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1.神奈川県の全水田面積に匹敵!
2.巌流島の闘い
3.百余年間生き続けた見果てぬ夢
4.干拓を実現に導いた戦後秘話
5.ヤンセン博士の功績と人柄
6.偉大な夢の実現
7.大潟村の誕生
8.もう教えることはない
9.20年に及ぶ大事業
10.事業概要

icon 1.神奈川県の全水田面積に匹敵!



 琵琶湖に次ぐ国内第2の湖であった八郎潟。約2万2千haという途方もない湖を干拓し、近代的農村を建設するという前代未聞の計画が始まったのは昭和27年のこと。折しも、日本が敗戦後のアメリカ占領下から独立した記念すべき年でした。
 新しく生まれる国土は約1万7千ha。神奈川県の全水田面積に匹敵する広さです。広いだけではなく、その計画は壮大な夢に満ちていました。1戸数haという大区画農場、ヘリコプターによる直播や大型コンバインを利用した大規模な機械化農業、まさに日本の農村をリードする理想の国土づくりでした。

icon 2.巌流島の闘い



 しかし、八郎潟は東西12km、南北27km。
水深は3~5mと浅いものの湖底のほとんどはヘドロが堆積した超軟弱地盤。その深さは20mから実に50mに達したと記録にあります。計画は、この底なし沼のような湖の底を周囲52kmに及ぶ堤防で囲い、中の水をポンプで汲み出して干陸するというもの。第一、堤防の建設ひとつをとっても技術的に可能かどうか、難問中の難問でした。
 干拓の是非論をめぐる技術者や学者の公開討論会では、日本を代表する学者の説が、可能、不可能の真っ二つに分かれました。その討論会を傍聴した当時の秋田県知事は「宮本武蔵と佐々木小次郎の対決を見る」ような思いだったと回想しています。

icon 3.百余年間生き続けた見果てぬ夢



 八郎潟干拓の夢は、江戸後期までさかのぼります。この地域には農業土木のとてつもない傑物がいました。
一介の鍛冶屋から秋田藩の全土木事業を掌握する藩吏にまで登りつめ、後年、「渡部神社」の神として奉られた渡部斧松(1793~1856)その人です。
「太田堰」「長根堰」「扇田堰」「穴堰水路」等の建設、新村「渡部村」の開墾、造った新田2,200町歩(ha)、救った古田1,700町歩あまり。同時代の二宮尊徳と並び称せられる偉人といってもいいでしょう。
 その斧松の遂に果たせなかった夢が八郎潟の干拓でした。この計画は、明治、大正,昭和と幾度となく浮かんでは消え、消えては浮かんだ「見果てぬ夢」でした。

icon 4.干拓を実現に導いた戦後秘話



 この世紀の大事業を実現に導いたきっかけとして戦後の敗戦処理にまつわる秘話が残されています。
 終戦後、西側諸国との講和条約に際して、日本が最も腐心したのはオランダへの対応でした。オランダは日本によってジャワ・スマトラを占領され、戦後はジャワ・スマトラがそのままオランダから独立するなど、日本に対する国民感情は悪く、講和条約にも最後まで難しい注文をつけていました。アメリカの国務長官らが何度か説得を試みても頑として受け付けなかったところ、ある日、賠償の代わりに技術援助(したがって相応の技術料の支払い)に応じるなら、講和会議に参加する旨の感触が得られたとの報告が当時の吉田茂首相に伝えられました。
 首相は、建設大臣を呼んで技術援助を受けるプロジェクトを考えるように指示しましたが、どうも妙案がない。何か探せという指示は大臣から次官、局長、部長,課長と伝わって、とうとう係長・係員クラスにまで降りてきました。この時、戦後の焼け跡で都市区画整理事業を担当していた下川辺係長(後の国土事務次官)が「農林省の八郎潟干拓はどうか」と進言したとのことです。
 余談ですが、当時ワンマンとして有名だった吉田総理。官僚の誰もが尻込みする中で、下川辺係長にその役が回り、大磯の自宅へ単独で出かけ総理に進言したところ、「総理はひどくご機嫌で当時たいへんな貴重品だったスコッチウイスキーまでいただいた」というエピソードが残されています。
 「神は海を造り、オランダ人は陸を造った」といわれる干拓技術先進国オランダ。かたや武蔵か小次郎かという難問を抱えた八郎潟。これ以上の技術援助は見つからなかったでしょう。いわば、八郎潟が戦後の講和条約の推進に一役買ったことにもなります。

icon 5.ヤンセン博士の功績と人柄



 農林省からは多くの技術者がオランダへ留学し、また1952年からオランダの技術者の訪日が始まります。中でも八郎潟干拓の父ともいわれたヤンセン博士。彼は昭和29年(1954)に来日し、そのわずか3ヵ月後に「日本の干拓に関する所見」と題するレポートを提出しています。当時の農林省の記録には「この報告書は、当時各省が招いた外国技術者の報告暑中、最高のもので、内容は立派であり、量は膨大であった」とあります。財政に厳しい大蔵省までが、好意ある予算的協力を惜しまなかったというほど高い評価がなされました。
 とりわけ難題であった超軟弱地盤での築堤は、オランダが開発した「サンドベッド工法」(堤防下5m程度のヘドロを取り除き、幅130mの砂床に置き換える)で可能となりました。
 しかし、当のヤンセン博士は首相への報告の中では日本の技術陣の能力を称え、「何故私が招かれたのか真意がわからない」とまで言ったそうです。この謙虚さがどれほど日本人を奮い立たせたか想像に難くありません。

