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日本三景のひとつ 『安芸の宮島』

「瀬戸内海」に浮かぶ『安芸の宮島』は、島そのものが御神体とされており、海上には平安時代に平清盛が「社殿」などを造営した「嚴島神社」が鎮座している。「嚴島神社」の背後にそびえる「弥山」も、古来から山岳信仰の対象として知られている。


「嚴島神社」のシンボル「大鳥居」 MAP __

「宮島」は島自体が御神体であり、傷つけることを避けるために、海上に「社殿」や「大鳥居」が設けられたとされる。初代の「大鳥居」は平清盛が建立したといわれ、現在のものは1875(明治8)年に再建された八代目で、本殿から沖合へ約200m離れた場所に建つ。棟の高さは16.6mで、主柱に2本ずつの控柱が備わった「木造両部鳥居」となっている。鳥居上部の「笠木」と「島木」は箱型の造りとなっており、中にこぶし大の石を詰めて「おもし」としている。【画像は明治後期~大正期】

干潮時には「大鳥居」まで歩いて行くことができる。また、満潮時には海の上に浮かぶ幻想的な姿となる。

平清盛が造営した「社殿」、東西に「廻廊」がめぐる MAP __

安芸国(現・広島県)の一宮の「嚴島神社」は、社伝によれば、593(推古天皇元)年の創建とされる。平安時代には、平家の氏神となり、平清盛が「社殿」を造営した。「本殿」をはじめとする「嚴島神社」の建造物の多くや、神社に伝わる『平家納経』は、国宝に指定されている。【画像は大正期】

現在残る建造物は鎌倉時代以降に再建されたものだが、造営当時の優美な姿を湛えている。

古来より、山岳信仰の対象だった「弥山」 MAP __

「宮島」の中央にそびえる標高535mの山が「弥山(みせん)」で、山頂付近に残る巨石群は、山岳信仰の対象となった磐座(いわくら)。平安時代の806(大同元)年、弘法大師空海が「弥山」に道場を開き、「三鬼大権現」を祀ったとされる。

「霊火堂」には、弘法大師空海が求聞持(ぐもんじ)修法を行った際の霊火が「消えずの火」として燃え続けているとされ、「八幡製鉄所」の溶鉱炉の種火や「平和記念公園」の「平和の灯火」の元火にされた。

1枚目の写真は「三鬼大権現」を祀った「三鬼堂」、2枚目の写真は頂上付近にある「毘沙門岩」のもの。【1枚目の画像は明治後期~大正期 2枚目の画像は昭和戦前期】


広島名物「しゃもじ」と「もみじ饅頭」

戦勝祈願のために奉納された「しゃもじ」

戦勝祈願のために奉納された「しゃもじ」。【画像は明治後期~大正期】

広島を代表する名産として有名なのが木製の「しゃもじ」。野球の応援で勝利を願って「しゃもじ」を使う姿もよく知られている。「宮島」では「杓文字」ではなく、「杓子」と書かれ、「しゃもじ」そのものが「宮島」と呼ばれることもある。

この「しゃもじ」は、江戸時代の寛政年間(1789~1801年)に、「宮島」にある浄土宗の寺院「光明院」の僧である誓真が弁財天の夢を見て、琵琶形の「しゃもじ」を考案し、「御山」の神木で作ることを島民に教えたことに始まる。その後「しゃもじ」は「宮島」を代表する土産物となった。

「日清戦争」「日露戦争」時には「敵を召し(飯)取る」という意味から、戦場に向かう兵士が、戦勝祈願のために多数の「しゃもじ」を奉納していた。「千畳閣」の柱に括りつけられた、無数の「しゃもじ」を写した絵葉書も残されている。

「宮島」名物の「もみじ饅頭」は、明治後期に和菓子職人が、旅館「岩惣」の依頼を受けて考案したとされる。この「紅葉形焼饅頭」が1910(明治43)年に商標登録され「しゃもじ」とともに「宮島」を代表する土産物となった。一説には「宮島」を訪れた初代総理大臣の伊藤博文が、給仕した茶屋の娘の美しい手を見て「なんと可愛らしい、もみじのような手であろう。」と、掛けた言葉がヒントになったともいわれている。



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