【ダンス評】ソロについての「私という、現象」

Co.山田うん「舞踊奇想曲『モナカ』」/ジュリー・ニオシュ振付「A.I.M.E.」『ノ・ソリチュド(私たちの孤独)』(KAAT Dance Series 2015より)

原田 広美

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〔撮影:羽鳥直志〕

「Co.山田うん(振付・演出=山田うん)」のことは、2012年3月の『季節のない街』(シアタートラム)の折に、長文を書いた。

ポスト・モダン的な会場の用い方と作品構成に加えて、瞬発的に現れる「意志」を媒介にした表現主義的な傾向が、爆発的なパワーを生んだ。その後、2014年1月の『春の祭典』『結婚』(スパイラルホール)では、「Bイメージのコンテンポラリー・ダンス」なる長文を書いた。「Bイメージ」のBとは、舞踏 Butoh/マギー・マランの『メイB』/Aに対するオルターナティヴなB、などを意味し、こうしたイメージを含んだ身体解体性と身体造形のダンスとして論じた。また、2015年1月に、男性のみで再演した『ワン◆ピース』(横浜赤レンガ倉庫1号館3階ホール)については、短文批評を寄せた。

 また、2014年11月の『十三夜』(シアタートラム)、2015年2月の、芳垣安洋/クルト・ワイルの音楽、ブレヒトの原詩による『七つの大罪』(シアターイースト)も、秀作だった。前者は、日本情緒の中に秘められた高い集中と見事なバリエーションが、魔術のように私を魅惑し、後者では、川合ロンが姉を演じ、山田と2人ですべてを演じる意外性や、山田自身の知的障害者のような役づくり、次々に紡ぎ出される破天荒な振付けが、山田の本領を露出させた。そして、このたびのー舞踊奇想曲『モナカ』である。

 舞踊奇想曲『モナカ』(音楽=ヲノサトル)では、モナカの「皮・中身・皮」という三層構造を「過去・現代・未来」に置き換えて意識し、男女16名が、一着の上下の各々をコンペイトウのようなパステルカラーの4色で、染め分けした「半袖と短パン」という衣装(=池田木綿子)で踊った。裸足のダンサー達は、3つの群に分かれて登場し、しだいに絡まり合って行く。

前術の「三層」は、舞台美術(=大津英輔+烏屋)でも表現された。客席から見た舞台正面には大きめの、左右の内壁には各々別だが小さめの、何とも言えないチギレた形状の、ぼやけた色づかいのボードが貼り付けてある。ダンサー達が、走り廻るシーンでは、走るついでに足をボードに押し当てて、身を跳ね返した者もいた。ダンサー達は、膝にはふっくらしたサポーターをつけていた。衣装は、作品の風味や身体性と密接であるが、今回のテイストは、子供からお年よりまで楽しめる、お色気ひかえめ、といった所か?             

舞踊奇想曲『モナカ』という題なのだから、和風でカワイイ、そんなものであったか、と思いながら見始めたのは事実である。それに「過去・現代・未来」が混じり合い、絡み合う、とはその通りだが、やや観念的で、案外これまでよりも難しいテーマだと思われた。それに観念だけで持ってゆくには、もっとアブストラクトな方がよさそうだが、山田の作品には、人間味がある。何かちょっと演劇的な要素や、あるいは映像などを取り入れたら軸ができるのではないか、とも考えた。

 だが中盤以降、それまでに出入りを繰り返していた3つの群が、舞台装置の形状さながらにチギレて、崩れてゆくと、カワイイ、運動的なテイストから、グッと引き込まれるアーチスティックな空気が漂い始めた。そして今回は、ソロ・パートや、男女のデュエット・シーンが、次々に現れ、これまでの作品にも同様のシーンがなかったわけではないが、それらが前よりも際立って感じられた。

 『春の祭典』で女性群舞の中心として犠牲の乙女を気高いほどの集中で踊った西山友貴、『結婚』でも山田のパートナーを踊った解体的な身体が抜群の川合ロン、またいつも目立つ所のある木原浩太など、すでに信頼を感じる贔屓のダンサー達だ。だが今回は、まず伊藤知奈美のソロが現れた時に、心を奪われた。すでに西山の犠牲の乙女がそうであったが、このカンパニーで目立つためには、相当な何かがなければならない。

