浮き彫りになったホイットニー・ヒューストンの「矛盾と秘密」:映画『Whitney』レヴュー

2018年7月に米国で公開された映画『Whitney』。ホイットニー・ヒューストンの生涯を追ったこのドキュメンタリー作品は、これまでにないほど彼女の業績も没落も深く掘り下げて描き出している。その生涯は、「ソウルのプロムクイーン」という輝かしきイメージの裏に隠された彼女の「複雑さ」を浮き彫りにしている。
浮き彫りになったホイットニー・ヒューストンの「矛盾と秘密」:映画『Whitney』レヴュー
ホイットニー・ヒューストンを描いた新しいドキュメンタリー映画(日本未公開)は、彼女の業績も没落も驚くほど深く掘り下げている。PHOTO: THE LIFE PICTURE COLLECTION/GETTY IMAGES

1990年代が始まって最初の13カ月間で、アメリカ国歌にまつわる両極端のパフォーマンスが行われた。

まず90年7月25日、コメディアンで女優、声優のロザンヌ・バーがサンディエゴ・パドレスの試合で国歌を「歌った」(寛容な表現を使えば、だが)。だらしない白のシャツを着たバーは楽しそうに音程をはずし、出せない音(ほとんどの音がそうだ)は金切り声でわめき、その間ずっとズボンの股の部分をつかんで、唾を吐くしぐさを披露していた[編注:野球選手が試合中によく見せる行為をまねたもの]。

観客は彼女にブーイングを浴びせた。湾岸戦争の開始をわずか1週間後に控えたブッシュ大統領は、大統領専用機エアフォースワンの機上でわざわざ、バーの演出を「恥ずべきことだ」と評した。バーは謝罪したが、この国歌斉唱のあと殺害の脅迫が押し寄せたとのちに回想している。脅迫の多くは反ユダヤ主義者からで、そのせいで土曜朝のアニメ番組「リトル・ロージー」シーズン2の制作中止が早まったと彼女は語っている[編注:これはロザンヌ・バーの子ども時代を参考につくられたアニメで、バー自身がロージーの声をあてる予定だった]。

半年後の91年1月27日にフロリダ州タンパで行われた第25回スーパーボウルでは、ホイットニー・ヒューストンが正反対のパフォーマンスを見せた。彼女はこれまでで最も魅力的に国家を歌い上げてみせたのだ。そのときは湾岸戦争で多国籍軍によるクウェート奪回作戦「砂漠の嵐作戦」が進行中とあって、米国は愛国的な空気に包まれていた。

白いヘッドバンドにトレーニングウェアという出で立ちのヒューストンが大きく口を開くと、スピーカーから神がかった声が流れ出た(これは前もって録音したもので、パフォーマンスは口パクだった。この音源はヒットシングルとなり、2001年9月11日の米同時多発テロ後に再リリースされた)。

第25回スーパーボウルで国歌を高らかに歌い上げるホイットニー・ヒューストン。PHOTO: GEORGE ROSE/GETTY IMAGES

テレビカメラは、ヒューストンから敬礼する黒人と白人の軍人、目を大きく見開く観客、ずらりと並んだ旗が風に揺れる様子を映していった。長年、ヒューストンの編曲者でバンドリーダーだったリッキー・マイナーの説明によると、ヒューストンは1983年にバスケットボールのNBAオールスターゲームでマーヴィン・ゲイが歌ったソウル色の強い国歌斉唱に触発されていたのだという。マイナーはヒューストンのために、拍子を4分の3から4分の4に変え、彼女に一音一音を長く伸ばして歌える時間を与えた。

ふたつの国歌斉唱が表していたもの

劇作家のトニー・クシュナーは当時、『エンジェルス・イン・アメリカ』を執筆中だったが、ベリーズという黒人の同性愛者の登場人物に次の台詞を言わせている。

「国歌を書いた南部の貧乏白人[編注:作詞者は東部メリーランド出身の詩人・弁護士のフランシス・スコット・キーで、南部の貧乏白人ではない]はちゃんとわかっていた。『自由』という歌詞を誰にも出せないような高い音にはめたんだから」。バーはその音を出すために、食肉処理される豚のように叫ばなければならなかったが、ヒューストンはそのEフラットを最高に澄んだベルの音のように歌いあげ、おまけにもっと高い音もいくつか加えた。

ジャーナリストで映画脚本家のシンク・ヘンダーソンは、ヒューストンの国歌斉唱の脱構築(ディコンストラクション)を試みた記事で、次のように記している。

「ロケット弾や爆弾について書いた歌(国歌のこと)に関心をもたせるために、国家の暴力装置はたびたび、黒人を制するために行使されてきた。だが、ヒューストンはそこに変化をもたらした」

