平成の竹スキー発祥の地、太平開基百年碑

旅ラン

令和5年(2023)5月4日(木祝) 

札幌市(元町~「平成の竹スキー発祥の地」~東苗穂(札幌サッカーアミューズメントパーク)~丘珠~太平公園「太平開基百年碑」~麻生

元町駅~東苗穂 約6.5km 55分
東苗穂~丘珠~太平~麻生 約13km 2時間00分

 息子が岩見沢教育大学に入学し、サッカー部に入部したので、そのチームの天皇杯予選を見学に行く。しかし、息子は出場していない。地下鉄の元町駅から東苗穂のサッカー場までとりあえず走る。
 札苗まちづくりセンターモエレ交流センターのところに、「平成の竹スキー発祥の地」があった。よくわからないが、以下のリンクで説明されている。
https://www.city.sapporo.jp/higashi/satsunae/100106discovery_24.html へのリンク

 サッカー場に到着し、試合の前半を見学し、後半も見学。しかし、敗色濃厚だったので、見学を取りやめ、今日の目的地太平公園に向かう。
 太平公園のパークゴルフ場の中には、「太平開基百年碑」があった。

【太平開基百年碑】について(北海道札幌市北区太平12条3丁目1)
 台座の正面には、 「碑文 我らが安住の郷太平百年の礎は、明治二十二年徳島・和歌山県等から、数世帯の入植によって始まる。 当時太平は千古不斧の大樹、脛をも没する思いの湿原など、まさに原始の地であり、打ち下ろす開拓の一斧一鍬は、言語に絶する忍耐と、苦闘の極限であったことが容易に想像される。 かくの如き先人の地と、汗の努力が、今日札幌市の一角に緑ゆたかな一大理想郷を育て、更になお整斎発展を遂げつつある。 開基百年を迎えるにあたり先人の偉業を子々孫々に伝え、永くその功績を顕彰しここに開基百年碑を建立す。 昭和六十三年十月吉日 太平開基百年記念事業協賛会」 と刻まれた石板がはめ込まれています。
  碑の背面には、 「太平の歩み この地 太平の古くは アカダモ ハンノキなどがうっ蒼と生い繁る昼なお暗い未踏の湿地帯であった。創成川の開削は明治十九年頃に行われ、明治二十二年より本州各地から入植 開拓の鍬がおろされた。当時、農産物の成育は悪く苦難を重ねたが、土地改良の結果沃土となり良質な農産物が生産されるようになった。 創成川と並行する国道二三一号線(石狩街道)は、その昔、石狩・厚田・当別方面から木材・農水産物・生活必需品を札幌へ搬入する要路であった。地盤の軟弱な悪路であったが、豊平川より馬橇で砂利を運搬して改良された。昭和三十七年には舗装道路が完成、同六十三年には六車線として主要幹線の役割を果たしている。街道筋には大正二年先人達が自らの手で植栽したポプラ並木も樹齢七十年を超え、天を指して威容を見せている。 昭和三十年篠路村は札幌市に合併、三十五戸ほどの純農村の地も今では戸数、三千八百余戸人口、一万二千余の大住宅街として変貌を遂げた。 昭和四十七年には北警察署太平巡査派出所、北区土木事業所、太平簡易郵便局が開設。同四十九年には開拓当時からの願望であった太平小学校、太平保育園が新設。続いて太平中学校、太平南小学校、太平南幼稚園が開設された。また、同五十九年には、北区太平連絡所が新設、同時に太平連合町内会も発足し、同六十一年児童会館が完成した。札沼線は昭和九年に開通したが同六十一年に、太平・百合が原の両駅が設置された。今やこの地は、道路・公園・上下水道がほぼ完備され、大札幌市の理想的なベッドタウンとしての様相を呈している。 幾多の変遷を経て、草創期より爾来百年、昭和六十三年(一九八八年)を開基百年と定め、地域住民挙ってこれを祝し、先人の労苦を偲んで子々孫々に伝え、継承することが肝要と信じ、これを記す。 昭和六十三年十月吉日 太平開基百年記念事業協賛会」 と刻まれている。
 傍らの説明板には、「太平開基百年碑 この地は明治22年(1889年)に徳島県、和歌山県などからの入植者によって開拓が始まった。北海道の冬の厳しい寒さと闘いながら未開の地を切り開き、作物を作ることが出来るようにするまでの労苦は計り知れないものがあったと言われている。 この碑は、先人の労苦をしのび、入植以来百年を記念して昭和63年(1988年)に建立された。」 と記されている。

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