日本の冬季オリンピック初参加はいつ? 戦前の日本冬季五輪略史

笹川スポーツ財団
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【第1回シャモニー・モンブラン冬季オリンピック(写真:フォート・キシモト)】

2022年2月4日(金)〜20日(日)開催の北京冬季オリンピック大会。これまで多くの日本選手が輝かしい結果を残し、今大会も活躍が期待されるが、日本はいつから冬季オリンピックに参加したのか?その第1歩を振り返ってみる。

クーベルタンは冬季競技を認めなかった

1924年にフランスのシャモニー・モンブランで開催された「国際冬季スポーツ週間」 【写真:フォート・キシモト】

近代オリンピックを創始したフランス人貴族ピエール・ド・クーベルタンの理想は古代オリンピアの競技大会にあった。若い男性が鍛えられた肉体を誇示し、燃える太陽の下で走り、投げ、跳びはね、そして組み合う。もとより地中海に臨むギリシャには冬のスポーツなどない。その当時、すでに欧州ではスキーやスケートが競技スポーツとして発展し、競技大会も開かれていたが、古代オリンピックを模範とするクーベルタンの「近代オリンピックに冬の競技はいらない」という考えに変わりはなかった。

1908年第4回ロンドン大会(夏季)ではフィギュアスケートが公式競技として実施された。この頃までに、英国を代表する百貨店ハロッズのあるナイトブリッジに欧州初の屋内スケートリンクが完成し、ロンドンっ子に親しまれていた。組織委員会は屋内リンクと当時の取り決めである「(オリンピックの)実施種目は近代スポーツに限る」という一項に目をつけ、夏の大会に冬季競技をプログラミングしたのだった。

フィギュアスケートには6カ国から21選手が参加した。クーベルタンは著書『オリンピック回想録』(伊藤敬訳)に書いている。「大会は『冬季競技』の名のもとに、付随的な競技を伴った。それは十月、ボクシング、人工氷上でのスケート、サッカー、ホッケーなどである。これは必ずしも適切な対応ではなかったが、イギリスのスポーツの季節的な慣例を考慮すると、そうせざるを得なかった」

ボクシング、サッカー、ホッケーを冬季競技と言うかはともかく「人工氷上スケート」を「必ずしも適切な対応ではなかった」「イギリスのスポーツの季節的な慣例」とするあたりにクーベルタンの憮然とした様子がのぞく。

第1回シャモニー・モンブラン冬季オリンピック

このロンドン大会をきっかけに国際オリンピック委員会(IOC)の場でも「冬季競技のオリンピック化」が話題にのぼり、第1次世界大戦とスペイン風邪終息後の1920年、ベルギーのアントワープで開催された第7回大会にはフィギュアスケートに加えてアイスホッケーも実施された。

1921年6月のIOCローザンヌ総会では議題として「冬季オリンピック開催」が登場。フランスやスイス、カナダなどのIOC委員の強い主張によって、1922年6月のパリ総会においてIOCが支援して実験的に独立した国際冬季競技大会を開催、その結果によって冬季大会の独立を決める事になった。

この時、おもしろいことにノルディック(北方の)スキーを国技とするノルウェー、隣国スウェーデンが強く反対している。実質的な世界選手権とされた「ホルメンコーレン大会」を主催するノルウェーにはオリンピックに「世界一」の称号が取られてしまう事への恐れが生まれ、スウェーデンを巻き込んだ抵抗に至ったと言われている。

そして、実験的な「国際冬季スポーツ週間」は1924年1月25日から2月5日までの12日間、フランス・オリンピック委員会が中心となって南フランスのジャモニー・モンブラン地方で開催された。正式名称は「第8回オリンピアードの一部として、IOCが最高後援者となり、フランス・オリンピック委員会がフランス冬季競技連盟とフランス・アルペンクラブ共同でジャモニー・モンブラン地方で開催する冬季スポーツ大会」と言う長いものだった。

スキー、スケート、アイスホッケーにボブスレーの4競技14種目を実施、16カ国から女子13人を含む258選手が参加。その結果、翌1925年、IOCはプラハ総会でシャモニー・モンブランを第1回冬季オリンピックとして追認。合わせて1928年にサンモリッツで第2回大会を開催すると決めたのである。

日本の冬季オリンピック初出場は、6選手から

日本が初めて冬季オリンピックに参加したのは1928年、スイスのサンモリッツで開催された第2回大会である。1924年シャモニー・モンブラン大会には参加していない。これは、前年9月に起きた関東大震災の影響で派遣準備ができなかったと言われているものの、何より日本の冬季スポーツは草創期で統括組織もない状況だったためだ。翌1925年以降、日本でも冬を代表するスキーとスケートが組織化されてオリンピック参加に道が開かれていくことになる。

1928年第2回大会は初めて「オリンピック」の名を冠して開催された。会場となったサンモリッツは欧州のほぼ真ん中に位置し、すでにスキー・リゾートとして知られた地域であった。開会式ではスイスのエドムント・シュルテス大統領が開会を宣言し、スキーのハンス・アイデンベンツが選手宣誓している。第1回大会実施の4競技にスケルトンが加わって5競技14種目。参加は25カ国464人に増え、日本から6選手が初参加した。

