背景を選択

文字サイズ

ストーリー

「おかしさを認め合って、ひとつに」全盲の落語家、桂福点さんが目指す社会

視覚障害者の生活を守る会の60周年記念行事で創作落語を披露する桂福点さん。

関西を中心に落語家として活躍する桂福点(かつら・ふくてん)さん。生まれつき片目が見えず、高校生で失明。その後、音楽に打ち込み、音楽で高齢者や障害者のリハビリやサポートをする音楽療法を実践。社会人生活を経て落語家として活動するようになりました。

桂福点さんはどのような道のりを辿って落語家になったのでしょうか。今後の展望も含めて、話を聞きました。

桂福点さん略歴

グリーンの着物を着て、両手を広げたポーズの桂福点さん。

1968年兵庫県生まれ。1986年に大阪芸術大学に入学後、音楽療法を研究。卒業後、バンド「お気楽一座」を結成。1996年に桂福團治師匠に弟子入りし、2009年9月に「桂福点」の名前を師匠からもらい、落語家としての活動を開始した。また、「生活介護事業所 お気楽島」所長を務め、さまざまな理由で社会に出て行きづらい人たちの集いの場・創作の場を作っている。

「一緒に笑うとひとつの輪になる」倒れて気づいた笑いのよさ

ーまず、福点さんが落語を始めるまでの道のりについて教えていただけませんでしょうか。

生まれた時は片目が全く見えない状態で、もう片目の視力が0.1でした。手塚治虫さんと水木しげるさんの漫画が大好きでしてね、まだ目が見える頃は漫画家になりたかったんです。ただ、中学2年生のころから視力の残っている目も徐々に見えなくなっていきまして、高校生の頃に視力を失いました。

漫画が大好きでしたので、ひどく落ち込みましたが、友人が誘ってくれたことがきっかけで、音楽を始めたんですね。ちょうどYMOを中心にテクノが流行していた時代で、坂本龍一さん、高橋幸宏さん、細野晴臣さん達の影響をどんぴしゃに受けました。

大学では高齢者や障害のある人のリハビリを音楽で支援する音楽療法を学び、卒業してからは色々な施設で高齢者や障害のある人のリハビリを音楽でサポートしておりました。

ー音楽から落語の道に進まれたのはきっかけがあったのでしょうか。

きっかけは、阪神淡路大震災でした。地震による恐怖や、音楽活動などで無理をしたことが重なり、ストレスを溜めすぎて、倒れてしまったんですね。それから、病院に通うようになるんですが、そこの先生や患者さんが面白くて、一緒に笑い合うことが多かったんです。みんなで笑い合うと、ひとつの輪になる。「笑いってええなあ」「これをやりたいなあ」と次第に思うようになりました。

どうやって笑いを仕事にしようかと考えて、昔から好きだった落語に辿り着きました。

私が子どものころ、大阪では落語の番組がたくさんあったんです。

また、松竹新喜劇というものがあって、藤山寛美さんという喜劇の神様がおられたのですが、その芝居が刺激的で、祖母と一緒にテレビで見ていました。笑いを表現したいというのはかねがね思っていたんやと思います。

長かった「桂福点」という名前をもらうまでの道のり

人権フォーラムで手話通訳付きで講演をする桂福点さん。

ー桂福團治師匠に弟子入りされていますが、理由を教えていただけますでしょうか。

福團治師匠が手話落語をしていたこと、人情噺に魅かれたこと、その両方が理由です。

ただ、すぐには弟子に取ってくれず、「これから考える」と言われて、1年ほどかかりました。その間は、師匠に言われたことに取り組んでいました。毎日師匠に電話をかける、毎週劇場に落語を見に行って感想を報告するといったことですね。

「テレビ、ラジオやったらあかん」と言われましてね。舞台の落語を見に行くようになりました。当時、大阪の心斎橋に浪花座という演芸の舞台がありまして、テレビに出ないような面白い芸人さんがたくさん出演していたんですよ。色々な笑いがあると身にしみて感じましたな。

1年ほど電話で寄席の感想を伝えていました。

ある日、師匠に「テレビではなく、こういった劇場に本当の笑いがあるように思える」と報告したんです。そしたら、「うちに来い」と言われて、弟子入りが決まりました。

ー落語家の弟子は師匠の生活をサポートしながら下積み生活を送る印象があります。福点さんは、どのように弟子生活を送られていたのですか。

福團治師匠は聴覚障害の方の噺の稽古をつけてこられたこともあり、身の回りの世話というよりも「やれることをやりなさい」という方針でした。例えば、見えなくても掃除はできますね。師匠が作る文書の仕事や手話落語家のお手伝いもできる。こういったできることから始めました。

