つどいのひろば


わたし達が最初に出会った原爆をテーマにした作品といえば、「はだしのゲン」、
作者である中沢啓治さんが被爆した体験を通して描かれた漫画で、
1973年から「週刊少年ジャンプ」で連載がスタート、今年は連載開始50年という節目の年でもあります。
そんな「はだしのゲン」の舞台となった広島の街を、実際に歩いて案内する方がいるということで、
会いに行ってきました。NPO法人アントヒロシマの渡部久仁子さんです。
まずは、中沢さんのご自宅があった、舟入本町からスタートします。

中沢さんは当時6歳で、7人家族でした。お父さん、お母さん、4男1女の7人家族。中沢さんは三男でした。
原爆投下の8月6日の時、お兄さん2人は学徒動員や集団疎開で家にいなかったため、5人で暮らしていました。
家族はみんな家にいて、中沢さんは通っていた神崎国民学校に登校します。


神崎国民学校のあったとされる場所


ひとりで登校した中沢さんは、門の近くで一人のおばさんに声を掛けられます。
学校のコンクリート塀を背にして話をしていました。
その瞬間、中沢さんは白に、内輪がリン燃やしたような色で、
外輪がオレンジと赤の色をした火の玉が目の前にパッて入ってきて、
そのまま気を失ったと言います。
おばさんは熱戦を浴びて、顔がどろどろに溶けてしまった。
なん10cmかの違いが生死を分けたことになります。


神崎小学校の慰霊碑前


神崎国民学校は、爆心地から南西におよそ1.2キロ、
神崎国民学校は、木造二階建ての校舎。爆風で倒れ、火に包まれたと言います。
すでに学校に登校していたおよそ25名は、校舎の下敷きとなり亡くなりました。
神崎小学校には、原爆でなくなった児童、教職員あわせて147名の慰霊碑が建立されています。


舟入川口町電停前


中沢さんはお母さんがいたという情報を聞き、
被爆した神崎国民学校のある舟入中町から、舟入川口町の電停へと向かいます。
ここでお母さんと再会、そして妹さんとなるとも子さんが生まれたことを知ります。
実際に歩いてみると、その過酷さが身体的につかめる感覚があります。

渡部久仁子さんは、現在42歳、
2007年に、広島市内で行われた中沢啓治さんのトークショーに参加し感銘を受けたと言います。
そこからはじめてヒロシマに向き合うことを決意し、
何が起きたことを調べ、原爆の語り部に直接お話を聞く活動もはじめました。
この「はだしのゲン」のガイドも自主的にはじめたもの、
すべてはたくさんの人に、原爆の実相、そして「はだしのゲン」を知ってほしいという思いからはじまっています。


渡部さんは、中沢さんに、信じてもらったことへの感謝が大きいと話します。
当時20代でヒロシマのことを知らなかった渡部さんのことを信頼し、
どんな企画でも、途中で口をはさむようなマネはしなかった。
だからとにかく恩を返したい気持ちがとても強いようです。

改めて渡部さんに教わったのは、
自分の思いを押し付けずに、相手を信頼して伝え続けること。
それが伝え継ぐことの1歩なのかもしれないですね。



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