その先は永代橋 草森紳一をめぐるあれこれ

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。 このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。写真 草森紳一

「もの書き」草森紳一の蔵書約3万冊は、2009年11月故郷の帯広大谷短期大学に寄贈されました。このブログでは、以後の草森紳一関連ニュースをお伝えしていきます。 写真 草森紳一

草森紳一が亡くなったのは、いつ?


早いもので草森さんの急逝から4年。
4年前の3月29日(土)のお昼前、大倉舜二さんからのお電話で知りました。
私は、ちょうどこのひと月前に父の三十三回忌と弟の追善供養を関西で執り行い、残務整理や、お世話になった方々へのお礼をすませ、東京に戻って一息ついた時でした。
(草森さんからは、足が悪くて残念ながら参列できないという丁寧なハガキが母宛に届いていました。)

自宅の本の山の中に倒れているのが発見されたので、深川警察署の死亡診断書は3月17日推定、原因は心不全でした。
しかし18日の夕方には京都精華大学の方と、夜には『en-taxi』 の編集長と電話で話しているのです。
そのため、新聞の訃報記事は17日だったり、20日だったりと混乱していたように思います。

4月2日の葬義を終えた数日後、『en-taxi』の編集長から痛恨のお便りをいただきました。
3月16日から20日までの経緯をまとめてあって、
「〜やはり、亡くなられたのは、18日深夜から19日午前にかけてであったろうと、私は確信する次第です。〜〜」とありました。

深川署に出向いて死亡日の変更をお願いしましたが、電話の通信記録なり証拠となるものが必要とのこと。
ところが電話局では発信記録しか残されないシステムのため、草森さんの電話番号による調査は不可能、発信元の京都の大学も出版社も通信記録の調査となると膨大なため不可能です。
考えあぐねていた時にひらめいたのが、「マンションに監視カメラはあるか?」でした。

門前仲町の管理人室でモニターチェックを始めて2日目。
3月18日深夜23時36分52秒、エレベーターから出る後姿が映し出されました! 
マンション入口のポストで郵便物をチェックしてから出て行き、23時51分46秒コンビニの袋を提げて元気な足取りで帰ってきたのです。
とにかくバックアップをと、操作をしてもらっている最中、データがすべて消えてしまったのでした。なぜか……。
韓国製の古い古いモニターだったためか、復帰再生はとうとうできませんでした。
19日も20日も見ることができず、デジカメで撮った数枚の写真だけが手元に残りました。

3月の18日から19日へと日付けが変わったときはお元気だったことでしょう。

3月29日に大倉さんからお電話をいただいたとき、不思議なことがありました。
草森さんが、遠くに出掛ける前にちょっと立ち寄ったかのような不思議なことが。

それに加えて、草森さんとは古い付き合いだった私の知人が夢を見たというのです。
彼女が「ど〜したんですか、草森さん。お骨になんかなっちゃって」と言うと、
「それがね、19日の明け方、急に胸が苦しくなってね」と言ったというのです。

そんなわけで草森紳一の命日は、3月19日ということになりました。

ちょうどお彼岸です。十勝おはぎのお店の前は長蛇の列でした。甘党だった草森さんにお供えしなければなりませんね。

  

(上の写真は、副島種臣の書の前で。1990年、下の2点は北海道で、吉田政勝氏撮影。1985年頃?)

崩れた本の山の中から 白玉楼中の人