いろいろあったけれど、のんびりした「茨木」だから再起できた【関西 私の好きな街】

取材・執筆: 吉村 智樹 

 

関西に住み、住んでいる街のことが好きだという方々にその街の魅力を伺うインタビュー企画「関西 私の好きな街」をお届けします。

 

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茨木は「ほどよく郊外。ほどよく都会」

「初めて茨木(いばらき)を訪れた人たちから、よく『茨木って、こんなに開けてたの?!』って驚かれます。それまで、どんなイメージだったのでしょうか(笑)。茨木は『ほどよく郊外。ほどよく都会』。梅田に較べたら、そりゃぁね、のんびりしています。でも、電車は快速が停まります。街に何でもそろっている。そして、なんといっても平和です。本当に、いいところだと思います」


そう語るのは、飲食店サポートコンサルタントの木村美季さん(48)。

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大阪府の北部に広がる茨木市。大阪市と京都市の中間に位置し、「どちらの街へもアクセスしやすい」と、人気が高いベッドタウンです。

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JR東海道本線、阪急京都本線、大阪モノレールの三社が乗り入れており、交通至便。さらに、「立命館大学大阪いばらきキャンパス」をはじめ、市内に6つの大学と11もの高校が集まる文教都市でもあります。

茨木のマスコット「いばらき童子」

茨木市内の各駅で降りると、目を惹くのが、街に点在する愛らしい鬼のキャラクター。名前は「いばらき童子」

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とてもかわいくデザインされています。しかし、エピソードは、なかなか切ない。


いばらき童子くんは人間の子どもとして育てられたものの、血をなめるのが大好き。川面に映る自分の姿を観て、「自分は人ではない。鬼だったのか」と悟り、鬼たちが棲む大江山へと帰っていった。そのような、なんとももの哀しい逸話が残されているのです(諸説あり)。


いばらき童子くんは、現在は茨木市へ戻り、「観光特任大使」を任されています。おしゃれな金髪をなびかせ、茨木市のイメージアップに励んでいるのです。

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亡き夫との想い出が深い店

そんなセンチメンタルな民話が残る茨木市。木村美季さんは、「三歳で新大阪から引越してきて、今年で45年も住んでいる」と、大のお気に入りの街。


木村さんが先ず案内してくれたのが、JR「茨木」駅東側すぐの場所に建つカフェレストラン「ポンパ・ピエロット」。ピエロがおどける像が目印。

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創業から36年が経つ、茨木の顔と言えるお店。店内の意匠は、なんと特注の信楽焼き。オリジナルデザインによる陶板のレリーフを見るためだけでも、ここを訪れる価値があります。

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木村美季さん(以下、木村):「いつもは、『ハッシュドビーフオムライス』をいただきにうかがうのですが、たま~に、このストロベリーフロートが飲みたくなるんですよね。見た目もピンクで可愛いですし。そしてこちらのご主人は、亡くなった夫の料理の師匠なんです」

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そう、木村さんは夫で料理人だった萩原佳幸さんと2010年に死別しています。木村さんの肩書は、現在は「10年以上続く飲食店総合サポート業」と少々長い。けれどもサポート業を起ち上げる以前は、夫とふたり、この茨木市で居酒屋を営んでいたのです。

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「これから茨木が栄えるぞ」。父のひと声で転居が決まる

木村さんは、実はこの茨木市で、かなりの波乱に満ちた半生を送ってきました。


木村さんが茨木市へやってきたのは、1972年。お隣りの吹田市で「EXPO'70 日本万国博覧会」(通称:大阪万博)が開かれ、日本中を沸かせた2年後です。

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木村:「父が鉄道関係の仕事をしていて、今後発展してゆく街を見つける鼻が利くんです。そして、『これからは茨木がくるで! 栄えるで!』と言いだし、それで引越しを決めたそうです。母は『茨木? なんでそんな田舎へ引越さなあかんの?』と、反対していたようです。『もっと茨木が栄える』という父の言葉を、はじめは疑っていたらしいんです」

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幼少期に撮影した茨木駅前の歩道橋は、現在もその姿を変えていない

木村さん一家が移り住んだのは、第一次ベビーブーム期に山手台を拓いて造られた「茨木サニータウン」

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お父さんが選んだ新天地で、木村さんはすくすくと成長します。

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住居は、令和3年末に完成予定の「安威川ダム」建設で注目を集める川のほとり。

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未来の安威川ダムを模した「ダムカレー」は、いまや茨木市の名物に。

