江戸城の天守閣は1657年に焼失して以降、再建されていない。評論家の八幡和郎さんは「皇族が皇居に住まわれている限り、天守閣を再建することはむずかしいだろう。しかし、皇居周辺の歴史的な景観を復元し、経済的・財政的に有効に活用することは重要だ」という――。

昭和時代にも浮上した「江戸城の天守閣再建」

菅義偉前首相が、明暦の大火(1657年)で焼失した江戸城天守閣の再建に前向きな発言をして話題になっている。11月12日の「日曜報道 THE PRIME」で、東京のインバウンド観光に活用するため、「一つの大きな方向性と世論をつくらないといけない」と話したのだ。

歴史的な経緯もいろいろありそうなこの問題を、皇室のあり方、歴史景観の復元、国有財産の有効利用、観光開発などの視点から多角的に考えてみたい。

「江戸城天守閣の再建」は、昭和天皇の晩年に自民党の中山正暉衆院議員らが、「天皇ご在位60年へのプレゼントとしてはどうか」と運動したことがある。

だが、昭和天皇が喜ぶとは思えず、私は「首都機能を移転したのちは、江戸城本丸跡である東御苑とその周辺は、江戸の風景を再現し、現在の皇居がある西の丸跡は明治からの近代日本の記念公園というのも面白い」と提案していた。

秀吉の命で江戸に入った家康が築城

その後、NPO法人「江戸城天守を再建する会」が設立され、いまも運動している人がいるし、松沢成文・現参院議員は2012年の都知事選挙に出馬したときに、公約に掲げていた。

「わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞみる」は、室町時代の武将・太田道灌が、足利義政のために詠んだ歌だ。当時、日比谷公園は船着き場で、皇居や国会議事堂付近は高台だった。

相模の扇谷上杉氏家臣だった太田道灌が1457年、利根川(当時は現在の隅田川が本流)の対岸の古河公方に睨みをきかすために城を築いた。これが江戸城のはじまりだ。北条氏の重要拠点の一つだったが、家康に江戸を本拠にするように指示したのは豊臣秀吉で、平野の中心で丘陵地帯の先端が海に突き出し、大河が波静かな湾に流れ込む地形が大坂に似ていたことに注目した。

太田道灌
太田道灌(画像=大慈寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons