埼玉県さいたま市に、盆栽町という場所があるのをご存じだろうか? 関東大震災で罹災し、盆栽を失った東京の造園業者、盆栽業者たちが、安住の地を求めて大宮に移り住み、1925(大正14)年に誕生したのが「盆栽村」と言われる。戦前は25軒の盆栽園が軒を連ね、当時は住民も「盆栽を10鉢以上持っていること」「生垣を作ること」「門は開放しておくこと」「2階家を建てないこと」という内規が居住の条件になっていたそうだ。1940(昭和15)年に旧大宮市に編入され、現在は「盆栽町」となっている。

清香園5代目園主、山田香織さん(写真:花井 智子、以下同)

 盆栽町に入ると、突然風情のある家屋が並ぶ端正な町並みとなる。盆栽村が作られた当時の通り、道が碁盤の目状に整えられ、両側にはサクラ、モミジ、カエデ、ケヤキなどが植えられている。道には「けやき通り」「もみじ通り」など木の名前がついており、「盆栽四季の道」と呼ばれているのだ。盆栽町には現在6軒の盆栽園があるが、その1軒が今回の跡取り娘、山田香織さんの清香園だ。

 100年ものの盆栽が並ぶ園の真ん中に立つ山田香織さんは、風景にしっくりと溶け込んでいる。跡取り娘の取材を重ねていると、何代もの血筋が家業にふさわしい人となりを生み出す不思議を感じることが多いが、山田さんはまさにそんな存在だ。

 山田さんは清香園4代目園主、山田登美男さんの一人娘として生まれた。清香園は江戸・嘉永年間の創業で、江戸の町で庶民の文化として最も盆栽が花開いた時代と言われている。

 「幼い頃から、家業を継ぐよう刷り込まれていたように思います。小学校の父の日の作文に『私が5代目をがんばって継ぎます』と書いたのを覚えていますから」と山田さんは微笑む。

 小学生の頃から父の切った枝で遊び、母から水やりを教わった。大きな盆栽は、「触ってはいけないもの」と幼い頭でも分かっていた。なにしろ清香園は国内でも3本の指に入る古い園で、園内の立派な盆栽は100年を超えるものが多い。100年…。まさに今言われている「Sustainability」を体現しているのが盆栽なのだ。

 盆栽の世界は、女性の園主は数%という男性社会だ。山田さんの父も、先代の園主の娘だった母と結婚し、サラリーマンから園主となった。山田さんが女性ながら「跡取り」として育てられたのは、母の強い希望もあったという。

 しかし、家業を背負った子供には必ず反抗期がやってくる。「中1ぐらいから、どうしてこんな家に生まれたんだろうと、自由に未来を描けないことを重荷に感じるようになりました。古くさい家業がカッコ悪いと思ったこともあります。東京の中学・高校に通っていた頃、恥ずかしくて友達には家が盆栽園ということを隠していました」

 18歳の時に、山田さんが家業を見直すきっかけとなる出来事があった。父がニース・コートダジュール・パリを巡る、贅沢な家族旅行に連れて行ってくれたのだ。旅行のために父は保険を解約したと、後で聞いた。

 「飛行機はファーストクラス、一流ホテルに宿泊。今で言えばセレブ旅行です。文化水準の高い国の一流の文化を肌で感じなさい、ということだったのだと思いますが、10日間の旅行中、驚くことの連続でした」

足し算のフラワーアレンジメント、引き算の盆栽

 フランス人の感性に触れた10日の間、つい花に目が行ってしまったというのは、さすがに園主の娘として育ったからかもしれない。画家アンリ・マティスの墓に行った時、墓参者が飾っていったリースの配色を見て、「これは真似できない」と思ったそうだ。また、移動式遊園地にあった花のマーケット。ブリキ缶に入った花は、無造作に突っ込んであるように見えて、配色が絶妙なのだ。ホテルのトイレに飾られたアレンジメントひとつとっても、感動があった。

清香園5代目園主、山田香織さん

 「その時気づいたのは、フランス流のアレンジメントと盆栽の違いでした。様々な色を足していくアレンジメントと異なり、盆栽は枝をどんどん落としていく、いわば『引き算』の考え方。全く逆なのです。盆栽園で育った私がフランス流のアレンジメントを勉強しても、きっと苦労するだろうと思いました」

 同時に山田さんは、こう思った。逆にフランスの花屋の娘だったら、盆栽を学ぶ時に同じように苦労するのではないか。「その時にふと、盆栽園の娘として育った私が盆栽をもっと学ぶことで、いつか海外の人たちに伝えられるものが見つかるかもしれない、と思ったのです。自分の中にしみこんでいる“盆栽家の血”に気がついたのです」。初めて家業を前向きに捉えた瞬間だった。

