☆大川橋蔵☆(生立ち・・・映画界へ入るまで) ❶ 1)~16)このページはlivedoorブログに載せています。(livedoorブログの方の画像は、サムネイルで拡大出来るものになっていますし、色分けもなされていて見やすくなっています。)万一の事を思い、少しずつこちらのブログにも残しておこうと思います。 ▲続き17)から29)完までは☆大川橋蔵☆(生立ち・・・映画界へ入るまで)❷に掲載しています。 ☆大川橋蔵☆(生立ち・・・映画界へ入るまで)❷ 17)~29)完 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ◆1)はじめるにあたって 青空に輝くように、橋蔵さんが微笑めば、やさしいそよかぜが私たちにうれしい便りを聞かせてくれます。 東映時代劇スター大川橋蔵さんを歌舞伎時代、また映画作品を映画館で見ていた人達は当時の人気度をご存知のことと思います。そして、映画時代は知らないが、テレビで放送していた「銭形平次」は見ていたので知っている、また名前だけは知っていると、年代によってさまざまでしょう。 歌舞伎界の女形として将来を期待されていたとき、映画会社の目にとまり映画界からの引抜があり苦渋のすえ、失敗しても歌舞伎界へは戻らないと決心をして映画界へ。 デビュー作品「笛吹若武者」から一躍スター街道に、三作目からは「若さま侍」というシリーズ物をやることになりました。大衆娯楽時代劇を楽しませてくれました。 舞踊と歌舞伎で鍛え上げてきた所作の美しさ、足腰の強さの立回りが出来る橋蔵さんを越えられる人は出て来ないでしょう。 このように、デビューから時代劇のトップスターの座に居続け、テレビ界ても「銭形平次」で18年間という金字塔を打ち立てました。「銭形平次」が始まると同時に、撮影を取りながら、役者として「大川橋蔵特別公演」の舞台を「歌舞伎座」「明治座」「新歌舞伎座」で毎年3公演をやってきました。 舞台では必ず歌舞伎での演目の舞踊を観せ、舞踊家としても素晴らしい方でした。 「銭形平次」最終回でのご挨拶が本当に最後になってしまいました。大川橋蔵さんご自身もこれからがまた新しいものへの挑戦を考えていた時だと思います。 時代劇黄金時代の映画には夢がありました。洗練された男優、女優、彼らたちの魅力を存分に見せてくれた監督、脚本家をはじめ映画に携わるスタッフの心意気が作品から感じられました。現在の時代劇には、夢もなく、演じる人達の所作がなっていない、悲しいものです。 家族揃っての娯楽といえば映画だった時代と共に育ってきた私だからかもしれません。 私が橋蔵さんを知ったのは、小学生になったばかりの頃、まだ異性に対して憧れを持つということがどういうものかわからない時期に、スクリーンいっぱいに映しだされた東映スター大川橋蔵さんに釘付けになったのです。 容姿美しく、声音もよく、立姿がよく、立回りが綺麗ななかにキリッとみせる見得のきりかたが素敵なのですから、魅かれないはずかありません。 田舎暮らしの私でしたから、それからは書店で平凡、明星、近代映画、映画ファンと雑誌を立ち読みしていましたが、我慢できず後援会に入りました。 よーし、東京の学校に行ったら橋蔵さまの近くに行けるかも、と当時テレビ放送の水曜日8時からの「銭形平次」の橋蔵さまを見ながら受験勉強していました。さあ、後援会に入っていましたが、出来ることなら近くで・・と、歌舞伎座裏にあった東京の後援会事務所を訪ね、お話から手伝ってほしいとの言葉をいただきすぐにOKしました。 後援会のイベント手伝い、劇場での大川橋蔵特別公演の手伝いと、時間が許す限りは参加させていただきました。 後援会の集いの時などは、特に始まる前の打合せで長く橋蔵さまにお会いできるので最高でした。 本当に楽しい日々でした。 