彼女は国歌に、自分が幼いときから聞いてきたゴスペルの輝きをふんだんに盛り込み、自分が抱くイメージにつくり変えたのだ(彼女の母はゴスペル歌手のシシー・ヒューストンで、ディオンヌ・ワーウィックはいとこにあたる)。彼女が「自由」の部分につけ加えた演出は米国の黒人運動と共鳴していたが、ホイットニーの全作品と同じように、彼女の国歌は広く一般に好まれるクロスオーヴァーヒットとなった。

四半世紀の時が過ぎたいま、ふたつの国歌斉唱が表していたもの(黒人の優秀さ、白人の俗悪さ)は、不安になるほど現状と共鳴する。それは直近のふたりの大統領(オバマとトランプ)のせいだけではなく、バーとヒューストンの絡み合った生き方のせいであり、国歌そのもののせいでもある。

結局のところ、黒人歌手にバーの不敬さを思いつけない[編注:バーはトランプ支持者で、たびたび人種差別発言をして物議をかもしている]のは、黒人アスリートがヒステリー反応を起こさずに国歌斉唱中の起立拒否を示す膝をつく動作ができないのと同じなのだ。

彼女が抱えていた秘密

スーパーボウルにおけるヒューストンのパフォーマンスは、2018年7月6日に米国で公開されたケヴィン・マクドナルド監督による心を奪うドキュメンタリー映画『Whitney』(日本未公開)の中盤に登場する。実際、あの国歌斉唱は彼女のキャリアでも中間点に位置している。

最初の3枚のアルバムを音楽プロデューサーのクライヴ・デイヴィスのもとでアリスタ・レコードからリリースしてスターになったあと、この国歌斉唱があった。その1年後に映画『ボディガード』の主題歌で、ドリー・パートンのカヴァー曲『オールウェイズ・ラヴ・ユー』によって世界を席巻したのだ。

それから長く苦悶に満ちた、薬物乱用による転落が始まる(最初に大麻所持で逮捕されたのは2000年のことだった)。彼女の転落は12年、ザ・ビヴァリー・ヒルトンホテルの浴槽での死によって終わりを告げた。

カンヌ映画祭でプレミア上映された本作品は彼女の人生を描いており、エヴェレストのように切り立った登りと下りがある。この映画はヒューストンの死後に出された最初のドキュメンタリーではないが、彼女の業績も没落も驚くほど深く掘り下げて描いている。

ドキュメンタリー映画『Whitney』の予告編

かつて『TIME』誌に「ソウルのプロムクイーン」と呼ばれたヒューストンには、いい子やプリンセスのイメージがつきまとっていた。そのイメージは彼女をポピュラー音楽の主流に受け入れられる存在にしたが、破滅の原因を目立たなくさせるか、さらには悪化させるものでもあった。

ヒューストンを有名にした歌(「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」「アイ・ワナ・ダンス・ウィズ・サムバディ(邦題:すてきなSomebody)」「ワン・モーメント・イン・タイム」)はダンサブルでハミングしやすく、少し甘ったるい歌だが、彼女自身についてはほとんど何も教えてくれない。

このドキュメンタリーが鮮やかに並べ立てているように、彼女は必要以上の秘密を抱えていた。親友でありアシスタントでもあったロビン・クロフォードとの関係は、性的なものだけでなく、彼女の中核となるものだった。このため、15年間にわたってヒューストンの夫だったボビー・ブラウンとクロフォードは、彼女を取り合っていた。

本作の監督であるマクドナルド(『ボブ・マーリー/ルーツ・オブ・レジェンド』や『ラスト・キング・オブ・スコットランド』の監督)は巧みなインタヴューを通じて、ヒューストンが幼少時に性的虐待を受けていたという、説得力のある推測をしている。

そのうえで、タブロイド紙にひどく書かれヒューストンを死に追い込んでいく薬物依存についても、もちろん描かれる。ある親友の女性によると、ヒューストンは薬物が好きだから使うようになったと語っていたという。しかし、マクドナルドは薬物依存がもっと深刻な問題──性的抑圧なのか、トラウマなのか、名声の代償なのか、それとも単なる孤独なのか──が原因となって悪化した可能性を探っている。

それでも、ヒューストンは同時代を生きたマイケル・ジャクソンやマドンナ、彼女の後継者のビヨンセのように、自分の苦悩を音楽に持ち込んだり、限界に挑んだりするタイプではなかった。だから、彼女の矛盾は私生活に収まりきらなくなるまで、表には出なかった。彼女がもっていたのは10億人に1人の声で、しかもその声は超人的な音域だけでなく、かすかに震える繊細さも備えていた。

言うなれば、彼女はバザール(市場)で売られている最上質のシルクをもっていて、その使い方を熟知していたのだ。マクドナルドは1983年、19歳の彼女がテレビ初出演を果たした「マーヴ・グリフィン・ショー」で、『ホーム』(ミュージカル『ウィズ』のなかの楽曲)を歌っている映像をたっぷり流してくれる。