初参加した日本スキーチーム

1928年サンモリッツ大会で、開会式に出かける日本のスキー選手 【写真:フォート・キシモト】

選手たちを派遣したのは、大日本体育協会ではなく1925年発足の全日本スキー連盟(SAJ)。24年に創設された国際スキー連盟(FIS)に26年に加盟した国内スキー界の統一組織である。発足時に常務委員として加わった広田戸七郎監督に率いられたノルディックスキーの代表6人の内訳は早稲田大学の現役、OBが5人に北海道帝国大学の学生1人。広田も北大出身で両校関係者は派遣費調達に苦労した。

大会に向け、シベリア鉄道経由で欧州へ。サンモリッツに入る前にイタリアのコルチナ・ダンペッツオで開かれた国際学生大会に出場し、初日のクロスカントリー16kmで矢沢武雄(早大)が4位、竹節作太(早大)6位、翌日の滑降でも永田実(早大)が4位、矢沢6位と健闘した。

意気揚々と臨んだオリンピック本番、しかしそううまく事は運ばなかった。クロスカントリー50kmでは永田が完走30人中24位、18kmは完走44人中矢沢の26位が最高だった。ジャンプでは伴素彦(北大)が38位、麻生武治(早大)は2本とも転倒で記録なし。複合でも伴、麻生ともに記録なしに終わった。

当時の日本選手は独学といえば聞こえはいいが、見様見真似で勝手に滑っていたに過ぎない。ワックスの知識もなく、夜間、先進国の宿舎の窓から覗き見て驚いた逸話が残る。また、国産スキー板は桜材で折れやすいため山のようにスキーを現地に持ち込み、密輸業者に疑われたという笑えない話もあった。ただ彼らは大会後、オスロに赴き、先進国ノルウェーで大きな知識を得て帰国。ジャンプでは1932年第3回レークプラシッド大会で安達五郎(札幌鉄道局)が8位、1936年第4回ガルミッシュ・パルテンキリヘン大会では伊黒正次(北大出身)が7位に入り、戦後の飛躍につなげた。

スケート代表に時代を思う…

日本のスケートの興隆に、あの『武士道』で知られた国際連盟事務次長、新渡戸稲造の存在があった事はもっと知られていい。1891年春、ドイツ、米国での留学から戻った新渡戸は母校、札幌農学校(現・北海道大学)に3足の米国製スケート靴を持ち帰った。学生たちは結氷を待ちかね、争うようにスケートに親しんだ。もちろん3足では足りず、本物をまねて靴業者に造らせたり、下駄に刃を付けた「下駄スケート」を使ったり、やがて米国に注文する者が現れるなど、寒い北海道を中心に普及していった。

大日本スケート競技連盟設立は1929年。翌年1月から全日本選手権が始まり、3シーズン目の32年第3回大会にスピード4選手、フィギュア2選手が参加した。スピードは世界との差が大きく誰ひとり決勝に進めなかったが、このスピード4選手中3人が満洲体育協会の所属だった事は知っておかねばならない。

かつて満洲と呼ばれた中国東北部は戦前、日本が侵攻、占領した辛い歴史が残る。一方で日本は産業育成に力をいれ、不毛の地と言われた土地を開墾していった。真冬には零下30度にもなる地域で、早くから氷上のスポーツが奨励され、盛んに競技大会も行われていた。第3回大会代表選手たちは、そうした土地柄で育った。短距離の石原省三はその後、早大に進学し36年第4回大会でも代表入り。得意の500mで4位となり、日本の冬季オリンピック史上初の入賞(当時は6位まで)を果たした。

小学6年生も参加したフィギュアスケート

1936年ガルミッシュパルテンキルヘン大会に冬季オリンピック日本人最年少出場した稲田悦子 【写真:フォート・キシモト】

日本におけるフィギュアスケートは1877年ごろ、宣教師として来日した米国人が仙台市にある五色沼で教えたのが始まり(所説あり)とされる。第3回大会では老松一吉(大阪朝日ビル)が9位、帯谷龍一(慶大出身)が12位だった。

第4回大会には大阪の小学6年生、12歳の稲田悦子が出場。白いコスチュームに赤いカーネーションをつけて滑走、人気を集めた。出場26人中10位に終わったが、この大会でオリンピック3連覇を果たしたソニア・ヘニーは「いずれ稲田の時代が来る」と話したという。しかし、戦火の拡大によって、次の1940年第5回札幌大会は返上。戦争が全盛期を黒く塗りつぶした事は残念でならない。

第4回大会にはアイスホッケーも参加。当時圧倒的な強さを誇った満洲医科大学チームを中心に編成された。氷上スポーツの代表選手に時代を思うのは私だけではあるまい。


文:佐野 慎輔(尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員/笹川スポーツ財団 理事)

※本記事は、2022年1月に笹川スポーツ財団ホームページに掲載されたものです。
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著者プロフィール

笹川スポーツ財団は、「スポーツ・フォー・エブリワン」を推進するスポーツ専門のシンクタンクです。スポーツに関する研究調査、データの収集・分析・発信や、国・自治体のスポーツ政策に対する提言策定を行い、「誰でも・どこでも・いつまでも」スポーツに親しむことができる社会づくりを目指しています。

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