橋蔵さまがお亡くなりになって、34年経ちましたが、 橋蔵さま一途に年を重ねております。 当時の雑誌には、大川橋蔵さんを取材した記事が毎月のように掲載されていました。作品に関して、プライベートに関してと。そこにご本人、関係者がが書かれていたことを、古くなったページから取り出し、私が感じたことを交えて大川橋蔵さんを追っていきたいと思います。また、手元に残っている後援会誌から、抜粋してお話をできたらと思っています。 大川橋蔵さんという俳優を、いや役者を若い人にも知っていただければいいな。橋蔵さんの作品を見てほしいな、こんな素敵な時代劇を演じる人は、現在いやこれからも出て来ないと思っています。現在見ても古臭くない、夢のある大衆娯楽時代劇を見てほしい・・・と思います。 ゆっくりと書いていきます・・どうぞよろしくお願いいたします。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ ◆2)三味の音と川風と 先日ご挨拶もすみましたので、本日からぼちぼち書いてゆくことにいたします。 先ずは、大川橋蔵さんが、歌舞伎界に入ったきっかけから、映画界へ行く決心をした懐かしの日々を、橋蔵さん自身が語っている言葉と共に振り返りながら進めて行こうと思います。 1929年(昭和4年)4月9日 東京の柳橋で目鼻立ちの良い男の子が産声をあげました。母笠原たかさんは堅気ですが柳橋の花柳界の中で育った人で、父は田中進さんで人形町でガラス問屋を営んでいました。 兄が一人、橋蔵さんが次男で、妹が二人の四人兄妹です。橋蔵さんは生まれてすぐに、母方の祖母のところに養子にいきました。祖母笠原よねさんは、若い頃柳橋の名妓で、老いて後もその気性、物腰はイキでしゃっきりとしていました。その祖母が橋蔵さんを溺愛し、橋蔵さんも祖母を絶対的に愛していたのです。祖母の連れ合いが小野六三郎、芸名が市川瀧之丞という、歌舞伎役者で、その小野の姓を継いで橋蔵さん小野富成となりました。 橋蔵さんは、朝に夕に稽古三味線の音を聞き、 祖父に連れられよく歌舞伎座の楽屋へ遊びに行っているうち、いつの間にか芝居の身振りや踊りの真似を始めるようになっていました。 「富成ちゃんは、本当にお上手ね。大きくなったら何になるの?」目を細めて聞く祖母に、「僕ね、大きくなったら、踊りのお師匠さんになるの・・」「そうなの、じゃあ、うんと勉強しなくてはダメね」 「うん、ぼーやは勉強して、立派なお師匠さんななるよ」甘い言葉のやりとりは、二人にとっては真剣なものだったのです。 小さい時の橋蔵さんはどんな子だったのでしょう。 次男坊特有のやんちゃ坊主で、兄がいじめられてくると、竹竿を振り廻して敵を討ってくると、そのため自動車も通らなくなるというような、非常にきかん坊だったようです。また、いったん泣くと、一時間ぐらい泣き止まないということで、近所隣から、富成ではなく、泣成ちゃんとあだ名をもらっていたようです。 ♠大川橋蔵さんが綴った思い出より♠ いい意味にも悪い意味にも、私の「おばあちゃん子」らしきは、未だに抜けきれないようです。私は生まれると直ぐに母方の祖母の養子として育てられたのですが、お母さんというよりやはりおばあちゃんという感じでした。その祖母が一も二もなく溺れきったのは私への愛情だったのです。 「ぼーや、三千世界で一番好きな人、だーれ?」 「おばーちゃん」 「そのおばあちゃんが、目の中へ入れても、食べてしまっても、まだ足りないくらい可愛いのだーれ>」 「ぼーや」 他人が聞いたら阿保みたいな祖母と私のこのやりとりは、四つ五つの頃から、小学校三年生頃まで繰り替えされました。それほど祖母は私に甘く、私は甘ったれだったのです。そんなところに、私の性格的な線の細さが根ざしたのかもしれません。 もの心ついてからは、他に父や母がいることは早くから知っていました。