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議員失格(上) ボクがたった3カ月で参院議員をやめた本当の理由 水道橋博士の藝人余録/5

水道橋博士
水道橋博士

水道橋博士が本誌だけに告白 

 水道橋博士が帰ってきた。昨年7月の参院選で当選を果たすも、うつ症状によって早々に議員辞職。私たちに心配と不可解を残して、時代の表舞台から消えた経緯の深層には何があったのか? 博士が、本誌だけに内心を赤裸々に告白した―。

当選の歓喜のなかで崩壊の予感が 山本太郎れいわ代表に命を救われた

 恥の多い人生を送ってきました―。

 自分には議員の生活というものが、見当がつかないのです。「猿は木から落ちても猿だが、議員は選挙に落ちればただの人だ」とは先人の教えですが、自らが議員職を放棄して辞職をすれば、もはやそれは「ただの人以下」なのです。

 そのことを日々反省し自覚しながら読者の皆様に改めてご挨拶(あいさつ)をさせていただきます。

「恥ずかしながら帰ってまいりました!」

 元日本兵・横井庄一さんの昭和の流行語と共に再び本誌に復帰しました自分は、水道橋博士61歳、たけし軍団のメンタル傷痍(しょうい)軍人、元・参議院議員です。<br>

 昨年7月10日投開票の参議院議員選挙にれいわ新選組から比例区に出馬して、晴れて当選したものの鬱(うつ)病を再発させて10月には休養を発表、そして今年1月に議員辞職してしまった「議員失格」、ただの役立たずでございます。

 たった3カ月の参議員生活はかつての民主党・大橋巨泉の最短6カ月を抜くタレント議員のスピード辞職という不名誉な記録でした。

 辞職後も「この世から消えてなくなりたい」と思うほど強い自責の念に苛(さいな)まれながらも、7カ月にわたる「毎日がサンデー」の療養の日々を送り、今年の夏から細々とではありますが芸人稼業に復帰させていただきました。

 しかし本来なら余生を楽しむべき還暦の歳(とし)に、なぜここまで振幅の激しい人生になってしまったのか、しばし懺悔(ざんげ)の値打ちもない話で振り返らせてください。

すべては不意打ちの裁判から始まった

 2022年10月3日の深夜―。

「代表、正直に言います。『今、死んでお詫(わ)びしたい』、そういう希死念慮がある鬱状態が1週間以上続いています。自分はもう限界です。これ以上は党にご迷惑がかかるので議員辞職をさせてください!」

 自室のパソコンのLINE電話をビデオ通話に切り替えて山本太郎れいわ新選組代表の目を縋(すが)るように見て直訴しました。山本代表は表情を変えず、つとめて冷静に言いました。

「博士さん、よく打ち明けてくださいました。今まで博士さんの深刻な状態に気づかないままでいたことをまず謝らせてください。そして何より大事なものは議席なんかではなく博士の心と体、健康と命です。党に迷惑がかかるなどと一ミリも反省しないでください。明日から国会にも一切来ていただく必要はありません。後のことはすべて私にお任せください。とにかく今は何も考えずに一刻も早くお休みしてください。今後のことは私と博士の奥様とで話し合わせてください」

 

今もあの日の山本代表の迅速で柔らかな判断には一命を救われた想(おも)いに堪(た)えません―。

 電話を切ると、ボクはそのまま敷きっぱなしの布団に倒れ込みました。乾いた雑巾を絞るようにして汲(く)み出していたエネルギーは完全にエンプティであり、そしてパソコンのOSの電源が切れたように何もかもOFFになると……脳は思考が止まり、体が鉛に包まれたように重く固まり、精神はコールタールのような漆黒の海、「ただの人以下」の世界へと深く沈みゆき、季節を越えても立ち上がることはなかったのです。

 

 思えば2022年に還暦を迎えたボクはいやが上にも年齢を意識していて本来はゆっくりとした老後を迎えることになると思っていました。3年前にも鬱を患っており、そのとき人生観を改め、芸能界という生存を賭けた戦場からの緩やかなフェイドアウトも密(ひそ)かに考えていました。