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歌番組が大好き、スターが大好きな女の子

小学校3年生までは畑田小学校、4年生から山手台小学校へ通学。まだ幼かった木村さんは、突然の転居にかなりショックを受けた様子。しかしそんなことよりも、テレビの歌番組に、もう夢中。「スターが大好き!」な女の子でした。


木村:「やっぱり、ピンク・レディーの存在は大きかったです。授業参観の日、先生から突然『あなたとあなた、踊ってみて』と指名され、母親の前で歌って踊りましたから。クラスの女子は、たいていピンク・レディーのどの曲の振り付けでも憶えているし踊れる、そんな時代でした」


ピンク・レディーはペアでしたが、80年代に入ると、“グループアイドル”という概念が生まれます。代表格は、現在のAKB48グループや坂道系の礎となる、この方々でした。


木村:「北陵中学時代は、おニャン子クラブの全盛期。大好きでした。うちにはまだビデオデッキがなかったので、学校が終わったら急いで家へ帰って、リアルタイムで『夕やけニャンニャン』を観るんです。新曲が出たら、テレビを観ながら歌詞もメロディもダンスも全部その場で憶えて、次の日には学校で踊りながら歌っていました。ミーハーやったけど、そのぶん集中力もすごかったですね、あのころは」

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おニャン子クラブが真っ赤な自転車をふたり乗りしていたあのころ、片や王子様たちは、颯爽とローラースケートに乗ってやってきました。それがジャニーズのグループアイドル「光GENJI」。彼らは、その名の通りキラキラと煌めきながら、木村さんたちの前を駆け抜けていったのです。


木村:「『ザ・トップテン』という歌番組が毎週、渋谷公会堂から公開生放送をしていたんです。そしてこの番組は修学旅行生が客席に入れるんですよ。司会の堺正章さんと榊原郁恵さんがいつも、『修学旅行でお越しになった○○高校の皆さ~ん』『○○中学の皆さん~』って観客に声をかけていて、それがめっちゃ羨ましくて。『すごい! スターに会えるやん! 光GENJIに会えるやん! なんでうちの学校、トップテンを観に行かへんの?』って、すっごい不満でした。スターの後ろで踊っているスクールメイツも、羨ましかったなあ」


*『ザ・トップテン』(日本テレビ)……1981年から1986年まで毎週月曜日の午後8時から、主に渋谷公会堂から生放送されていた歌謡曲ランキング番組。最高視聴率28.8%を記録する人気だった


光GENJIのほかにも、松田聖子さんや、「初めて自分でシングルレコード『センチメンタルジャーニー』を買った」松本伊代さんにも憧れたと言います。

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「あ、私、アイドルは無理やな」

アイドルたちへの憧憬を胸に思春期を過ごした木村さん。芸能界への関心は日毎にたかまるばかり。もともと両親から「かわいい」と褒めそやされて育っており、次第に「自分もアイドルになりたい!」と強く願うようになっていったのです。


とはいえ、まだ十代だった木村さん、歌手になるための上京は許されませんでした。現在のような地方アイドルシーンが、まだ確立していなかった時代。関西にいながら芸能界でメジャーを目指すならば、「女優」か「芸人」の二択しかありません。


木村さんは市内の福井高校に通いながら、16歳で、京都の東映京都俳優養成所に通い、演技の勉強を始めます。ところがどっこい。


木村:「東映に入って、分かったんです。『あ、私、アイドルは無理やな』って。周りは本当にきれいな女性ばっかり。かわいいかわいいと褒められて育ってきたので、『私、かわいいんや』と、ずっと思いこんでいました。あれは、親が子どもに想う『かわいい』でしかなかったんやなって、さすがに気がつきました(苦笑)」


現実を知り、養成所があった東映京都撮影所を後にした木村さん。とはいえ、東映で学んだ芸事は、決して無駄にはなっていません。養成所で体得した「南京玉すだれ」を、今なお毎年、茨木神社の秋の催しで披露しているのです。

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独創的な中華料理に舌鼓を打つ

木村さんが勧めてくれた2軒目は、JR「茨木」駅の線路沿い徒歩2分の場所にある、いろどり中華「たけ」。2017年に開業をサポートしたお店だそう。


黒、白、赤、黄の「四色麻婆豆腐」が珍しい。写真は「黒」。わざわざ名水の郷である京都・伏見の豆腐店から取り寄せた木綿豆腐の自然な甘みが、黒みを帯びたピリッピリに辛い山椒ソースと絶妙に絡み合います。

