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【美しき天守へ】家康の城 江戸城の歩き方

場所
> 千代田区
【美しき天守へ】家康の城 江戸城の歩き方

第3代将軍家光時代の寛永期天守を北から見た想像図。下の門は北桔橋門(イラスト・考証/香川元太郎)

おわだ・やすつね [歴史研究家]

1972年、東京生まれ。歴史研究家。日本城郭協会理事。静岡英和学院大学講師。早稲田大学エクステンションセンター講師。著書に『天空の城を行く』『ビジュアルワイド 図解 日本の城・城合戦』や、父親で歴史学者の小和田哲男さんとの共著『徳川家康の素顔 日本史を動かした7つの決断』ほか。

歴史研究家が江戸城を案内

江戸城は、本丸・二の丸・三の丸・西の丸・吹上(ふきあげ)・北の丸といった中心部を内曲輪(うちぐるわ)といい、一般的に江戸城といえば、この内曲輪を指す。現在、皇居ランナーが走っている内堀通りの内側にあたる。ただ、その周囲には水堀と堀で囲んだ外曲輪があり、厳密に言えば、外曲輪までが江戸城だった。外曲輪の外周は現在の外堀通りなどにあたり、およそ16キロにも及ぶ。外曲輪には、見附(みつけ)と呼ばれる監視のための城門があり、赤坂見附や四谷見附といった地名に痕跡が残されている。

内曲輪においては、隠居した将軍の御殿(居館)があった西の丸や庭園のあった吹上が、現在は皇居となっている。そして、本丸・二の丸・三の丸の一部が、皇居に附属する皇居東御苑(ひがしぎょえん)として一般公開されている。

皇居東御苑には、大手門・平川門・北桔橋門(きたはねばしもん)の3か所から入ることができるが、今回は、江戸城の正門であった大手門から入ってみよう。大手門は、手前に高麗(こうらい)門という小さな門、奥に櫓(やぐら)門という大きな門で構成される。同時に二つの門を開かない限り、敵に侵入される恐れがない。なお大手門の前は、現在は土でできた土橋となっているが、江戸時代には木橋が架けられていた。木橋は、万が一の際、落とすこともできたのである。

この大手門を越えれば、三の丸となる。三の丸は、江戸時代には一時的に御殿が建てられていた場所で、現在は、皇室ゆかりの文物を収蔵する三の丸尚蔵館などとなっている。

三の丸から本丸方向に進むと、大手三の門に至る。この大手三の門は、御三家をのぞく諸大名が駕籠(かご)から降りることになっていたため、下乗(げじょう)門ともいう。なお、本来は大手三の門の外側にあった警備のための同心番所が、現在は門の内側に移設されている。

大手三の門を越えると、二の丸である。かつての二の丸は、将軍の遊興地であり、将軍の嗣子(しし)や生母のための御殿が存在していた。現在は、庭園が再現されている。

大手三の門を出た先には、百人番所が現存する。ここは、大手三の門を守る江戸城最大の番所で、20騎の与力(よりき<騎馬の武士>)と100人の同心(徒歩の武士)が4組に分かれ、昼夜を問わず監視していたと伝わっている。

二の丸から本丸には四つの登城路があるが、そのうち、諸大名が利用したのが中之門で、これは百人番所の向かいに位置している。中之門は、本丸の正面玄関にあたり、城内最大の櫓台石垣に圧倒される。中之門の内側には、警備のための大番所が復元されている。

東から見た寛永期の本丸と二の丸。儀式や政治の場であった本丸御殿に対し、二の丸御殿は庭も広く風雅な造りとなっていた (イラスト・考証/香川元太郎)

江戸城は、武蔵野台地の突端に築かれており、二の丸・三の丸は台地の下におかれていた。そのため、中之門から本丸へは坂を20メートルほど上る形となり、上りきった先に本丸が広がる。

広大な本丸には、かつて御殿の殿舎が建ち並んでいた。御殿は、将軍が諸大名に対面する「表」が手前にあり、奥に行くに従って将軍が日中に過ごす中奥、将軍の宿所となっていた大奥に続く。浅野内匠頭(たくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけた松の廊下は表にあり、小さな石碑が建てられている。

本丸の南端に建てられているのが、富士見櫓である。その名の通り、富士山を眺めることができたという。江戸城に現存する櫓のなかでは、ただ一つの三重櫓であり、天守のなかった江戸城において、長らく天守の代わりとみなされてきた。

江戸城に天守がないのはなぜ?

江戸城に天守が存在しなかったわけではない。実は、江戸城の天守は初代将軍・徳川家康、第2代将軍・徳川秀忠、第3代将軍・徳川家光それぞれが建てていたのである。徳川家光時代の天守は、五重五階、すなわち、外から見ると屋根の数が五枚で、内部が五階建てだった。瓦は銅の板を用いた銅瓦であったため、緑青(ろくしょう)によって緑色になっていたらしい。屋根には金の鯱(しゃち)もあげられていた。金の鯱といえば、名古屋城が有名であるが、江戸城にも存在していたのである。

天守の高さは天守台の石垣を含め60メートルほどになったといい、江戸の城下町からは本丸の標高を入れると80メートルほどの高さで聳(そび)えているように見えたことになる。江戸時代の天守は、権威の象徴でもあったから、あえて、城下町から遠望できるようにしていたのだった。

この徳川家光時代の天守が建てられていたのは、現在の天守台と同じ場所である。しかし、その天守は、1657(明暦<明暦3>)年の明暦の大火で、焼失してしまった。城内の建物はすべて木造で、しかも密集していたことから、城下町からの火の粉が飛んできたため、御殿も含め、焼失してしまったのである。

寛永期天守は柱を描いた立面図もあり、内部構造もおおむね判明している。外観と同じ5階建て(地下を含め6階)のシンプルな構造だが、各階の天井が高い。当時の世界最大の木造建築と推定される(イラスト・考証/香川元太郎)

その後、天守台の石垣は新造されたものの、江戸城の御殿や城下町の復興を優先したため、天守が建てられることはなかった。城を築くにあたり、最も時間と労力が必要なのは、堀や石垣である。そのため、天守の再建は後回しにされた結果、計画は立てられたものの、実行されることはついぞなかった。

現在、NPO法人「江戸城天守を再建する会」が中心となって天守の木造再建が計画されているが、着工の見通しはたっていない。

本丸の北端に設けられていたのが、北桔橋門(きたはねばしもん)である。桔橋とは、平時には木橋を跳ね上げていた橋をいう。ここまでが皇居東御苑で、この北桔橋門は、北側の出入り口にもなっていた。

北桔橋が架かる堀の対岸は、北の丸である。北の丸は、かつては御三卿の田安・清水徳川家の屋敷地であり、現在は、北の丸公園として整備され、日本武道館や科学技術館などが建てられている。余力があれば、北の丸に行ってみてもよいだろう。それぞれの家名をとった田安門・清水門が現存している。

文/小和田泰経

※二の丸庭園からは汐見坂や梅林坂を経て本丸に上ることもできる

(出典:旅行読売2023年11月号)
(Web掲載:2023年11月13日)

 


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