たびたび行き来はしていましたが、両親や兄妹たちと暮らせたらと思ったことは、一度もありません。 祖母の愛情が絶対的だった証拠です。 祖父も大変可愛がってくれました。祖母とは違い、遠くから目を細めて眺めているというふうでした。 昼間見た紙芝居のストーリーを毎晩寝床で祖父に話してやるのです。たどたどしい私の話しぶりを、「なかなか話の筋道がとおっている」と、誰かれに自慢していたようです。 紙芝居といえば、こんな思い出があります。 五つのとき、みかんと飴を両手に持って帰る途中自転車にぶつけれれて、眉のところからドクドク血が流れ、ワアワア泣きながら病院へ運び込まれ、五針縫って家へ帰れたのですが、「可哀想に、だからいいおべべ着せてあげようね」と祖母が仕立て下ろしのセルに着せ替えようとして、はじめて小さな両手にしっかり握られているみかんと飴に気がついたそうです。 その時の傷痕は、今もかすかに残っていて、ときどき私に幼い頃を懐かしく思い出させるのです。 祖父は歌舞伎役者だったので、五つ六つの頃から、よく連れられ歌舞伎座の楽屋へ遊びに行き、舞台もかかさず見ていましたが、そうするうち芝居の身振りや踊りの真似ごとを始めるようになり、それが時にはき大人たちをびっくりさせるほどだったとか。 この子はゆくゆく舞台に立たすといいだろうと言ってくれる人もあったり、祖父母も次第にその気になったようです。 (私なりにのニュアンスと要約しているところもありますことご承知くだそい) ********************* ************************** ******** ◆3)市川男女丸襲名・・・初舞台 (キャメラマンぶりはいかがですか、どんな写真が撮れるかな・・1957年の橋蔵さん) 目鼻立ちがくっきりととのい、「この子は美しくそだちますよ」と、母親を喜ばせた橋蔵さん。祖父の市川瀧之丞さんは身内の中から自分の意志を継ぐべき人間を探し求めていたので、あどけない孫に未来の全てを託そうと決心をし、養子に迎えられた橋蔵さん。江戸情緒ある墨田川のほとりで、名妓の出である祖母が子守唄代わりに聞かせた小唄、長唄、三味の音で、幼い耳を通して芸への夢を抱いていくようになった橋蔵さん。歌舞伎座の楽屋に出入りいていて、芝居の身振り手振りの真似をするようになって褒められ、橋蔵さんは、「大きくなったら何になるの」と聞かれると、祖父に「僕ね、おじいちゃん見たいにお芝居をするの。えらい踊りのお師匠さんにもなるの。おじいちゃんよりも、もっともっと、偉い役者になるんだよ」と言って喜ばせました。」 祖母との甘い言葉のやり取りで育ってきた橋蔵さんでしたが、祖父の市川瀧之丞は、橋蔵さんを歌舞伎役者にしようという気持ちが強くなってきたようです。そのため五歳頃から、藤間勘十郎について踊りを習っていました。橋蔵さんは、踊りも最初はいやで仕方がなかったようですが、稽古をしているうちに好きになったということです。 祖父の師匠の六代目市川門之助が市川男女蔵のお父さんだったので、そのような縁故で、橋蔵さんは、三代目市川男女蔵(後に三代目市川左団次襲名)のもとへ弟子入りして、市川男女丸(いちかわおめまる)という名前をもらい、初舞台を踏むことになりました。 遊び盛りの年齢にも関わらず、橋蔵さんは毎日のように師匠の家に通いました。芝居のある時は、祖父の膝に抱かれて飽きることもなく舞台に見いっていました。 「お前さん、いい跡取りを持ったねえ」男女蔵さんは、橋蔵さんの頭をなでながら、瀧之丞に言ったということです。 いよいよ初舞台・・・初舞台は1935年(昭和10年)11月歌舞伎座に於いて 「どんどろ」のおつる 尾上多賀之丞と、 「お夏狂乱」の里の子 六代目(尾上菊五郎)と 「どんどろ」の舞台は、哀愁と品の良いおつるで評判をとり、六代目菊五郎の目にさえとまったのです。 (「どんどろ」のおつる) (「お夏狂乱」の里の子) そして、橋蔵の舞踊の才のなみなみならぬことを知った男女蔵は、稽古の方針をガラリと変えて、舞踊一本やりで通すことにしました。 (私なりのニュアンスで雑誌、後援会誌等からのものを参照し私なりの解釈で書いております。敬称略させていただいておりますのでご了承ください) ************************************************************* ◆4)いつの間にか、芸の芽をふくらませ アイスクリームはいかが?甘くておいしいですよ。 あなたには特別に・・ 橋蔵さんは1935年(昭和10年)11月に初舞台を踏み、続いて翌年1月歌舞伎座での「伽羅先代萩」で六代目の政岡、足利鶴千代の男女丸で初日をむかえました。 周囲の人が気を揉むほどには怖気もせず堂々と勤めあげたのでした。 それから、子役としてほとんど毎月といっていいぐらい舞台にでることになりました。 「男女丸、一生懸命お稽古をするんだよ」六代目にこう言われると子供心にも「よし、やるぞっ」という気力が湧いて来たと言います。 「男女丸は大物になるぞ、六代目があんなに力を入れているのだから」こう言った噂をよそに、橋蔵さんの稽古ぶりは一段と激しいものになっていました。 「先代萩」の鶴千代、「寺子屋」の小太郎、「め組の喧嘩」の又八と、重い役ばかりをつとめていましたから、「子供心に、何かそういう芸能界というのに入って将来はその世界で立っていくのではないかと、自分自身に言い聞かせていたようでした」と橋蔵さんは振り返って言っています。 「先代萩」鶴千代 六代目と(1936年1月於歌舞伎座) 「大和橋」舞子 義父瀧之丞と(1936年1月於歌舞伎座) 小さい頃からチャンバラごっこが大好きだった橋蔵さん、楽屋で舞台に使う小道具の刀で他の子たちと切りあって遊んでいました。そんなところがあった橋蔵さんですが、六代目の前に出ると、よほど怖かったと見えて、借りて来た猫のようにおとなしかったといいます。 「あの子は行儀がいい、性質も素直だし、踊りの筋もいい」六代目はそういって橋蔵さんをかわいがったようです。 家にいるよりは楽屋で過ごす生活が始まってから一年目に、日本橋の千代田小学校に入学しましたが、舞台や稽古事が忙しく学校のほうは休みがちでした。 橋蔵さん自身こんなことを言っています。「小学校時代の小野富成君は、頭を使う算術や理科はどうも苦手で、図画や工作は大好きでした」と。 8才の時 京都祇園にて そうそう、橋蔵さんの舞踊の才のなみなみならぬことを知った男女蔵が、稽古の方針をガラリと変えて、舞踊一本やりで・・・と前回話しましたね。 この頃、橋蔵さんは、永代橋の師匠藤間勘十郎に踊りの手ほどきを受けていました。そして何時ごろからかしら藤間宗家の家に居候をして、藤間紫さんと同年の藤間大輔さんと兄妹のように、紫さんを「お姉ちゃん」と呼び、仲良く育っていきました。芸の道はマン・ツー・マンだと言います。橋蔵さんは、宗家の家に何とはなしに居候をしながら、そのあいだに芸の栄養分、大切なところを吸収していったと考えられます。 六代目が見込むには、下地がなければいけない。宗家が稽古をつけてやろう、という気を起こしたのは、その当時、橋蔵さんにそれだけの芸の芽が育っていたことになります。その芽を宗家の許にいて、いつの間にかふくらませていたのです。 第二次世界大戦が勃発し、蔵前の高等科へ在学し、そのあと赤坂の日大三中へ転校で2年に入りましたが、勉強どころではなく、学徒動員で橋蔵さんは学友と沖電気へ職工として行き、旋盤とかネジ切りとかいろんなことを経験しました。 芝居のほうも劇場が閉鎖され、工場や病院の慰問ばかりになっていました。 