散居村と

1⃣ 散居村とは

水田の中に家が点在する集落の形態を「散居村」と言います。砺波平野の散居村はカイニョと呼ばれる緑豊かな屋敷林に囲まれた家々が、平野一面に碁石を散りばめた様に点在しています。

砺波平野の散居村の特徴は、庄川と小矢部川が造った扇状地です。およそ220Km2(10Km×22Km)の広さを持つ扇状地性の平野です。そこに屋敷林に囲まれた約8000戸の農家が点在して散居景観を作っている。

緑に覆われた小島が大海原に浮かぶ姿にも似て大変美しく、日本の農村の原風景のひとつと言われています.

2⃣ 散居村の成立

砺波平野は扇状地で、地表の土が薄く、 表土の下はすぐに砂礫(表土がない)に成っています。未開拓地を開くとき、まず、微高地の耕土の厚いところを選んで住居を定め、その周囲を開拓した。

農地が家の周りにあることで、日常の農作業(水管理、肥料、農薬散布、刈り取った後の稲の運搬)を効率的(農業経営上有利)に行えるようにした。

砺波平野で人々が稲作を始めたのは、1500年以上前の事です。散居村の形が出来たのは、今から約500年前(庄川が現在の位置になった)の中世から近世にかけてです。

1 砺波散居村の景観

砺波平野では、家々が一軒一軒離れていて点在している。この集落の形態を「散村(物理用語)」と言います。

家々は、「カイニョ」と呼ばれるスギを中心とする屋敷林に包まれています。今では、ほ場整備事業により、大きな田と直線的な道路と成っています。展望台からの眺めは、碁石をまき散らした様な美しん散居景観を眺めることが出来ます。

この景観が出来たのは、今から500年程度前とされ、平野中央部の開拓が進む時期と重なります。【現在の庄川の位置になった時代】

2 散居村の成立

➊ 砺波平野は主に庄川の扇状地であった。砂礫が厚く堆積し、地表の土壌薄く、複雑な自然起状に富んでいました。開拓者は、少し高い土地に居家を構え、その周辺を開拓した。

➋ 古い河川跡が水路として残り、水量も豊富なため、米作りが盛んになりました。一方、「ザル田」と呼ばれ、水持ちの悪いく水管理が大変でした。農作業を効率よくする為には、家の周りに耕地があれば管理がしやすくなり現在の散居となったと思われます。

➌ 加賀藩は、散居村による農業経営(農業政策)の利点を認めました。庄川(暴れ川)の治水事業を行い、農民と共に「松川除」等の堤防工事、用水路の整備を行い、今の散居村となりました。

砺波平野は 

・砺波地方では、水稲栽培

・戦国時代(奈良時代)から散居村はあった

・砺波平野は、庄川の扇状地で土地の保水性は非常に弱く、水はすぐ地下浸透し無くなる(下層は砂礫層)

・扇状地の末端で、勾配の緩いところでは、集村が多い

・散居村では、農作業の管理する為に、家の周りに田んぼが集まっている

  ・土地の勾配がきつい為、簡単に水の配分が出来る。

  ・人が生きるために、暴風雪を防ぐ家を作る。

散村という集落形態は、砺波平野で暮らした先人たちが、自然に働きかけて自然を改変し、自然との共生を図ってきた知恵の結晶ともいえる

散居村の成立(学者の研究から)

  • 小川琢治 明治31年

 【孤立荘宅】どの家も周りに耕地を有している 

正倉院文書にある東大寺の越中国射水郡の開田地図より

  • 牧野信之介 

 【加賀藩の政策によって成立した】

  • 村松繁樹 昭和6年

 【自然環境説】

 扇状地の自然と開拓事情、稲作慣行によって成立、持続した

  • 水津一郎 

【農地開拓・集落形成の過程】

出雲平野:

出雲平野では屋敷林は「築地松(ついじまつ)」と呼ばれています。
砺波平野の屋敷林と同じく、吹き付ける季節風から家を守るほかに、洪水に備えるため、屋敷を高くし、家の周りに土居(築地)を築き、それを強化するために樹木を植えたといわれています。また、「築地松」と呼ばれるように、主に植えられる樹木を松です。

丹沢平野:

砺波平野と同じく扇状地(丹沢扇状地)で屋敷林があり、丹沢平野では屋敷林を「エグネ」と呼びます。植えられる樹林も、砺波平野同様杉が中心です。

その景観は「続日本紀」の中で「水陸万頃(すいりくばんげい)」(水と大地が非常に豊かだということ)というように記されるほどです。