箸折峠(はしおりとうげ) 392m (2003.3.30) 地図
・ 熊野古道、中辺路の峠である。
滝尻から十丈峠、逢坂峠を過ぎ、国道の道の駅「熊野古道中辺路」付近から山道を登っていくと箸折峠に到達する。
箸折峠には中辺路のシンボル「牛馬童子」像があるのだ。道理で道の駅も賑わっているし、にわかハイカーも山道に入り込んでいる。道の駅「熊野古道中辺路」付近
旧国道を横切って、少し行くと、峠に到着する。峠横の小高い塚のような所に人が集まっている。
箸折峠 峠横の塚
ここは花山院が御経を埋めたところと伝えられ、食事の際、カヤの軸を折って箸にしたので箸折峠。またカヤの赤い部分に露が伝うのを見て「血か露か?」と尋ねられたので、この土地が近露になったという。
しかし花山院には悪いが、その手の話は殆どが嘘っぱちで、後世もしくは取り巻きのでっち上げだ。日本語ってのは、もともと音から始まっていて、それに漢字を当てはめたものなのである。
箸折峠も地形図から見ると、尾根の途中を越えているだけであるため片一方が折れている。端(はし)が折れている峠というのが語源なのではないかな。
近露については、天皇になったことのあるほどのお方が「血か露か?」と尋ねるほど、お馬鹿でもないだろうから、やはり変梃な名前を目にした後世の人々の創作と思われる。
古文書によると、1174年以前は「近湯」とか「近津湯」記されているようだ。近露温泉が本当にあるわけだから、熊野本宮付近の温泉に較べて「近い温泉」だとか近露王子付近の川で禊ぎをした(史実のようです)というのが地名としての始まりだと思う。
牛馬童子像は花山院を模したものといわれ、中辺路のシンボルになっている。
牛馬童子像(高さ50cm程度なんだな)
峠を下り出すと、案外な急坂である。近露の里も一望にできて気持ちいい。
近露を一望にする。石畳あり。 近露王子
花山院
(ほとんど某ページの受け売り)
冷泉天皇の第一皇子。母は贈皇后宮藤原懐子。安和二年、二歳の時円融天皇の皇太子となる。天元五年(982)、元服。永観二年(984)八月、即位。この時十七歳。藤原義懐(よしちか)・同惟茂(これしげ)を側近として積極的な新政策の実現をはかったが、寛和二年(986)六月、退位して花山寺で出家。
『大鏡』によれば、藤原道兼に共に出家しようと誘われ、欺かれての退位であった(17歳で即位して19歳で退位したわけだね)というが、『栄花物語』は寵愛した弘徽殿女御を失った悲嘆から出家を決意したとする。
出家後は比叡山・熊野・播磨書写山などを遍歴して仏道修行に励み、すぐれた法力を身につけた。正暦四年(993)頃(26歳だね)帰京して東院に住む。邸宅には数寄を凝らし、風雅の暮らしを送る一方、悪僧を周囲に侍らせて様々な奇行をなしたという(『大鏡』など)。寛弘五年(1008)二月八日、病により崩御。四十一歳。
和歌を好み、在位中の寛和元年・二年、内裏で歌合を主催。退位後もたびたび歌合を催し、自らも歌を詠んだ。寛弘二、三年(1005〜06)頃、公任撰の『拾遺抄』を増補し、第三勅撰和歌集『拾遺和歌集』を親撰したとされている。