東日本大震災から8年、2011年度に策定した「気仙沼市震災復興計画」の最終年となる2020年度に向け、宮城県気仙沼市では、まちの再開発やインフラの整備が急ピッチで進んでいる。「まち」はどこまで復興したのか。これから「しごと(産業)」をどうしていくのか。それを担う「ひと」づくりをどうするのか。その答えを求めて現地を訪ねた。今回の前編では<まちの復興><しごとの復興>について、後編では<ひとの復興>についてまとめた。
<まちの復興>気仙沼の顔として内湾の魚町・南町地区に期待
東日本大震災から8年、その傷痕は復興が進む被災地では消えつつある。気仙沼市でも、JR気仙沼駅周辺、魚市場、幹線道路などの現在の景観から、被災当時の様子をうかがうことは難しいかもしれない。
もっとも、かつて港町の中心だった内湾地区(魚町・南町)は、復興整備の真っ只中だ。市役所から内湾地区方面に向かって5分ほど歩くと、整地された広大な土地は、一部を除いて施設建設の着工を待っている(2019年2月現在)。
気仙沼市都市計画課によると、内湾地区の地権者への土地の引き渡し状況については、1月末現在でまだ約60%に留まっているが、2019年度に宅地の造成工事が終わり、概ね宅地の引き渡しを終え、2020年度には残った公園などを整備して完了する予定だという。
「もともと漁船が水揚げする港や魚市場があって、船員さんや漁業関係者たちで賑わった繁華街だった。内湾地区が賑わいを取り戻せれば、気仙沼復興の象徴になる」と、担当の三浦博之氏は期待を込め語る。
気仙沼市では、震災前に7万5000人前後あった人口が、2019年1月末現在6万4000人を切った。震災をきっかけに気仙沼に可能性を見出し、移住する人は増えているものの、地元の若者の定着を進めなければならないのは、人口減少に直面するほかの自治体と同じだ。
「内湾地区の復興は、気仙沼の人々の求心力にもなる」と話すのは、内湾地区の南町エリアで進む「内湾地区まちなか再生計画」によるまちづくりを担う気仙沼地域開発社長の菅原昭彦氏。気仙沼商工会議所会頭も務めるまちづくりのリーダーだ。
「内湾地区まちなか再生計画」では、先行して、2018年11月に南町海岸商業施設「迎(ムカエル)」を整備。2019年4月13日には市の施設「気仙沼市まち・ひと・しごと交流プラザ」が開業した。そして2019年秋までにオープン予定の気仙沼スローフードマーケット(仮称)、気仙沼スローストリート(仮称)と合わせて、商業施設の集積を進める計画だ。
「内湾は気仙沼という港町の顔。しかし、震災前、シャッター通りになってしまったエリア。そうならないように、これからの港町としてどういったしつらえをすればいいのかをよく考えた」と菅原氏。こうしてできあがったコンセプトが以下の3カ条だ。
- 思わず歩いてしまうまち
「人は歩かない」を基本に考え、回遊してもらえるように、魅力のある店舗をギュッと詰め込んで配置する。 -
楽しくなってしまうまち
「人はすぐ冷める」を基本に考え、店舗や人の賑わいが途切れない空間、ムードをつくる。 -
ここにしかないまち
「人は来ない」を基本に考え、地元の人がいいと思えるもの、ここにしかないものを集めて旅行者を集客する。
これをもとにグランドプランを策定。スローフードマーケット、スローストリートには、地元グルメが楽しめる飲食施設のほか、クラフトビール工場、映画上映もできる多目的ホール、観光みやげでなく、地元の人たちが日用使いで買っている商品を販売するマーケットなどの施設を配置する予定だ。スローストリートの事業費は2億4000万円で、復興庁、中小企業庁からの約1億2000万円の補助金を活用する。
数千人規模の屋外ライブも開催できるフェリー乗り場に隣接するウォーターフロントの広場は、デザインの全体統括を早稲田大学都市・地域研究所の阿部俊彦氏、ステップガーデンなどのランドスケープはオンサイト計画設計事務所の長谷川浩己氏、夜景はぼんぼり光環境計画の照明家の角舘政英氏によるもので、華やかな港町の明かりを演出する。なお、広場も含めた街並みなど、地区全体景観のアドバイスを東京都市大学特別教授で造園家の涌井史郎氏の研究室が担った。
「まちなか再生計画」による南町の開発は、ハードは着々と出来上がりつつあるが、テナントの誘致はまだ道半ばだ。気仙沼の仮設商店街が閉鎖になったのが2018年。受け皿となる施設が開業するまでしばらく待つことになり、有力な事業者が抜け落ちてしまった。また、隣接する魚町側は、約240mのフラップゲート(津波のときに浮力で立ち上がる起立式ゲート)を持つ防潮堤の高さを間違える施工ミスがあり、用地に盛り土が行われ、開発が遅れている。
「まずは、施設が開業して、南町に賑わいが戻れば、有力なテナントの出店も期待できる。また、魚町の再開発にもいい影響を与えられるはず。どこかに起点を作らないと、まちは顔が見えなくなってしまう。その役割を盛時の気仙沼の記憶を持つこの内湾エリアが担う」と、菅原氏は意気込む。