阿倍仲麻呂は、希代の大天才!? 李白や杜甫とも大親友だったの画像
阿倍仲麻呂は、希代の大天才!? 李白や杜甫とも大親友だったの画像

 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)を知っているだろうか。ほとんどの人は「歴史の教科書に出てきたような気がする」、「百人一首で似たような名前の人物がいたかもしれない」というおぼろげな記憶しかないだろう。しかし、中国では『日中友好の先駆者で最も貢献した人物』として知られているという。もし現代に阿倍仲麻呂のような天才がいたら日中関係はどうなっていたのか、そう想像してしまうような阿倍仲麻呂のエピソードを紹介したい。

生まれたときからエリート!? 恵まれた生い立ち

 阿倍仲麻呂が活躍したのは、奈良時代。12歳のときに元明天皇が平城京に遷都し、大宝律令が制定され、天平文化が花開いた。

●恵まれた家柄

 阿倍仲麻呂は698年(文武天皇2年)、皇別氏族の家庭に長男として誕生。祖父は飛鳥時代に活躍した将軍の阿倍比羅夫(あべのひらふ)、父は中務大輔(今でいうところのエリート官僚)の阿倍船守、弟は美作国(現在の岡山県東北部)の国司、美作守となる阿倍帯麻呂(あべのおびまろ)という家系だった。

●頭脳明晰

 幼少の頃から頭が良く、10代半ばで従八位(位階の一つ)を受けるほどだったという。エリート街道を約束されていたにもかかわらず、さらに進んだ文化や学問を学ぶため、吉備真備(きびのまきび)や玄ボウ(ボウはにちへんに方)らとともに第9次遣唐使に同行。その際、仲麻呂の従者として羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)が乗船した。

●ルックスは超イケメンだった!?

 遣唐使は日本の顔ともいえる存在だったため、学力のほかに容姿や立ち振る舞いの美しさも必要とされた。唐の詩人、儲光羲(ちょこうぎ)は仲麻呂を「容姿が美しく才能が豊か」と詩の中で称賛したそう。おそらく相当な美男子だったのではないだろうか。

●努力家で天才

 仲麻呂は717年、19歳のときに遣唐使として唐に渡った。都の長安へ渡り、太学と呼ばれる最高学府で学んだ後、科挙試験(唐の官吏登用試験)の中でも超難関の進士科を受験して見事合格。将来の活躍が約束された。

●ポイント解説:超難関!「科挙」の合格率

 当時「科挙」の合格は、留学生としては異例中の異例。どれほどの快挙だったかというと、唐の学生でも受験資格を得るのに通常15年ほどかかるカリキュラムを仲麻呂はわずか5年程度で修了。倍率はおよそ1000倍(最盛期は3000倍!)という狭き門を突破した。ちなみに、受験のチャンスは3年に1回。試験は独房に閉じ込められた状態で行われ、カンニングが発覚した場合は死刑になったという。科挙全体の合格者の平均年齢は36歳前後。進士科に限って言えば50歳でも若い部類で、ほとんどの受験生は一生をかけても合格できなかった。しかし、仲麻呂は外国人でありながら、20代半ばで合格してしまったのだ。

唐の第9代皇帝「玄宗」の側近になる

 科挙に合格し進士となった仲麻呂は第9代皇帝玄宗に仕え、唐名を朝衡(ちょうこう、または晁衡)と改める。この名前は玄宗から賜ったもので「永遠に唐の朝廷を拝し朝貢する」という意味があるのではないかと言われている。名誉なことかもしれないが、少々肩の荷が重い名前である。

 725年、27歳で洛陽の司経局校書(経書の写本・校正を行う職)に任官したのを皮切りに、728年には左拾遺(皇帝に過失があった場合にいさめて補う職)、731年には左補闕(官位が高い諫言専門の職)と官職を歴任。皇帝の側近として、直接話ができる立場となった。

●ポイント解説:数々のスターたちと親交を持つ

 この時期、進士の後輩である儲光羲をはじめ、李白(りはく/後世:詩仙と呼ばれる)、杜甫(とほ/後世:詩聖と呼ばれる)、王維(おうい/後世:詩仏と呼ばれる)といった多くの歴史的な有名詩人たちと親交を深め、文化的にも認められるように。のちに唐代の詩を網羅した漢詩集『全唐詩』の中に、仲麻呂自身の作品や彼に関する作品が複数収められていることからも交友の様子が分かる。

帰国はしなかった!?