 そんな静かな老後を意識していたボクの運命を変えたのは、寝耳に水の不意打ちの裁判からです。

 と、切り出しましたが裁判の話は現在進行形で係争中であります。ですので読者には起点から振り返り、来る12月21日の第二審の判決に至るまでの経緯を正確に追っていただきたいので、ぜひ、ボクが作ったnoteの記述を確認していただきたい。

 元々は、2月にボクがとある政治系YouTuberの投稿動画を紹介したことで、その日のうちに松井一郎大阪市長より《これらの誹謗(ひぼう)中傷デマは名誉毀損(きそん)の判決が出ています。法的手続きします》さらに《水道橋さんは有名人で影響があるのでリツイートされた方も同様に対応致します》 と書かれたことからです。

 そして、実際、2022年4月15日、訴状が所属事務所へ送られてきました。結果、ボクはいや応無しに賠償金550万円の名誉毀損裁判を大阪地裁に起こされてしまったのです。  

 タレントが政治家の訴訟対象になった場合、その政治家の政治力、影響力を忖度(そんたく)してタレント側のテレビやラジオの出演が打ち切られるのは考えられることです。ボクの場合、事実として、裁判を理由に出演番組への自粛要請が続きました。

 その後、ボク側がこの裁判に感じた「スラップ訴訟」(日本語に直すと「恐喝訴訟」「嫌がらせ訴訟」を意味する言葉)の対抗措置として、SNSの発信、動画の配信、抗議ライブ開催を続けてきましたが、やがて運命の分かれ道となる5月15日が訪れます。

政治家志願を挫く同調圧力がある

 この日、フリー記者から「れいわ新選組が溝の口駅で遊説をしているから」と誘われ遥々(はるばる)と川崎にまで出向きました。山本太郎代表への質疑応答タイムで、ボクの窮状を話し、「国会で反スラップ訴訟法を作ってください!」と直訴したところ、「博士、ご自身が選挙に出て政治家になって国会でその法律を作ってみてはいかがですか!」と逆に出馬要請されたのです。

 このやりとりに事前打ち合わせは一切ありません。帰宅して家族に説明し、翌日、師匠・ビートたけしにお目通りが叶(かな)い、「出馬は本人の自由だが、俺は関係ないし応援は一切しない」との言質を頂きつつ、3日後には「反スラップ訴訟法の立法化」を公約として出馬宣言と相成りました。

 たった3日で出馬を決断する例は過去にもレアケースでしょう。しかもいきなり国政選挙です。喩(たと)えて言えば、誘われて登山部にフラリと入ったら、いきなりエベレスト登頂を目指すようなものです。

選挙はお祭りであり、非日常の大波だったと振り返る水道橋博士
選挙はお祭りであり、非日常の大波だったと振り返る水道橋博士

 実際、山の頂を目指すにはあまりにも下準備なしの過酷な初陣でした。

 最初は「選挙コンサルタント」を名乗る有象無象の接触がありましたが、あまりにも莫大(ばくだい)な選挙資金がかかるため、自宅の隣のマンションの一室を選対事務所に借り、完全に自前の手作り選挙に取り組みました。

 まるで梁山泊のように、選挙に協力してくださる方がひとり、ふたりと増えていきました。ボクの選対スタッフは元弟子、元マネージャー、元トレーナーなどなど、ボクの過去に繋がりはありますが選挙は誰もが初体験の初心者ばかりでした。同時にこの機に以前から懇意にしていた友が次々と去ってもいきました。素人でもタレントでも、政治への新規参入には攻撃誘発性を有するものです。そこには大きな喪失感、ダメージを負いました。今まで60年間をかけて培ってきた人間関係の再編成が突如始まるのですから。

 世襲以外の人の政治への参入障壁は、高額な供託金はもちろんありますが、一般人の政治家への志を挫(くじ)くことで平穏な秩序を維持していきたい日本特有の同調圧力があります。

 国政選挙の投票率が50%を割り、現政権は全有権者のたった20%の支持だけで「お上(かみ)」として成り立つことの底には、普通の人がある日、意志をもって政治に参加することを、社会の異分子として白眼視する偏見が長く横たわっていることを改めて実感しました。

 かくいうボク自身も長年、タレント議員に対して批判的な論陣を張ってきただけに「よく言うよ!」と批判されるのは仕方のないこと、そんな過去の言動だけでなく、人生の略歴が常に問われ続ける、それが「公人」になることだと改めて自覚させられました。

