歌手・俳優 荒木由美子さん 結婚直後から義母の介護を20年…43歳でやっと「新婚生活」が始まった

海老名徳馬 (2023年11月19日付 東京新聞朝刊)
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荒木由美子さん(ハブ・マーシー提供)

家族のこと話そう

結婚の2週間後、義母が血栓で倒れ

 芸能界の先輩で13歳上の湯原昌幸さんと23歳で結婚して2週間後、荷物も片付いていない時におしゅうとめさんが倒れました。脚の血栓で2カ月弱入院。それが20年の介護の始まりでした。

 退院した頃に私の妊娠がわかり、一方の義母は糖尿病などで入退院を繰り返すようになり、私は大変だと感じる暇もなかった。切迫流産の可能性があり「階段を上ってはいけない」と言われても、四つんばいで上っていました。小さい頃からあまり人に甘えない性格で、何とか自分で全てをやり切ろうと思っていたんです。

 出産して2年後に義母が認知症になってからは毎日が戦いでした。怒りっぽくなり、料理を作っていてもお総菜を買ってくる。これが嫁しゅうとめのトラブルなのかと考えていたら、日に日にひどくなり、お金を取られたと言い、ドアの鍵やガスの栓をしょっちゅう壊す。包丁などは全部布に包み、鍵のついた息子の机の引き出しに入れました。

 いつも私に怒っていて、病気だとわかっていても、毎日ほとんど泣いていました。悔しい。切ない。憎しみも出てくる。そう思うことも嫌で、全部が悲しい。気持ちが収まることはありませんでした。

施設に入れる決断 夫はいつも味方

 自宅で7年ほど介護したころ、義母は昌幸さんのことを時々わからなくなりました。昌幸さんは「もう俺たちだけでは無理だ」と言いましたが、私は自分でやるの一点張り。「あの人は昔芸能人だから介護ができなかった」と言われるのは許せなかった。けれど昌幸さんに「誰かがそう言ったら、俺が由美子の努力を説明する」と言われて、施設に入れる決断をしました。

 義母は施設では穏やかになり「由美ちゃん帰らないで」と恋しがるようになりましたね。今になれば、施設を頼ることは正しい選択の一つと思います。もし介護に限界を感じている人がいたら「人の手を借りてもいいんですよ」と伝えたい。義母は約8年後、86歳で亡くなりました。

 当時の支えは、昌幸さんが常に全面的に私の味方だったことです。「ありがとう」を毎日たくさん言ってくれました。「行ってくる、由美子ありがとうね」「ただいま、いつもありがとう」って。そこまで言ってくれると、私しかいない、大丈夫と思える。今もたくさん言ってくれます。

 家族との触れ合いも大切にしています。介護ではどんなにイライラしても、義母と手をつなぐしかない。手のぬくもりを感じると、心がふわっと、優しくなるんです。手をつなぐのは義母のためでも、私のためでもあった。今も昌幸さんとも、息子やお嫁さんとも、よく握手します。

 みとった後に43歳で仕事を再開してからが私たちの新婚生活です。2人の時間ってこういうことなんだなと。若い頃にいい思いをして今が大変よりも、若い頃に宿題を済ませて、いま楽しめるのはいいのかなと思っています。

荒木由美子(あらき・ゆみこ)

 1960年、佐賀県神埼町(現神埼市)出身。1976年に第1回ホリプロタレントスカウトキャラバンで審査員特別賞を受賞して芸能界入り。1979年のドラマ「燃えろアタック」出演など俳優やアイドルとして活動し、1983年に結婚。子育てと20年間にわたる義母の介護を終えて芸能界に復帰し、テレビやラジオへの出演や講演会などで活躍している。

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