尾張藩甲賀者・・・・・尾張藩甲賀五人渡辺善右衛門と仲間達

木村奥之助と甲賀五人

 延宝7年(1579)第二代尾張藩主徳川義直は、その数年前に武士として採用していた元甲賀の山伏木村奥之助に命じて、甲賀に於いて5人の甲賀忍びを採用させた。この際尾張藩と彼ら5人は「契約」をしたと記録され百姓身分のままで武士である奥之助に統率された。この5人は正月など定められた時以外は甲賀に在住していて、緊急事態の際の出動に備える形で幕末まで約190年間代々勤め続けた。

文化11年(1814)渡辺善右衛門の比定

 文化11年における渡辺家の当主は渡辺俊宗である。しかし系図上は「平右衛門尉」としか記載されておらず、善右衛門であるとは確定できない。

 しかし、寛政8年(1796)の父の死を受けた代替わり文書(当家文書No.7)に寛政9年(1797)4月付けの「渡辺善右衛門俊宗」のサインがあり、同No.120に「渡辺善右衛門俊宗」の年月日不詳のサインがあり、また同NO.147等文政期の証文類に渡辺善右衛門宛てのものが複数存在することから、天保6年(1835)歿の渡辺俊宗が父親の死後約40年間善右衛門を名乗ったことは間違いない。よって文化11年に於ける甲賀五人文書発給者5人中の渡辺善右衛門とは当家の先祖渡辺俊宗であると比定して差し支えない。

渡辺家部分系図(尾張藩勤め初代~4代)

甲賀五人渡辺善右衛門家の歴代確定

                        尾張藩勤め          引継書

初代  渡辺俊参(三之助) 平右衛門      延宝7年(1679)より46年間    —―           

2代  渡辺俊安(新六郎) 善右衛門      享保9年(1724)         あり

3代  渡辺規俊      平右衛門      明和9年(1772)より勤務     あり            

4代  渡辺俊宗 平次右衛門尉のち善右衛門   寛政9年(1797)~文政9年隠居   あり

5代  渡辺俊明(隼太)  夭逝        なし              —―

    渡辺俊宜(平内)  平右衛門 中村家より養子文政9年36歳にて歿   俊宗再任?

6代  渡辺俊勝      善右衛門      文政12年(1829)より        あり         

7代  渡辺俊恒 (捨三郎) 平右衛門      明治元年(1868)勤務終了     なし

他の四家の判明状況極く概要

①渡辺新右衛門家:杉谷村の渡辺善右衛門家の分家(東隣の燐家であった。)である。代々漢方医であった。尾張藩忍びの初代は渡辺権右衛門、文化11年時点は渡辺新右衛門、最終は渡辺宗十郎俊賀である。現在ご子孫の行方が不明で連絡が取れていない。

②神山与左衛門家:塩野村の山伏。文化年間の宗門改めの古文書が残る。尾張藩忍びの初代は神山市右衛門、文化11年時点は神山与左衛門、最終も神山与左衛門(政吉又は亀太郎)である。ご子孫が太平洋戦争の頃に隣の蒲生郡日野町に転居され今もそちらにお住まいである。

③望月弥作家:甲賀望月氏の有力者で塩野村在住の一族。尾張藩忍び初代は望月甚太夫重宣、文化11年時点は神山甚太夫重満(与作)、最終は神山甚太夫重安(哥之介)である。ご子孫は神戸に在住されていたが、現在音信不通となった。なお初代の採用された時期については当家の系図に天和2年(1682)と記載されており、他の4家より3年遅れて採用されている。

④木村源之進家:杣中村木村本家の一族であることは間違いないが、実は子孫の家系が杣中村で見つかっておらず、確定できない。尾張藩忍びの初代は木村文四郎で木村奥之助の弟(三男又は四男)と推定。文化11年時点では木村源之進、最終は木村文八である。末裔は現在不明。

⑤吉川金四郎と柘植治郎兵衛;伊賀の貝野家文書に寛政4年(1792)の情報として尾張藩忍びの甲賀者として他の5人と共にこの二人の名が出て来る。葛木村の吉川氏は寛永20年(1643)に望月氏本家筋から家来の者として吉川の姓を授かっており、延宝7年(1679)に一旦吉川金四郎が尾張藩忍び五人の一人として採用されたものの、天和2年(1682)に尾張藩忍びの役を主人筋の望月甚太夫に譲ったものとして間違いないものと推定される。因みに昨年村文書の中から見付かった「間林清陽」の発見場所の旧葛木村はまさにこの吉川氏の居住する村であり、この古文書も吉川氏の一族から流出したのではないかと考えられる。

柘植治郎兵衛が何者であり尾張藩甲賀五人とどう繋がるのかは目下不明である。

戦国時代以後の渡辺善右衛門家と渡辺新右衛門家

 渡辺新右衛門家は戦国時代に渡辺善右衛門家から分かれた極めて古い分家である。しかしこの時期は資料も少なく系図が混乱していて両家をすっきりと結ぶことはむずかしい。そこで若干の仮定をおいて両家の系図を繋ぎ(D系図とする)、比較的信頼できる江戸時代の情報で両家を今一度系図的に見直した。その結果250年ほどの間に7回の婚姻関係が結ばれていたことが判明した。これは開田氏文書(馬杉文書)に於いて認められた馬杉氏の血統を守ろうとする一族(開田、多喜、飯田三氏)の行動と同様のものと思われた。

                                  

五人の頭木村奥之助家について

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