 公示前は、毎朝、毎夕の駅前の辻(つじ)立ちが日課になりました。来る日も来る日も行き交う通勤客に声掛けを行いますが、当然のことながら大半の人は無関心のままに通り過ぎます。これには心が折れ、大いに不安が広がりますが、これもまた候補者が受ける洗礼なのでしょう。

選挙という祭りの高揚感、そして当選

昨年夏の参院選
昨年夏の参院選

 6月22日の公示日は偶然にも結婚20年目の記念日に重なり、第一声には妻も登壇してくれました。選挙には家族の後方支援は必須です。この日からボクは全国比例区候補者として日本列島を縦断、東奔西走が続きます。候補者に支給されるJRの特殊乗車券、ド派手な街宣車を使って東は仙台から西は博多まで遊説旅をこなしました。移動の間も取材やアンケートは引っ切りなし、早朝から深夜に至るまでまったく休みなしです。しかも真夏の選挙のため体力の消耗も激しく、熱中症寸前が続く中、房総半島巡りの際には、無人の駅前に蜃気楼(しんきろう)が見えるほどでした。

 しかし、苦しいことばかりではなく選挙期間中の高揚感はかつて経験のないものでした。今思えば、やはり選挙は生殺与奪を賭けた戦(いくさ)であり、政(まつりごと)=お祭りなのです。仲間が担ぐ神輿(みこし)に乗ってマイクを握り全国を演説漫遊することは非日常の大波に乗ることです。

 既成政党の上意下達システムで動員された組織型選挙と違い、各地で幟(のぼり)を掲げたボランティアが三三五五と集まり、陣を組み集いの輪を広げる「れいわ」型のゲリラ選挙には心奪われるものがありました。

 また全国各地の繁華街を練り歩いたことで、シャッター通りの現実、地方の疲弊を目の当たりにしました。長年、東京でマスコミの内側に居て、記者が書いた記事を読み、体感のない意見を口にしていただけのボクは、知られざる現実を見た思いにもなりました。

 ご存知の通り選挙期間はマスコミが選挙報道を控えます。ボクの場合は準備期間すらないので当初は立候補したことすら知らない人が多く、ドブ板選挙だけでなく、SNSを駆使した空中戦も随時続けました。

 選挙カーの定番のウグイス嬢のアナウンスを「ちり紙交換」のパロディにしたり、遊説先の松井一郎、麻生太郎、枝野幸男などに突撃しては、その都度、映像をSNSに上げてバズらせる戦略的な話題作りを心掛けました。これは特に若年層には効果がありました。選挙の前半はスラップ訴訟を世間に知らしめることだけが目的で、「当選できるはずがない」と思っていましたが、後半には演説の反応にも手応えが出てきて、事前調査の認知度、支持率も急上昇を果たしていました。

 7月10日の投開票、明けて午前2時、当確がNHK速報で出ました。れいわの比例枠、個人でトップの11万7794票の負託を受けて、ボクは当選を決めたのです。

 最初の選挙で初当選、つまり「議員合格」することは当初には想定外のことでした。しかし「バンザイ!」と歓喜に浸る人生の絶頂の瞬間にも、心の深層では、押し寄せる大波で戯れるハイテンションが、日常の回帰とともに引き潮となり、自分が波間に沈みゆくことになるだろう、その震えるような予兆を感じていたのは数度の鬱病経験者であるが故だと思います。

 ボクがなぜ、鬱病再発を経て「議員失格」に至るかは次回に持ち越したいと思います。(以下次号)

すいどうばしはかせ

 1962年、岡山県生まれ。お笑い芸人。玉袋筋太郎とのコンビで「浅草キッド」を結成。独自の批評精神を発揮したエッセーなどでも注目され、著書に『藝人春秋』1〜3、『水道橋博士の異常な愛情』ほか多数ある

「サンデー毎日12月17日号」表紙
「サンデー毎日12月17日号」表紙

 12月5日発売の「サンデー毎日12月17日号」には、ほかにも「石破茂が岸田『死に体』政局を斬る」「上野千鶴子が怒りの告白 このままでは介護保険は詐欺と同じだ」「脳と体が老けない3大食品」などの記事も掲載しています。

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