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木村:「私は黒酢を使った『黒酢豚』が好きなんです。ほっこりふかしたサツマイモをスライスした豚肉で巻いていて、甘辛さがたまりません。見た目にも珍しいし、おしゃれでしょう」

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お笑い芸人を目指し、養成学校へ

さて、アイドルへの夢を諦めたガラスの十代を経て、二十代へ。成人しても芸能界への想いを断ち切れない木村さんは、残されたもうひとつの道を選びます。それが、芸人でした。


木村:「私が二十歳のころ、関西は上沼恵美子さんとやしきたかじんさんが絶大な人気を誇っていました。『おもろい』ことが超カッコいい。おもしろいことがカリスマの条件。そういう時代で、おふたりはスーパースターだったんです。そして、ちょうどそのころ、NSC(吉本総合芸能学院)が大々的に11期生を募集していました。ダウンタウンさんや今田耕司さんたちが全国的な人気者になって、NSCが世間に大きく注目された時期でもありました。入学の募集要綱が書かれたチラシを街でバンバン配っていましたから」


のちに陣内智則、中川家、ケンドーコバヤシ、たむらけんじ、ハリウッドザコシショウなど人気者を多数輩出するNSC11期。木村さんは、ここに応募します。


NSCでは漫才やコントを学びましたが、卒業時には、「吉本新喜劇の女優になりたいと」思ったそう。往時はNSCを修了した生徒が吉本新喜劇の入団オーディションを受けられるシステムが存在し、東映で培った演技力を喜劇女優として活かそうと考えたのです。

吉本新喜劇をクビに。「明日からもう来なくていいです」

しかしながら、ここでも現実の厳しさを味わいます。そしてこのピリリとした辛酸の味こそが、芸能界とのお別れ、閉幕を意味していました。


木村:「リストラに遭いました。『明日からもう来なくていいです』と。実力がないと見なされたんですね。芸能界の門を叩いて、ちょうど10年目でした。心が折れてしまって、それから半年間、実家に引きこもりました。その間、お笑い番組も怖くて観られなかったですね。復帰ですか? いやあ、これ以上、芸能界に居続けるエネルギーが残ってなくって。『私にはむいてないんやわ。あきらめよう』と未練を絶ったんです。それから少しずつ、前向きになっていけました」

バイト先のマスターだった夫にプロポーズされる

挫折から立ち上がるために長い時間を要した木村さん。25歳になってやっと家のドアを開け、新しい道へ踏み出す決意をします。そうして再会したのが、のちに夫となる、7歳上の萩原佳幸さん。


木村:「JR『茨木』駅の北側に昔、屋台村があったんです。NSCに通いながら、お好み焼きをつくるバイトを始めました。雇われマスターだった夫とは、その時に知り合ったんです」

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かつてこの場所に、アルバイトをしていたお好み焼き屋さんがあった

マスターとアルバイターの関係だった萩原さんと木村さん。再会した際に、先に声をかけたのは萩原さんのほうだった様子。


木村:「用事があって、久しぶりにお店へ行った日、マスターがお客さんにJリーグのペアチケットを配り始めたんです。そして私にも1枚、渡されました。『なんで私だけ1枚なんですか?』って訊いたら、『俺と一緒に行くからや』って。それが初デートの誘い」


強引で不器用なデートを経て、ふたりはおつきあいを始めます。そして27歳で入籍。


木村:「『結婚しよう』って言われて、『はあ、分かりました』みたいな感じでしたね。ぜんぜんタイプじゃなかったけれど、もう適齢期でしたし(笑)。まさか、あんな大どんでん返しが待ち受けているとは、その時は思いもしなかったです……」

甘い新婚生活とは程遠い多忙な日々

入籍を果たし、「独立して自分の店を持ちたい」と開業を望む萩原さん。そこからの日々は、想像していた甘い新婚生活とは程遠い、夫婦して資金づくりにあえぐ日々が待っていました。


木村:「5万5000円の家賃が払えなくて、パン工場でバイトしながら 余ったパンをもらってきて食べていました。美容室へ行くお金がないんです。髪の毛、ぼっさぼさ。新婚でですよ?(苦笑)」


苦労の末に、28歳でついに開店。店名は、木村さんが名づけた「居酒屋わんさか」。その名の通り、店は大繁盛。33歳で、市内に移転拡大するまでに成長したのです。

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木村:「彼は料理への情熱がとても強い人でした。どんなに仕事で疲れていても、家に帰ってから料理の本を読んでは試作を重ねていました。調理は独学でしたが、お客さんから、『京都の料亭で修行をされたのですか?』と訊かれるほどに腕をあげていたんです」