 ダンスやバレエの素養のある者が多いカンパニーだが、脚を高く上げたり、ターンを何回も決める、などという伝統的な舞踊の身体技は、いっさい見られない。それらとはまったく別の、伊藤の感覚的でコンテンポラリーな、不均衡で均律ではない、名づけようもない動きに私は見入った。

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〔撮影:羽鳥直志〕

 そこに何があるのかと言えば、おそらく「心身の両極で甘受される変性意識」のようなもので、「命という、かけがえのなさを伴う普遍性」の感覚領域に突入したような状態だ。それは、言い換えれば、エゴ(我)を脱した上での「私という、現象」を請け負って、人前に曝す覚悟を決めたような状態なのではないか。古くは、舞踊の喜びは「忘我にある」とされたと聞いたことがある。

 そして、それには「目の使い方」と、「皮膚感覚の解放」も関係していると私は思うのだ。目も皮膚も、外部と内部の境目にある。エゴが、内にあるから、遠くを見るのだとも言い得るし、エゴより内の「私という、命の現象」の中に、体感を頼りに落ち着いて接触しながら動くことも予想ができる。 

〈歌舞伎〉や〈日舞〉でも、目の使い方は重要だが、どちらかというと、ここでのそれは品(しな)を取り去った〈舞踏〉に近い。要するに、〈日常の茶飯〉からピントを外した〈目の使い方〉である。その一方で、〈目の前の現実〉を直視して〈反応する〉こと、との往復も重要事項に違いない。 

この文で、すでに名前を綴った者達の他にも、飯森沙百合や、山崎眞結、小山まさし、酒井直之らにもアピールを感じた。また、この〈深遠なソロ・パート〉が出現した感触は、すでに『十三夜』にもあった。 

また振付家としての山田うんは、『春の祭典』『結婚』『七つの大罪』を見事にこなしたことに鑑みるにも、大きな舞踊テーマに立ち向かう時に、力が発揮される傾向を感じる。『季節のない街』は、舞踊の文脈とは無関係なテーマであったが、その成功裏には、原作(同名小説=山田周五郎/映画化=黒澤明『どですかでん』)の途方もない土俵と、震災への心象があったと思う。私は、山田うんの途方のなさが、好きである。今回は、伊藤知奈美を中心としたダンサー達に現れた、稀に見るほどの〈深遠なソロ・パート〉を創作の場に引き出した所に、それが見られたと言えるだろう。(KAAT神奈川芸術劇場/9月15日)

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Sylvain Prunenec in « Nos Solitudes » de Julie Nioche / A.I.M.E. © Patrick Imbert

ジュリー・ニオシュ振付「A.I.M.E.」の『ノ・ソリチュド(私たちの孤独)』を見ようと思ったのは、2009年にニオシュが岩淵多喜子との国際共同プロジェクトとして上演した『No Matter』が印象的だったからだ。それは、ニオシュが07年に開始したシリーズの一環で、和紙で形作った日本の花嫁衣装のような衣装を着た2人が立っていた。岩淵は、微動から始めて衣装から抜けだし、ニオシュは、別の一人に口に含んだ水を繰り返し衣装にかけさせて溶かしてしまった。それだけを約一時間かけて行ない、女性にとっての結婚の重さを考えさせるような作品だった。

今回は、そのニオシュが急病で降板したが、もともと本作の創作に携わり、ニオシュと交代で本作のソロを演じていたシルヴァン・プリュヌネック(男性ダンサー)が舞台を務めた。昨今のフランスでは、ヌーボー・シルク(新しいサーカス)と呼ばれる、サーカスの要素をダンス・パフォーマンスやマイム作品に取り入れる流れが顕著に見られるが、本作もその影響を得たものだろう。約80もの小さな釣鐘型の重りが天井からワイヤーで吊られ、蜘蛛の巣のように、天井下でワイヤーが網状に編まれている。そこへ登場したブリュヌが、両手足の甲と、腰の左右に、ワイヤーを繋いで身をまかせると、80もの重りのすべてが揺れるのだ。