安芸の宮島へ、歌舞伎の人達と同行 不安でみじめな毎日が続き、甘やかされて育ったひ弱な性格には、雑草のような根強さも頑張りもなく、この時は身にしみるような悲しさを味わったのでした。 そのころは、祖父も祖母もがっくりと年を取り、体力、気力も衰え、ようやく少年期に入ったばかりの橋蔵さんに、頼りかかる気持ちが強くなってきていたのは無理もないことでした。 祖母は橋蔵さんに言いました。「富成、私たちには、もうお前の支えになる力もなく、引っぱって行く力もなくなったようです。どんなことがあっても芝居を捨てずにいれば、相談にのってくださる師匠もいらっしゃるし、教えてくださる先輩もいる。これからは自分で一歩一歩進んでゆくのです。しっかりやっておくれ」 橋蔵さんはじっと聞いていて、涙がこぼれそうになりましたが、泣いてはいけないと自分に言い聞かせました。 「富成はほんとうに可哀想な子だねえ。なまじ愛情に絡んで、こんな年寄の子にしてしまって、ふびんで、ふびんで、ほんとに許しておくれ」 粋でしっかりしていた面影はなくなって、祖母は気が弱くなっていました。 モンペの袖で涙をぬぐっている祖母を見ていて、橋蔵さんは、今まで感じたこともない、強い気持ちが沸き上がってきたのです。そして、橋蔵さん自身がびっくりするような言葉が口から出て来たのでした。 「僕だって、いつまでも子供じゃないんだよ。見ててごらんよ、立派にやってみせるからさ。獅子の子が谷底からよじ登ってくる話があるだろう。僕も獅子の子のように強くなるんだ」 百獣の王の獅子は、生まれたばかりの我が子を、涙をのんで千尋の谷底へ蹴落とし、這い上がってきた強い子だけを育てるのだということを、橋蔵さんは舞踊の「連獅子」について知り、子供心にも勘当していたことがあったのです。 頼もしいことを言ってくれると祖母はまたしても涙をこぼしました。 (私なりのニュアンスで雑誌、後援会誌等からのものを参照し私なりの解釈で書いております。敬称略させていただいておりますのでご了承ください) ++++++++++++++++++ +++++++++ ++++++++++++++ ◆5)六代目から信州への誘い 大好きな野球、ユニホーム姿どうですか(1956年雑誌より) 祖父母の気持ちを理解し、橋蔵さんの心は決まったのです。 「どんなことがあっても、自分の選んだ道を真直ぐに行こう」 翌日から暇さえあれば、口三味線に合わせて踊りの稽古にはげんだのです。 不審な点があれば、どんなに遅くとも師匠のところへ行き、納得がいくまで教えてもらいました。大事に育てられてきた橋蔵さんが、芸道の厳しさというものを自覚したのは、ちょうど戦争がだんだん深刻になって来た頃だと言います。慰問に各地をまわっていた頃です。 1943年(昭和18年)、橋蔵さん14歳の時に、信州の慰問に連れて行かれたあとに、養子の話がでるわけですが、その前に、養子にしたいと思った一つの理由があったと、義母寺島千代さんがお話になっていることがあります。 六代目は、子供たちの教育が好きで、ある時十人近くの子供達を連れて、群馬県の伊香保温泉に出かけた時のことです。勿論、歌舞伎の社会に子役として入っている子役たちばかりで、名門のお子様方も一緒でした。六代目は旅行が好きで、なんだかんだと言っては、各方面に旅行をしていました。夏は釣り、冬は温泉、そして舞台のことを考えていたといいます。 普段は厳格なところを見せない六代目ですが、いざお稽古となると人間が違ったようになったと言います。今さっき笑っていたことが想像もできなくなるというのです。 こういう状態の六代目と何日間も顔を突き合わせて暮らせる子供達は、あまりいなかったようです。四日位までは何とかもちますが、一週間を過ぎる頃になると、子供達は何らかの理由を口実に、親もとに帰って行ったそうです。しかし、橋蔵さんだけは、毎日毎日変わることなく、ある時は六代目のほうがびっくりするぐらいにきちんとしたものでした。 