 しかし学生時代はまだ反抗期の延長。大学では、畑違いのマーケティングを学んだ。一方で盆栽園も商売だから、流通について学ぶことはマイナスにはならないはず、という気持ちもあった。卒業時には就職活動もしたが、「当時はもう就職難でした。いろいろな会社を受け、SEの内定ももらいました。その頃は、まだ園を継ぐ決断はしていなかったんです」

 そんな山田さんを、父は黙って見守っていた。内定をもらったと伝えると「社会に出て勉強するのもいいよ」と答える父。しかし「父は、内心は逆の気持ちだろう、と私にはなんとなく分かったのです」。内定はもらったものの、迷い続けた山田さん。特に母からは「5代目を継いでほしい」という無言のプレッシャーがひしひしと伝わってきた。

樹齢300年になる五葉松。銘は「翁」

 迷いの末に、4月下旬に家業に入ることに決めた。ある日、父と一緒に電車に乗っている時、つり革に並んでつかまりながら、こう伝えた。「やっぱり盆栽園をやることにしたよ」「そうか」。…父娘の会話は短かったが、父のうれしそうな表情を山田さんは今でも覚えている。

 一度は就職するなど、他の世界を見てから跡取りになる人も多い。山田さんはなぜ卒業後すぐに、盆栽の世界に入る決断をしたのか。その理由は、彼女なりのマーケティング戦略にあったのだ。

「おじいちゃんの趣味」といわれる盆栽に女性客を

 「昔から見ていると、盆栽園に来るお客様は男性ばかり。どうしてなのかと考えた時、女性に対する魅力的な提案がなされていなかったことに気づきました」と山田さん。

 奇しくも99年当時は、女性の間でガーデニングは既にブームになっていた。30代女性を中心にした和のブームもあった。既存の盆栽愛好家だけではなく、全く違う層に盆栽をアピールできるタイミングかもしれない、と山田さんは思った。

 「今までの盆栽愛好家は、ほとんどが年配の男性。『おじいちゃんの趣味』というイメージと、逆のベクトルを考える必要があります。若い女性たちをどうやって取り込むか、ということですね」。その意味で、22歳の女性である自分が先導することが、既存の盆栽のイメージを覆すにはインパクトがある、と感じた山田さん。「だから、待たずに自分で始めよう、と思ったのです」

 盆栽家の跡取りとしては通常5年間、徒弟としての修業が必要だ。しかし山田さんは、既に取得していた植え替えや剪定の技術を生かし、ある盆栽の教室を始めることにした。それが、「彩花」盆栽である。

彩花盆栽の一例。竹の器に山ゴケを敷き、ヤブコウジ(右)と雪割草の芽(左)をあしらう

 「彩花」は、父登美男さんが1985年に商標登録をした新しい盆栽の形だ。通常の盆栽は、大自然の風景を1本の木で表現するというもので、手に入れてから自分好みに育てるまで5~10年はかかる、息の長い趣味である。これに比べ「彩花」は、枝ものと、草ものの寄せ植えという形態で自然の風景をつくる。父登美男さんが盆栽の大衆化を図ろうとして考案したものだが、娘の香織さんはそこに目をつけた。

 「『彩花』を、女性が好む形に私なりにアレンジしていこうと思ったんです。技術は盆栽と一緒ですが、もっとおしゃれで、マンションの一室にも置けるような形にしたいと思いました」

 こうして99年9月から、山田さんの「彩花」盆栽教室は始まった。最初の生徒は9人で年配の男性ばかり。しかし今は、通信講座やカルチャースクールを含めると400人の生徒がおり、7割を女性が占めているという。

 後編では、山田さん流の盆栽ビジネスについてお聞きする。


山田香織(やまだ・かおり)
1978年生まれ。盆栽家。「彩花」盆栽教室主宰。清香園4代目園主、山田登美男の一人娘として生まれる。立教大学経済学部卒卒業。NHK文化センターさいたまアリーナ教室講師、NHK教育テレビ「おしゃれ工房」「趣味の園芸」「趣味悠々」などに出演。監修書として『はじめての盆栽グリーン』、エッセイの入った著書『小さな盆栽のある暮らし』、『山田香織のミニ盆栽でつくる小さな景色』など。海外の盆栽講習会などでも精力的に活躍している。

日経ビジネス電子版から転載。
日経BP総研 HR人材開発センター長 大塚葉が担当した記事を再掲。