古典落語の一門で全盲の弟子は初めてだったので、師匠も大変だったと思います。頭を抱えて悩んではりましたからね。

ー落語では、見た目で楽しむ所作があります。その部分は、どのように修行されたのでしょうか。

師匠はもとより、兄弟子が手取り足取り教えてくれたこともあれば、古い友人に見てもらうこともありました。

ただ、師匠からは「まず語り、次にオチ、所作は最後」と言われていたんですね。たしかに、師匠の語りは、聞くだけで鮮やかな映像が頭の中に浮かぶんですよ。なので、語りを1番練習していました。

ただ、色々なしがらみもあって、なかなか名前をもらえませんでした。師匠も悩んでいたと思います。名前がないと落語家としての活動はできないので、音楽と漫談を組み合わせたような活動を地下でやっていましたな。

師匠が「いつか名前をあげたい」と言うてはったので、やめようとは思いませんでした。

それだけに、名前をもらえた時はうれしかったですね。ちょうど、うちの祖母が危篤状態のときだったんです。管につながれて寝たきりの祖母に枕元で名前をもらったと報告したことを覚えています。

落語家としての最初の公演は、「天満天神繁昌亭」という寄席でした。大阪の天神橋にありまして、テレビも入るような大きな会場で、名前をもらった2ヶ月後にやりました。うれしかったですね。

ーそこから現在に至るまで、落語家として活躍され続けているんですね。

私の場合、落語家ではなく落伍者という説もありますがな(笑)。みなさまのおかげで、ありがたいことに、落語家としての活動を続けております。

おかしさを認め合って、助け合える場所を作りたい

ー福点さんは、創作落語も演じられています。コロナ禍では、視覚障害者にとっての不安を落語で発信していました。

創作落語は、障害者理解というテーマを入れるようにしています。「落ちない落語」というものがあります。これは、視覚障害者の転落事故を防止するために作った落語です。僕の通っていた視覚障害支援者学校の後輩が、電車のホームからの転落事故で亡くなったということもあって、このような落語を作ったんですね。

実際に障害理解をテーマに落語にすると、メディアにも取り上げられやすくなって、多くの人に伝えられるんですよ。新聞やテレビ、NHKのラジオ深夜便でも取り上げていただきました。

ー障害理解というテーマと関連するかと思いますが、福点さんは「お気楽島」という福祉事業所を運営されています。どのような方が事業所に通っているのでしょうか。

年齢は若い方から70代の方までいて、発達障害、精神障害、難聴になりつつある方などが通っています。

僕もそうだからか、個性のある人たちと仲間になりたいと思いましてね。小学校の頃の社会科見学で作業所を知ってから、いつか作業所を作りたいと夢見ていたんですよ。

福祉事業所「お気楽島」で、ピアノの横でウクレレを弾く利用者さん。

事業所に来てくださっている皆さんは、お互いに助け合っているんですよね。できること、できないことを、わかりあって関わりあっているので、それがすごくいいなと思っています。

ボーダレスにみんなが交わる場所になっていると思います。

僕もですが、みんなおかしなところがあるんですよね。「おかしい」には、いろいろあります。想像から外れた変なことをするのが、すぐ思いつくおかしさです。他には、気にして悩みすぎるのもおかしさですね。自分のおかしさに気づかず、正しいと信じ込む姿もおかしい。人それぞれ、おかしな部分はあるはずなんです。そのおかしさを認めて、ありのままの自分の姿で生きていくことが1番大事なんやと思います。一緒に溶け合って、しんどい世の中を乗り超えていけるような場所を作り続けたいですね。

お気楽島の創作活動での絵画作品。
奥には「全国ポストカードデザイン大賞、団体奨励賞」の盾が飾られている。
利用者さんが描いたアート作品の数々

桂福点さんが理事長を務める福祉事業所:お気楽島ウェブサイト(外部リンク)

ー最後に、今後の人生でやりたいことを教えてください。

今まで生きてきたことを面白おかしくまとめてみては、といろいろな人に言っていただくこともあり、障害者としてこんな人生を送ってきたというのは例えば本にするとか、何か形に残したいなと思っています。

桂福点さん公式ウェブサイトはこちら(外部リンク)
記事内写真提供:桂福点さん

この記事を書いたライター

Spotlite編集部

Spotlite編集部は、編集長で歩行訓練士の高橋を中心に、視覚障害当事者、同行援護従業者、障害福祉やマイノリティの分野に精通しているライター・編集者などが協力して運営しています。

他のおすすめ記事

この記事を書いたライター

この記事を書いたライター

Spotlite編集部

Spotlite編集部は、編集長で歩行訓練士の高橋を中心に、視覚障害当事者、同行援護従業者、障害福祉やマイノリティの分野に精通しているライター・編集者などが協力して運営しています。

他のおすすめ記事