 入唐してから17年後の733年に第10次遣唐使が到着。それを知った仲麻呂は両親が年老いたことを理由に帰国を願い出たが、玄宗は仲麻呂を息子である儀王の教育係に任命しようとしていたため許さなかった。皇帝に断られれば認めざるをえない。

 734年、仲麻呂に見送られ、吉備真備や玄ボウ、羽栗吉麻呂らが日本へ向け出航する。しかし、荒天により4隻の遣唐使船はバラバラに遭難。翌年、吉備真備、玄ボウ、羽栗吉麻呂らの乗った第1船はなんとか種子島に漂着した。第2船は江南(福建省近辺)に漂着した後、一度長安に戻り再度出帆して736年に帰国。第3船は現在のベトナム中部沿岸地方に存在したチャンパ王国に漂着したが、疫病や現地兵の襲撃によって115名のうちわずか4名しか生き残らなかった。735年までチャンパ王国に捕らえられていた4名は、唐の援助を受けて脱出。長安に戻った後、仲麻呂の助けを借りて739年にようやく帰国することができたという。

 一方、唐に残った仲麻呂は734年に玄宗の子に仕える役職、儀王友に昇進。玄宗が楊玉環(のちの楊貴妃)にうつつを抜かすなどして国が傾く中でも仕え続け、752年には衛尉少卿(兵器庫の長官)に任命された。なお、唐ではこのときすでに、安禄山(唐の節度使)と政権を握ろうとする楊国忠(楊貴妃の又従兄)の対立が高まっていたとされる。

 そしてこの年に、第12次遣唐使が来唐。第11次が中止されたため、19年ぶり、在唐35年にして仲麻呂に帰国のチャンスがめぐってきたのだ。これを逃せば次は15~20年先。54歳の仲麻呂としては事実上最後のチャンスである。それにもかかわらず、またも玄宗は仲麻呂に秘書監という閣僚級の地位を与えようとしていた。近隣諸国から多くの留学生が来唐する中、おそらくここまで出世した外国人はおらず、過去に例のない栄誉だ。後退していく唐、そして老いていく自分を前に、仲麻呂は相当葛藤しただろう。検討の末、結局、唐の高僧である鑑真がこっそりと日本へ渡ろうとしていることを知り、仲麻呂は鑑真に同行して日本に戻ることを決めた。

 753年12月15日に4隻の遣唐使船が揚州から無事出発。しかし、船団はまさかの(お約束の?)遭難。4隻のうち3隻はどうにか日本に帰着することができたが、仲麻呂や遣唐大使の藤原清河(ふじわらのきよかわ)が乗った第1船は、鑑真が乗船した第2船、第3船とともに阿児奈波島(あこなはじま、現在の沖縄本島)に寄港した後、暴風雨に遭って座礁。そのまま南に流されて、唐の領内である安南(現在のベトナム中部)に漂着した。沖縄までたどり着きこれでようやく日本へ帰れるというときに、出発地よりもっと遠くに流されるという災難。このとき、長安では仲麻呂の死亡説が流れ、李白が追悼として七言絶句『哭晁卿衡』を詠んだという。

日本晁卿辞帝都
征帆一片繞蓬壷
明月不帰沈碧海
白雲愁色満蒼梧

日本語訳:日本の友人晁衡は帝都長安を去り、船の帆をはためかせて日本へ向かった。しかし明月のように高潔な晁衡は青々とした海の底に沈み、憂いを帯びた白雲が、蒼梧の海を覆う。

 日本へ帰国するために仲麻呂らが一度長安へ戻ると、安禄山が15万の軍を率いて長安を占領するクーデターが勃発。仲麻呂は日本への帰国を断念せざるをえなくなり、再び官職に就くことにした。760年には安南総督に任命されベトナムに逆戻り。761年からハノイの安南都護府に在任して、766年に安南節度使に任じられ軍指揮官となった。そして770年1月、帰国の夢をかなえることなく長安にて73年の生涯を閉じたとされる。

●ポイント解説:鑑真は、なぜ日本へ渡ろうとしたのか?

 当時の日本は、疫病や災害が多発。脱税目的の私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が増えていた時代。仏教に深く帰依していた聖武天皇は伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させるため、栄叡(ようえい)らに信用できる僧侶を唐で捜し、連れ帰ってくるよう命じたという。

 唐へ渡った栄叡らは10年間探し続けてやっと、4万人以上に授戒を行ったとされる高僧、鑑真と出会い「戒律を日本へ伝えてほしい」と懇請する。鑑真は21人の弟子を連れて日本へ渡ることを決意するが、日本へ行きたくない弟子が役人に「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をして渡日に失敗。その後、何度も日本行きを試みるが、荒天や再三の密告によりことごとく失敗を重ねる。さらに不運なことに、5度の渡日失敗の後、両目を失明してしまう。しかし、鑑真の意志は強かった。

 753年、遣唐大使の藤原清河とともに渡日しようとすると、今度は皇帝玄宗が「鑑真のような優秀な人間は唐にいてくれなければ困る」と渡航に反対。恐れをなした藤原清河も乗船を拒否するが、遣唐副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)の取り計らいによりこっそり乗船し、渡日に成功した。

 日本へ渡った鑑真は戒律(仏教徒が守るべき道徳規範、僧侶が守るべき規則)を広め、763年に唐招提寺で亡くなるまで、日本の律宗の開祖として仏教の発展に人生を捧げた。鑑真をかたどった木像『鑑真和上坐像』は、日本最古の肖像彫刻としても知られる。

●仲麻呂が赴任した安南都護府とは?