icon 6.偉大な夢の実現



 しかしながら、八郎潟干拓への道は厳しいものでした。とりわけ、青森県西方沖地震、新潟地震、十勝沖地震と工事中に立て続けに大きな地震に見舞われたこと、せっかく造った堤防の沈下や亀裂は、オランダ人技術者をはじめ誰も予期しなかった「砂の流動化(液状化)現象」によるものでした。
 干拓にかかわった当時の回顧録には「崩れ落ちた自信」「血を吐き、骨を削る苦労」「涙がこみあげてくる」「責任の重さに天を仰ぐ」といった技術者の苦悩が滲んでいます。
 掘削にあたっては,工期短縮と経済性の観点からカッター付きポンプ船を改造し、カッターレスポンプ船を独自に開発しています。操作が慣れてくると従来の3倍近くの採砂が可能になりました。

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icon 7.大潟村の誕生



 「偉大な夢であった。長い長い歴史を持った夢であった。そういう夢を持ち得た人間が、それを実現化しようとした幾多の先人の意思を引き継ぎ、あらゆる障害を克服した知恵と技術と努力の結晶が、いま、今世紀最大の事業といわせしめた八郎潟干拓を達成せしめたのである。この実現を願って、この大事業に参加した直接間接の関係者は、おそらく何十万人の数にのぼるであろう。その人々の胸の中には。もろもろの感慨を含めて“人間万歳“の叫びが渦巻いているのではなかろうか」(『八郎潟新農村建設事業団史』)。
 昭和32年(1957)にスタートした工事は、7年後の昭和39年に干陸式を迎え、新村には全国公募により「大潟村」と名付けられました。干陸式の式典には、自治大臣、農林大臣、衆議院議長、オランダ大使、ヤンセン博士など約1,300人のそうそうたる顔ぶれが並び、人出は2万人を記録したとあります。
 大潟村は、排水機場を管理する家族6世帯、計14人という日本一小さい村からスタートしました。第一次入植者は定員58名に対し約600人が応募。その後、第五次まで募集がなされ、現在では約1,000世帯に膨らみ、人口約3,300人の村へと成長しました。営農は1戸あたり15ha。日本の平均農地面積の10倍を超す大型農業が営まれています。

icon 8.もう教えることはない



 気象条件や地質・海象条件などオランダと比べると日本は干拓には不利な条件をたくさん持っていました。それを独自の工夫と努力によってオランダ技術に改良を加え、オランダ人技術者の予想をも上回る成果を上げました。
 干陸式の時に再来日した技術者は、口をそろえてこう言ったそうです ―――「もう教えることは何もない」。

気象条件や地質・海象条件などオランダと比べると日本は干拓には不利な条件をたくさん持っていました。それを独自の工夫と努力によってオランダ技術に改良を加え、オランダ人技術者の予想をも上回る成果を上げました。
 干陸式の時に再来日した技術者は、口をそろえてこう言ったそうです ―――「もう教えることは何もない」。

icon 9.20年に及ぶ大事業



 工事が始まったのは昭和32年(1957)。新生・大潟村の誕生が同39年。40年より「八郎潟新農村建設事業団」が設立され、新農村建設事業が始まります。そして、すべての国営干拓事業が終了したのは昭和52年(1977)。ちょうど日本の高度経済成長と足並みを合わせるかのように、この20世紀最大のプロジェクトは、20年に及ぶ長い歳月を経て終了しました。

*この稿を作成するにあたっては、
秋田県農林水産部農山村振興課秋田県農林水産部農地整備課のウェブサイト
http://www.pref.akita.jp/fpd/index.htmlを参考にさせていただきました。

icon 10.事業概要



(1)事業面積
干拓面積     中央干拓地15,666ha、周辺干拓地1,573ha
農地面積     中央干拓地11,741ha、周辺干拓地1,051ha

(2)国営干拓事業
中央干拓堤防   51.5km
排水機場     2力所(南部・北部排水機場、最大排水量40m3/s/カ所)
幹線排水路    22.6km(中央幹線排水路 15.7km,1級幹線排水路6.9・) 支線・小排水路  620.7・
西部承水路    水位調節用機場2力所(浜口機場と南部排水機場の用排水兼用ポンプ)
取水工      19力所
幹線用水路    93.6km
小用水路     447.5km
道路道路     653.0km(幹線道路73.4・、支線及ぴ農道579.6km)
橋梁       25カ所防潮水門総延長390m、
可動堰      10門(ローラーゲート)と固定堰2箇所
船越水道延長   1900m 幅390m
改修河川     22河川、28.5km
周辺干拓施設堤防 延長48.1km、
排水機場     26カ所

(3)新農村建設事業(八郎潟新農村建設事業団)
農地整備 11,202ha
集落用地整備 宅地造成687ha
防災林 492ha
住区内道路 19.3km
公共用施設 役場、公民館、診療所、幼稚園、小学校、中学校、上水道、下水道、塵芥処理場、墓苑、街路等
農業用施設 農家住宅580戸、カントリーエレベーター6基、ドライストア2基、機械格納庫104棟
その他 入植予定者の指導訓練、入植者の営農指導、営農機械の購入および譲渡等

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