そのマリオネットになったような状態で、プリュヌネックは床に横たわる所から始めて、片肘だけをついた状態から、やがて1mほど身が浮き上がる。それが、やがて2~3mになり、体勢と姿勢を入れ代えて変化を着けるかと思えば、突然にすべての重りが床を直撃したり、あるいは自らの身が、床上に降りて来たり、という動きで綴られる。

要は、〈重り〉と〈身体〉のバランスである。パフォーマーは、動きに伴い、天井の辺りにある滑車の角度を巧みに入れ換えて、身体に付着する6本のワイヤーの各々の長さに、自在な変化を随時つける。それゆえに、〈身体の浮き沈み〉と、〈空中でのポーズの変容〉が、可能なのである。

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Sylvain Prunenec in « Nos Solitudes » de Julie Nioche / A.I.M.E. © Patrick Imbert

エレキギターのプレイヤーが、上手の手前にいる。やがて舞台奥のスピーカーのスイッチを入れ、演奏を始めるが、互いのコミュニケーションはなく、奏者はパフォーマーに視線を注ぐこともなく、これも基本的には、プリュヌネックによるソロ・パフォーマンスであった。そして、この関係性は、タイトルの『ノ・ソリチュド(私たちの孤独)』に結ばれているという訳だ。最終場面に入る直前に、やっと2人は目を合わせてコミュニケーションを取り、笑顔の挨拶で舞台を終えたが。

この舞台の面白さは、リアルな危険との隣合わせでもある。だから女性のニオシュが演じたら、さらに見応えがあったかもしれない。また、マリオネットのように吊られていても、6本のワイヤーの長さを調節しているのは、吊られている本人なのだ。これについては、「意志などというものは思い込みであり、自分で決められることなど、実は何一つないのだ」という、フランス現代思想の逆を期せずして突いてしまったようで、面白かった。

「私という、現象」は、大きな社会の現象と共にあるが、人間の意志が何一つ社会や人生に影響を及ぼさないという所に落ち着いてしまえば、人間の尊厳は一体どこにあるということになるだろうか。私は、一つの思想が真実であれば、その逆側にも、もう一つの真実があり、実は共存しているように思うのだ。(KAAT神奈川芸術劇場/9月27日)


●原田 広美(はらだ・ひろみ)
舞踊評論家、著書に、アンナ・ハルプリンに影響を及ぼしたゲシュタルト療法の『やさしさの夢療法』(日本教文社)、『舞踏大全』(現代書館)。本年『欧州コンテンポラリー・ダンスへの旅(仮題)』(現代書館)を刊行予定。


KAAT Dance Series 2015 「舞踊奇想曲 モナカ」 
KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ(2015年9月17日(木)-20日(日))

振付・演出:山田うん
音楽:ヲノサトル
出演:飯森沙百合、伊藤知奈美、川合ロン、河内優太郎、木原浩太、小山まさし、酒井直之、城俊彦、西田祥子、西山友貴、長谷川暢、広末知沙、三田瑶子、山口将太朗、山崎眞結、山下彩子

チケット代金 前売: 3,500円、当日: 3,800円
U24チケット(24歳以下) 前売: 3,000円、 当日:3,300円(入場時要証明書)


ジュリー・ニオシュ / A.I.M.E. 『ノ・ソリチュード(私たちの孤独)』
KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ(2015年9月26日(土)-27日(日))

構想・振付:ジュリー・ニオシュ
出演:シルヴァン・プリュヌネック

音楽・演奏:アレクサンダー・メイヤー
舞台美術:ヴィルジニ・ミラ
空中装置:Haut + Court
照明:ジル・ジェントナー
衣裳:アナ・リザ
舞台監督:クリスティアン・ル・ムリニエ
現場監督:ガエタン・ルブレ

チケット料金全自由席 一般:3,000 円
学生・アンスティチュ・フランセ会員:2,500円