 都護符とは、辺境警備や周辺諸民族統治などのために置かれた軍事機関のこと。つまり安南(ベトナム中部)の自治区警察のようなもの。長官は朝廷から派遣された唐人だが、その下の役職は現地の族長を任命する。

●盟友・藤原清河もすごい人だった!

 仲麻呂とともにベトナムへ漂着した藤原清河はその後、どうなったのか? 仲麻呂と同様に帰国できず、名前を「河清」と変えて唐の高官、秘書監になった。日本にいた頃は大政官の最高幹部として国政を担っていたこともあり、763年、朝廷は本人不在のまま清河を常陸国司に任命し、従三位に昇進させた。そして778年に派遣された遣唐使と、清河と唐の女性との間に生まれた娘、喜娘(きじょう)が来日。朝廷に清河が客死したことを伝えると、清河は従二位を贈位される。その後も遣唐使が派遣されるたびに清河は贈位され、836年には従一位となった。

阿倍仲麻呂は文才にも優れていた!

 仲麻呂(安部仲麿)が詠んだ和歌は『小倉百人一首』に収められている。

「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」

(現代語訳:天の原をはるかに見渡すと月が出ている。この月は私の故郷の春日にある三笠山の上に出る月と同じなのかなぁ)

 土佐日記によると、753年に日本へ帰ることが決まった際、今でいう送別会で王維らに向かって詠んだものだといわれている。また、717年に唐へ向かう船上で詠んだという説もある。日本人にもよく知られている歌だが、王維の前で詠んだのであれば、漢詩であった可能性もある。中国の西安には友好の証としてこの歌を漢詩の五言絶句の形で刻んだ歌碑が建てられている。家柄・頭脳・容姿・性格、どれをとっても完璧な仲麻呂は、一流の文化人でもあったのだ。

阿倍仲麻呂の伝説

 とにかく異次元の天才だった阿倍仲麻呂。それゆえか、その死後、さまざまな伝説がささやかれるようになった。

●伝説その1:阿倍仲麻呂は陰陽師のご先祖?

 仲麻呂は日本に息子の満月丸がいて、その子孫は日本で最も有名な陰陽師の安倍晴明である。

●伝説その2:鬼になって『金烏玉兎集』を探し回った!?

 仲麻呂が唐に渡った理由は、元正天皇から、玄宗に『金烏玉兎集』を借りてくるよう命じられたから。しかし仲麻呂が玄宗にかわいがられていたことを安禄山と楊国忠が妬み、仲麻呂を騙して幽閉してしまう。恨んだ仲麻呂は断食の末に34歳で憤死。その後も鬼となって『金烏玉兎集』を探した。

●伝説その3:鬼になって吉備真備を助ける!?

 仲麻呂が日本を捨てて唐人になったと思った朝廷は、代わりに吉備真備を派遣。道中、囲碁勝負や謎解きを仕掛けられるたびに鬼となった仲麻呂が助力し、吉備真備は『金烏玉兎集』を持ち帰ることができた。

 ちなみに『金烏玉兎集』とは『三国相傳陰陽*轄**内傳金烏玉兎集』(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう、*は機種依存文字)の略称で、安倍晴明が編纂したと伝承される、占いの専門書。実際は晴明の死後に作られたものだとされている。

●伝説その4:阿倍仲麻呂は独身だったのか?

 はっきりと記録に残されているわけではないが、唐で結婚していたのではないかといわれている。平安初期の史書『続日本紀』には、779年に朝廷が唐の使いに託して仲麻呂の遺族の妻子らに葬礼費用を送ったことが記されている。

●伝説その5:伝説の美女、楊貴妃と出会っていた!?

 この件も、仲麻呂と楊貴妃に関する史書がないため断言はできないが、玄宗に仕えていたことからまったく面識がないとは考えにくいと言われている。また、山口県には、仲麻呂とともに楊貴妃が日本に渡ったという楊貴妃渡来伝説がある。2002年には、中国のテレビ局が「山口百恵は楊貴妃の末裔かもしれない」などと報じた。

●備考:藤原仲麻呂はまったくの別人!

 阿倍仲麻呂と藤原仲麻呂は生きていた時代や名が同じで、ともに吉備真備と関わりがあるため勘違いされやすいのだが、完全な別人。藤原仲麻呂は貴族の生まれで子どもの頃から聡明、女帝の孝謙天皇もメロメロになるほどの美男子だったという点でも、阿倍仲麻呂と共通点は多い。ただ、藤原仲麻呂は邪魔な人間を次々と抹殺していった野心家の政治家。出世も早かったがあまりにも反感を買いすぎたため、最終的に官位を剥奪された上に一族とも殺された。

まとめ

 天賦の才能に恵まれたがゆえにか、日本へ帰る夢だけはかなえることができなかった阿倍仲麻呂。もし帰国できていたら、日本の歴史は変わっていたかもしれない。

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