彼女の音楽的才能には議論の余地がない。だからこそ、そのすべてが失われてしまったことを思うと、いっそう悲しみと怒りが募るのだ。

彼女が言いたかったこと

この映画と、アシフ・カパディア監督の『エイミー Amy』とを比較せずにはいられない。長編ドキュメンタリー部門のアカデミー賞に輝いたその作品は、27歳で死んだイギリスの歌姫エイミー・ワインハウスの成功と転落の人生を記録したものだ。カパディアは話し手の顔のクローズアップを避けたが、マクドナルドは感情に訴えかける悲しげな顔をスクリーンに大きく映し出す。

映画『AMY エイミー』トレイラー。本作は世界的に高く評価され、第88回アカデミー賞では長編ドキュメンタリー映画賞を受賞している。VIDEO COURTESY OF MERMAID FILM

兄たちや友人、ちょっとした知り合い、ボビー・ブラウン。アップで次々に映し出される彼らは、古代ギリシア劇のコロス(合唱隊)や、イネイブラー(人が悪癖や犯罪などに染まっていくのを黙認ないし放置している身近な人)、犯罪現場の傍観者のように見えてくる。最近のもう1本のドキュメンタリー映画『Whitney: Can I Be Me』(監督はイギリス人のニコラス・ブルームフィールド)とは違って、マクドナルドの作品はヒューストンの家族が関わっているが、彼は家族の言いなりにはならなかった。マクドナルドは相反する見方や埋もれていた真実を引き出せるだけの綿密な調査をしている。

マクドナルドはまた、彼女の矛盾したキャリアを強調するために、衝撃的で破壊的なカットを巧妙に使った。国歌斉唱の場面は、ヒューストンの高揚感みなぎるパフォーマンスと市民暴動や警察の暴力行為の映像の間に入れられている(国歌斉唱の2カ月後に、白人警官による黒人のロドニー・キング殴打事件が起きたのだ)。

それより前のコマでは、ヒューストンが歌い踊る、パステルカラーの色調の『アイ・ワナ・ダンス・ウィズ・サムバディ』の映像が、ロナルド・レーガン、コカ・コーラのCM、その他の陽気な80年代米国を象徴する短いシーンの間に挿入されている。

ホイットニー・ヒューストンの代表曲のひとつ「I Wanna Dance with Somebody(邦題:すてきなSomebody )。1987年にリリースされ、全米ナンバーワンヒットになった。

それから場面は、ヒューストンの幼少時に影を落とした1967年のニューアーク暴動[編注:ニュージャージー州ニューアークで26名の死者、700名以上の負傷者を出した黒人による暴動]へと切り換わる。この作品が言外に意味するものは、ヒューストンがまとっていた広く一般に好まれる「プロムクイーン」のイメージは、単に彼女の個人的な苦悩を隠すだけのものではなかったということである。

そのイメージは、人種問題を克服したあとに得られるはずの「人と人のつながり」という幻想だったのだ。ときにそれは逆効果となることもあった。

1989年のソウル・トレイン・ミュージック・アワード[編注:米国で毎年開催されるブラックミュージックの芸能賞授賞式]で彼女の名前はブーイングを浴びせられた。そして、彼女の母親は観客が「ホワイトィー(White-y)!」と繰り返し唱和するのを聞かされた。

俳優でコメディアンのアーセニオ・ホールは、のちに自身のトーク番組で、ホイットニーにそのときの反発について尋ねた。「観客に『あれは一体なんなの?』とは言えないよね」。もうひとりのゲストのロザンヌ・バーの隣で、ヒューストンはこう答えた。「ほんとにそう言いたいわ。ほかにも言いたいことがある。でも…」

ヒューストンが新しい道を切り開いてきたキャリアのなかで、言いたかったこと、そして言わなかったことを考えるとじれったいし、痛ましい。われわれは、彼女がステージに立っているときとステージから降りたときに残していった手がかりの痕跡だけで、我慢するしかないのだろう。

マイケル・シュルマン|MICHAEL SCHULMAN
2006年から『The New Yorker』に寄稿。『Going On About Town』の舞台監修者で、『The New Yorker』の「Talk of the Town」に掲載されたエッセイは100篇を超える。取材対象は幅広く、ピーウィー・ハーマン、キャリー・フィッシャー、ペドロ・アルモドバル、エマ・トンプソン、「エヴリシングベーグル」の発明者など。ニューヨークタイムズのベストセラー『Her Again!: Becoming Meryl Streep』の著者でもある。


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TEXT BY MICHAEL SCHULMAN

TRANSLATION BY NORIAKI TAKAHASHI