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夫婦で「居酒屋わんさか」を営んでいた場所。店名の通り繁盛していた

 

開業10年目を迎えたある日、夫は旅立った

2010年3月に開業10周年を迎え、ほっとひと息。「がむしゃらにやってきたけれど、そろそろ夫婦で出かける時間もつくろうか」。そんな話をしていた矢先に、悲劇が起きます。それは同じ年の8月22日のこと。木村さん、38歳の時。


木村:「この年の夏は、ものすごい猛暑。しかもめちゃめちゃ忙しい一週間でした。ふたりで夜中の3時に家に帰ってきて、コンビニで買った総菜を食べ、2階で眠ろうとしていたんです。すると夫から、『もうちょっと一緒にテレビ見ようや』って言われたんです。私は驚いてしまって。だって、今まで一度だって、そんなことを言われた日はなかったですから」


夫からの、初めての言葉。疲れと戸惑いがまざった気持ちのまま、木村さんは萩原さんのそばで、ソファに腰かけました。


木村:「私はもう疲れて眠ってしまったんですが、夫が漫才を観ながら笑ってる声が、かすかに聴こえていたんです。『この人、まだ起きてはるわ。明日も予約がぎょうさん入って忙しいのに。大丈夫なんかな』と思いながら再び眠ってしまったんです。すると、『ドーン!』という大きな音がして……」


大きな音で目をさました木村さん。床には萩原さんが倒れていました。そして、やってきた救急隊員の言葉は、決定的なものだったのです。


木村:「かすかに、『心肺停止です』という声が聴こえました。一瞬、その言葉の意味が理解できず、救急隊員さんに訊いたんです。『入院は何日くらいになりそうですか?』って。すると『奥さん、それどころではありません』と……」


「もうちょっと一緒にテレビ見ようや」。その言葉を最期に、45歳という若さで急逝した萩原さん。突然の出来事に、木村さんは失意の霧の中に放り出されました。


「それから一カ月は、バイクに乗れませんでした。涙で前が見えないから、危なくて。ハンカチの面積では涙をぬぐい切れないから、いつもティッシュひと箱とビニール袋を持ち歩いていました」 

働きすぎて身体を壊しては、本当に意味がない

悲しみに暮れる日々から脱し、やっと前向きになれたのは3年後の41歳の時。


木村:「2013年から、私は『お店を始める人たちのお手伝いがしたい』と考えるようになったんです。働きすぎて身体を壊しては、本当に意味がない。そうならないようにしながらも繁盛して、末永くお店が続いて、みんなが幸せになる方法が、きっとあるはず。そういったサポートができたらいいなって。私たち夫婦は、『必死で働くのがええことや』と思いすぎていたから」


「お店を始める人たちの、お手伝いがしたい」。木村さんは、茨木商工会議所へ通い、講師になるために猛勉強。そうして開いたのは「オフィスわんさか」。自分たちが初めて開いたお店の名前です。

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地元の小さなスナックから「昼間に店を何かに使えないか」と問われれば飛んでいって一緒に考え、ときには地元の中学生に商いの楽しさや大変さを教える庶民派の木村美季さん。2020年の春には、初めて飲食店開業にまつわる著書を出版する予定なのだそう。

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木村:「こうして自分を振り返ると、いかにも“激動!”という感じですけれども、のんびりとした茨木やからやってこれたし、茨木やから、私は再起できたんじゃないかと思います。もっとせわしない(スピードが速い)街だったら、ついていくのは無理だったかも。これからも茨木を拠点としながら、末永くやっていきたいですね」

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今回は、ひとりの女性の、決して楽しいばかりではない生き方を追いました。言わば今回の探訪は、大阪センチメンタルジャーニー。でも、豊かな緑やせせらぐ安威川、活気ある茨木の商店街を歩いて、笑う人も泣く人も同じように包み込む温かさを僕はずっと感じていたのです。


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著者:吉村 智樹

吉村智樹

京都在住の放送作家兼フリーライター。街歩きと路上観察をライフワークとし、街で撮ったヘンな看板などを集めた関西版VOW三部作(宝島社)を上梓。新刊は『恐怖電視台』(竹書房)『ジワジワ来る関西』(扶桑社)。テレビは『LIFE夢のカタチ』(朝日放送)『京都浪漫 美と伝統を訪ねる』(KBS京都/BS11)『おとなの秘密基地』(テレビ愛知)に参加。

Twitter:@tomokiy Facebook:吉村 智樹 

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