちょうど1ヵ月後にお別れ会をやったじゃない? あのときは(中村)勘三郎さんも来てたし、上岡龍太郎さんや和田アキ子さんだとか......。

毒蝮 ビートたけちゃんもいたよね。大林(宣彦)監督も。

ゆみこ いろんな方に来ていただいたんだけど、その会の最後の手締めが蝮さんだったんです。それを今日もう一度やっていただきたいなと。あのとき、私が手を引いて......蝮さん、足の調子が悪かったんだよね。

毒蝮 そうそう。下駄でもって骨折してたの。それでサポートしてもらったんだよな。そのときにした話だけど、前の日の夢に談志が出てきて。俺が「足の指、3本折れちゃったんだよ。痛えんだよ」って言ったら、あいつ、「ほお、3本か。猛打賞じゃねえか」って(笑)。「そういう意味じゃないよ、痛えんだよ」。そうしたらあいつが「おまえはまだ足があるからいいよ。俺は足がねえんだ」って言うんだよ。いい話だよね。

ゆみこ いい話だね(笑)。

毒蝮 それでは、これを見ている方、それからこれを読んでいる方、そういう方のお幸せを、そして読んでない方、見てない方の不幸せをお祈りして、あの世へ行っている立川談志が永久にこの世に戻ってこないことを願うて、三本締めでございます。イヨーッ......。

●立川談志(たてかわ・だんし) 
本名、松岡克由(まつおか・かつよし)。「落語立川流」家元。落語家としてだけでなく、一時期は政治家としても活躍。『笑点』を作った人物でもある。2011年11月21日、75歳没

●毒蝮三太夫(どくまむし・さんだゆう) 
1936年3月31日生まれ、東京都出身。若くして俳優デビューし、1966年『ウルトラマン』にアラシ隊員として出演。ラジオ番組で町の人々に「ジジイ」「ババア」と毒舌で話すスタイルで人気を博す。著書『たぬきババアとゴリおやじ』(学研プラス)が好評発売中。YouTubeチャンネル『マムちゃんねる』好評配信中

●松岡ゆみこ 
元タレント、クラブ経営者。落語家・立川談志の長女。著書に立川談志が息を引き取るまでの9ヵ月間を記録した『ザッツ・ア・プレンティー』(亜紀書房)がある。週プレNEWSにて『しあわせの基準 私のパパは立川談志』(連載終了)が掲載中

連載コラム『しあわせの基準ー私のパパは立川談志ー』は、毎週月曜日配信です。

立川談志師匠没後10年特別企画、松岡ゆみこと笑福亭鶴瓶サンボマスター山口隆ダンカン毒蝮三太夫との対談動画公開中!