『馬毛島に軍事基地よりトビウオを! マゲシカに安住の地を!』2022年2月26日(土)

2022年

『馬毛島に軍事基地よりトビウオを! マゲシカに安住の地を!』というテーマで、田頭壽雄さんにお話をしていただきました。

田頭壽雄さんは、昭和34年 22歳の時に、種子島 西之表市榕城(ようじょう)中学校に赴任され、4年間種子島で過ごされました。その後、頴娃高校へ転任された後も、社会クラブで生徒さん方を連れて馬毛島を訪問されたことがあるとのこと。

現在、馬毛島は、米軍の軍事基地にする計画が進められています。

今回は、田頭壽雄さんの馬毛島での体験、その体験から感じた馬毛島の良さ、そして馬毛島の歴史、について話を聞くことで、何も知らなかった馬毛島から、知っている馬毛島に、私たちの心境が変化させられたのではないかなと思っています。

1. 馬毛島での私の体験

トビウオ漁 観察

早朝に、船は出た。事前に知人から「漁の邪魔にならんようにせよ」と忠告された。

事前知識は――二隻の船で囲むようにして捕る。トビウオは、産卵のため、その日に、どこに集まるかはわからない。各漁村から出た多くの漁船は島の周りをまわっている。

魚群探知機を備えた船が島の周りを走っていて、トビウオの産卵場所を察知したら島の最高所の岳之越にあるトーチカの人に信号旗で知らせ、トーチカの人は特定された場所を「大まかな海岸4か所」の中の位置を示めす旗を上げる。

それを見た各漁船は一斉にそこに疾走する――というもの。それから先は、まさに戦争。私は船べりに身をかがめ見物していた。漁場に着くと二隻の舳先に立った二人の素っ裸の青年が6尺褌をぐるぐると手早く巻き、海に飛び込む。潜ってトビウオを網の方に追い込む。ほかにも2・3人が同じように飛び込んだ。二隻の船は青年を囲むように網を進め、最後に巻き上げて取り込む、という流れである。回りはトビウオの産卵と精液で白く濁っている。豊漁で網は重かった。

これがトビウオ船観察状況である。他に別の人が学問的に書いた記録もあるが、私の見たままの聞いたままの記録である。

私は4年間の在職中に、毎夏、田植え時期に故郷の出水市今釜の実家にトビウオの干物を送り続けていた。大変、喜ばれていた。

馬毛島での思い出

私の馬毛島との関わりは、初任校の榕城中学校4年間に数回、上記の観察が最初。着いてすぐに目に入るのが茅葺の小屋群、サンゴの石垣の中に作られていて、観光気分の人には興味津々。ソテツ群と緑の草原段丘。今の時代のキャンプ経験にとって最適の場所と言える。しかしマムシは多い。

その後、次の赴任地の頴娃高校時代に、社会クラブの希望メンバーを連れて「種子島(門倉岬)と馬毛島」を隔年で2回訪問し、馬毛島小中学校の玄関で先生たちと写した写真も残っている。

昭和42年(1967)夏、頴娃高校社会クラブの生徒と馬毛島を訪れた時、雄牛の去勢された睾丸が簡易小屋の屋根に並べて干してあった。それを見て、若い男性たちにそれをどうするのか、と質問してみた。すると、「食べる」のだ、という。

味を聞いてみたら、「豆腐のような感触」とのこと。

それ以外に、種子島は個人的やら同窓会に招待されたりで数回訪ねている。馬毛島年表で確認してみると、1960年(昭和35年)から1967年(昭和42年)頃の訪問で、馬毛島がその歴史の中で一番栄えていた時代から少しづつ衰えていく頃であることが分かる。

赴任当時の馬毛島情報は「トビウオの島」、夏休みのトビウオ漁最盛期の頃に、その漁労船に乗った印象(上記)が強烈である。トビウオ漁期には漁業権を持っている西之表市の幾つかの漁村は、茅葺の出漁小屋を持っており、季節出稼ぎ的なものであった。西之表市と簡単に往来はできるが、現地での干物加工もやっていた。

夏休みになると、中学生などを中心に手伝いを兼ねて訪ねていた。生徒は洲之崎・池田・塰泊という漁村の子供。それを慰問したり見学したりするため、小中学校の教職員は船遊びや釣り気分で訪ねることがあった。たっぷりのトビウオの刺身で宴会の後、一泊し、各自めいめいに翌日を過ごすものであった。私は行ったその日に海岸を3人の生徒と1週し貝殻を拾い、夜は大岩の上で同僚の夜釣りに同伴して徹夜した。翌朝のトビウオ漁に乗船したのが冒頭の文章である。

 実ににいい島である。軍事基地になるとは!

昭和35年 馬毛島に向かう船

2.馬毛島の歴史

大正11年8月13日付鹿児島新聞に「・・・奈良朝時代、・・・種子島は鹿皮百張を年貢として納付した歴史・・・、馬毛島は野生の鹿で、・・・鹿の楽園、・・・何れを見ても5頭、10頭の群れをなす鹿が居る。・・・・・この景趣は実に世界一、・・・・」 という記事があり

すでに、奈良時代(710~794)に鹿皮を年貢として納めていたということ。
そして、宝暦年間(1750年代)馬毛島の漁業地(池田・洲之崎・塰泊)以外は、西之表の士族・平山寛蔵の録地、になった。

田頭さんは、「島を個人の所有物にすること自体がおかしい」と言われていました。)

昭和16年 南方航路の防衛上の補助的基地として、西之表町民が勤労奉仕で、岳ノ越に機関銃砲座を持つトーチカを構築、海軍特別部隊が駐屯。

昭和26年 鹿児島県と西之表町は馬毛島開拓移住を開始、39戸入植
昭和34年 移住のピーク 113世帯 538人 在住

漁村の風景

昭和45年 人口流失が、50%を超える。
昭和50年 馬毛島開発株式会社が島ごと買収

昭和55年3月 最後の島民が島外に移住、馬毛島小・中学校も閉校

それ以降は、馬毛島開発株式会社(以後、社名を数回変更、現在タストン・エアポート社)が、
FCLP(陸上空母離着陸訓練)の移転先としての誘致を行い、馬毛島の島を十字に横切る「滑走路」を建設。

現在は、一層開発が進み、マゲシカなどの自然動植物の生息地が失われている。

ドキュメンタリー映画「島を守る」

3.マゲシカ

西之表市百年史に書かれたあるように、マゲシカは、1300年以上昔から住んでいたらしい。

このシカたちは、千年以上もこの馬毛島で子を絶やすことなく、絶滅することもなく子々孫々と生き続けてきた動物たち、だということ。

その生き続けてきた秘訣として、研究者の方に話によると、島内の草原と森林をオスとメスですみ分ける生態が長期存続の鍵と考えられているそうである。

「基地化進む馬毛島のマゲシカ」

感想

馬毛島は、人が住まなくなった島ではありますが、自然動植物がそれぞれの生態系を保ちつつ、暮らし続けている場所です。その安住の地を、人間の都合で奪ってよいものでしょうか。

これから馬毛島の状況について、関心をもっていきたいと思います。

201110月 「馬毛島 失われゆくもの」4回シリーズ 南日本新聞

コメント