地主と住民が作り上げたまち

10月中旬、東京の戦災復興を担当していた東京都建設局都市計画課長の石川栄耀に、地主の峯島とともに面会し、秘めていた計画を披露している。

石川は今まで理想的な復興計画を立てても土地問題が錯綜さくそうして実現できなかった。ところが、このまちでは地主と住民がまとまっていることに感銘を受け、芸能広場のある理想的な文化地域の建設計画を立てようということになった。

そして出来上がった計画が、広場を中心に、歌舞伎劇場などの大劇場2、映画館4、お子様劇場1、演芸場1、大総合娯楽館1、大ソーシャルダンスホール1、大宴会場、ホテル、公衆浴場などを配するというものだった。

特に中央の大劇場は、「菊座」という名称で鉄筋コンクリート造り4階建て、1850席の歌舞伎劇場となる予定だった。

新宿コマ劇場の白黒写真
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なぜ歌舞伎町という名になったのか

なお、従来の地名「角筈一丁目」では語呂も悪く、新興文化地域の町名にも相応しくないと鈴木は考え、昭和21(1946)年の秋ごろに石川課長にも話をしたところ、センターに歌舞伎劇場を建設することが目的なのだから、「歌舞伎町」が良いのではないかといわれた。

語呂もよし、他に類似の町名があるか調べた結果、それもなかったため、昭和23(1948)年4月1日から新宿区歌舞伎町となった。

こうして復興計画は、進出企業も決定し、建設できうる体制が整った。しかし預金封鎖、財産税の関係で、建築着手に多少の時を要した間に、大建築の禁止令が出て、ついに関係者はここから退陣を余儀なくされたという。

ところで、第2次世界大戦前の新宿に歌舞伎劇場があったことをご存じだろうか。昭和4(1929)年9月に開館した「新歌舞伎座」である。

新宿駅東口の現・大塚家具ショールームになっている場所である。松竹が山の手随一の大劇場を建設し、吉右衛門、三津五郎、仁左衛門、蓑助などの豪華メンバーで華々しく幕を開けたが、どうも新宿の土地柄には歌舞伎が合わないと見切りをつけたようだ。

IDC OTSUKA 新宿ショールーム
IDC OTSUKA 新宿ショールーム(写真=Tokumeigakarinoaoshima/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons