佐藤けいさんに聞くアナウンサー人生。

左から田村社長、佐藤けいさん、枡田絵理奈さん、広報岡野さん

ーーーー2年前にフリーアナウンサーになられましたが、今の現在の活動を教えてください。

佐藤さん:

「入社と同時に始まった『ちぐまや家族』という番組は続けておりまして、月に一回長州力さんとロケに行くことを担当しています。テレビの出演は少なくなっていますが、この10月から山口ケーブルでゴルフの番組が始まりました。局アナ時代はゴルフの仕事はできなかったので、いつかゴルフの仕事をするのは目標のひとつでもありました。12歳の小学校6年生から坂田塾というジュニアを育成する塾で札幌生の一期生としてそこから365日毎日ゴルフ漬けでした。父が趣味としてゴルフをしていて、私が始めてからは私の送迎で、自分の時間は取れていなかったそうです。1校目が熊本にありまして、有名な方で言いますと古閑美保さんや、今も現役で活躍している上田桃子さんがいらっしゃいました。次の年に札幌校が開校するということで塾生の募集がありました。軽い気持ちで受けてみたら受かって、そこから地獄の日々が続いていきました。(笑)当時は140人以上の募集があり、そこから14人選出されて、札幌校一期生としてスタートしました。

――――選ばれた14人は何を見られていたのでしょうか?

佐藤さん:

「よく聞かれるのですが、面接でしたことは体の柔軟性と親の考え方です。坂田塾が少し変わっておりまして、レッスン料やゴルフのプレーにかかる費用が一切かかりません。ゴルフクラブも企業のスポンサーからの提供で、モニターという形で提供してもらっているので基本的にお金はかからないけど、親は毎日送り迎えをし、絶対に口を出さないことが条件でした。」

――――ゴルファーからアナウンサーに切り替えたキッカケを教えてください。

佐藤さん:

「本当にこれまでゴルフしかしてこなかったので何になりたいのか、何ができるのかも分からない状態でした。ただ話すことが苦手で、内弁慶だったのでコミュニケーションを取ることが苦手でした。自分のコンプレックスをなくしたいと思ってたまたま知ったアナウンサー学校に行ってみたのがキッカケでした。そこで初めてアナウンサーという仕事を意識して、色々と勉強していく内に『この仕事をしていたら、仲間達がプロになったとき皆はプロとして、私はアナウンサーとして同じ舞台で仕事ができる瞬間が来るのではないか』と思いました。スポーツの経験も活きてきますし、恩師には『ゴルフの道を諦めてしまった佐藤さんだからこそ伝えられることがありますよ』と言ってくださったことが後押しになって、アナウンサー受験を決意しました。」

――――山口県でアナウンサーとして働くことになったのは、試験に受かった場所が山口だったから山口県に行くことになったと言うことでしょうか?

佐藤さん:

「全国各地の放送局を受験して、受けては落ち、受けては落ち・・・の繰り返しでした。北海道から鹿児島まで受験して、夜行バスに乗って朝到着して観光して、試験を受けて帰ってくるみたいな流れはよくありましたね。本当にアナウンサー受験を始めて、こんなにも大変で上手くいかないものなら、プロゴルファーを目指していた方が良かったかもしれないと思うほどでした。でも私は一度プロゴルファーという夢をプロテストも受けずに諦めてしまってそれをすごく後悔しました。もう絶対に後悔したくないと思ったので、受験を続けて大学4年生の12月25日に内定をもらって、山口に来ました。」

収録時の様子

――――実際、山口県で働かれていかがですか?

佐藤さん:

「私自身も田舎で生まれて育っているので、自然がいっぱいなこの環境にかなり合っていると思います。番組と一緒に一から成長させてもらいました。私の世代がすごくイレギュラーで、入社と同時に番組がスタートしたので入社前からロケに行って、右も左も分からない状態でのスタートでした。最初のロケが佐合島という人の少ない島に3人で行って、お金もない・食材もない中でなんとか試行錯誤して一泊するというロケでした。山に薪を拾いに行って、海で貝を拾って、島の住人の畑作業をお手伝いしてお野菜をいただいて、料理して食べて、嵐の中一日過ごすという・・・。(笑)今となっては良い思い出です。」

――――長い間勤務されて、突然tysさんを辞めようと思った経緯を聞かせてください。

佐藤さん:

「丸16年勤めていました。居心地が良く、大好きな場所でずっとそこにいたいと思っていました。でもそれまでたくさん自分の好きなことをさせてもらって、経験を積んで…この先5年後、10年後を考えたときに本来であれば、自分が上の立場に立ってバトンタッチをすべきだったと思いますが、私はまだまだもっといろいろな経験をしたかったし、まだまだ色んな人に出会いたかったし、違う世界を見たいという気持ちが強くなりました。38才で独立をすることはすごく不安もありましたが、失敗も含めて自分の人生にとって良い経験になると思って、思い切って退社を決めました。」

――――フリーアナウンサーに転身していかがですか?

佐藤さん:

「大変だとは思っていましたが、想像以上に大変でした。(笑)テレビ局にいた時は、自分が仕事をするまでにいろんな方が仕事をしてくださって自分の仕事があるというのは分かっているつもりでしたが、実際外に出てみると1つの仕事をもらうことがいかに大変か、どんなに私のことを知ってくれていても、1個の仕事を生み出すことが簡単ではないので、自分が営業の段階から全部することがいかに大変か、入ってくるものではないことが身に染みて分かりました。」

――――アナウンサー時代に印象に残っているお仕事はありますか?

佐藤さん:

「緊張したエピソードは、昔TBSに”明石家さんちゃんねる”という明石家さんまさんの番組で、アシスタント募集のオーディションがあって全国各地から一般の方から芸能事務所の方まで1000人ほど応募されて、私は『ちぐまや家族』の1企画として応募しました。最初1000人が集まって筆記試験、そこから50人まで絞られて、2次試験が特技を披露するという試験で、たまたま番組で安来節をしていたので大きなステージで披露して最後の5人まで残ることができました。面接を待っている間も、会場の中からずっと明石家さんまさんの笑い声が聞こえて、笑いを起こしてくれていたのが感動しました。」

ーーーー最後にリスナーの方に応援メッセージをお願いいたします。

佐藤さん:

「私が何か偉そうに皆さんにお伝えできることはありませんが、私はずっとプロゴルファーの夢を諦めたことをすごく後悔しています。でもその後悔があるからこそ『次は諦めないぞ。』という気持ちで仕事をしていました。私はもう41歳ですが、これからも諦めずに頑張っていきたいと思っておりますので、ぜひ皆さんも諦めずに一緒に頑張っていきましょう!」

Epiloge


いかがでしたか?山口に住んでいる方なら佐藤けいさんのことを見たこと、聞いたことがある方が多いと思います!一度夢をあきらめた経験があるからこそ、絶対にアナウンサーになることをあきらめないという強い思いが素敵だと感じました✨

作者プロフィール

田村ビルズグループ 広報 
佃屋 七星 / Nanase Tsukuya
1999年生まれ下関市出身。大学では韓国語を専攻していました。田村ビルズグループの企業理念に共感し、2022年に新卒で入社。歴史が好きで、御朱印帳を持って観光スポット巡りをすることが好きです。

SHARE With

FOLLOW Us