他の子供達が親もとに帰っても、「私は先生のお傍にいます」と、ちょこんと座っていたそうです。 「『あいつは見込みのある奴だ。将来は大物になるぞ』と、六代目は富成の陰でそう呟いていたものでした」と寺島千代さんが言っていました。 橋蔵さんは、六代目という人が、舞台に一緒に出ていても、子供心に、非常に偉い人ですし、こわいと思っていました。 「非常に可愛がってくれていたのは事実ですし、幕間に、飴を買ってくれたり、からかわれたりしていたのですが、やっぱり何かこわかったんです」こんな風に言っていました。 その六代目から、三反田という所で信州での興行が終わる前日の事でした。あくる日から六代目は中込という所の宿で夏を過ごすことになっていました。 「信州に残って、釣りをして遊んで゜夏を過ごすから、お前も遊びに来い」と、橋蔵さんは六代目から幕間に誘いを受けたのです。 その頃の橋蔵さんぐらいの年の子役の人は、みんなよく遊びに行っていたのですが、 橋蔵さんは遊びに行ったことがなかったのです。それが、誘いを受けたとたん、どういうはずみか、無性に行きたくなったといいます。 やはり、六代目には厳しくてこわいと思う反面、なにか、ひっぱりつける暖かさがあったからなのでしょうか。 ところが、祖父母も母も橋蔵さんを一人で表へ出すことなどなかったので、その時信州の慰問に一緒に行っていた祖父瀧之丞も、橋蔵さんは身体が弱かったので、一人で行くことをすごく心配して反対されたのですが、橋蔵さんは、どうしても行きたくて、無理に承諾させ、六代目のいる中込へ一人で行くことになりました。 そして、約2ヶ月間の夏、信州で六代目の傍での生活が始まります。 * * * * * 画像は橋蔵さん8才の時ですが、可愛いというか、男の子でも綺麗というか、将来に希望が持てる子役でしたね。その持って生まれた容姿をより美しく磨き上げ、幼い時から芸に生きるという覚悟・・・のちに映画界にいっても、歌舞伎を忘れなでやり通した俳優人生・・愛しくなってしまいます。 「魚屋宗五郎」酒屋の小僧 (1937年(昭和12年)3月 於:歌舞伎座) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ◆6)信州での思い出の夏 リズムもかるく、ようこそ 朝の一番列車に乗って、橋蔵さん(男女丸)は自分が泊まっていたところから二つ先、中込の六代目が止まっている料理旅館に一人で行くのです。 中込についたのは明け方の四時ぐらいだったといいます。 「まだ薄暗く誰も乗り降りしなくて、たった一人ポツンと降りましてね、小さなカバン一つ持って旅館まで。これが二町半、三町ぐらいありましたか、一本道をテクテクテクテクと、教わった道を歩いて行ったわけです」 橋蔵さんはその頃、見知らぬ土地を一人歩きしたこともないし、家でも大事にされ可愛がられていたので、とても心細かったらしいです。 「でも、心細いんだけれど、非常に行きたいという気持ちにひかれて、田舎道を一人宿まで行ったのです」 夏だったので陽気がよくて良かったのですが、すれ違うのは野良へ行くお百姓さんがちらほら・・・すると、太陽がグーッと上がってきた・・その時「世の中が始まったような清々しい気分というか、十四、五才で、何か希望に満ちてね。初めての体験ですから、これから世の中に出て、一人で行動するんだという気持ちもあって、ワクワクしたという記憶が今もすごく残っています」と後日橋蔵さんは言っています。 宿についたけれど、朝早いからもちろん六代目は起きていません。 宿の廊下でポツンと椅子に座っていました。六代目は起きてきて、まさか橋蔵さんがこんなに早く来るとは思ってもいなかったらしくてびっくりしました。 子供が田舎道を朝早く、一人でよく来たというわけで、ご飯でも一緒に食べようということになり、なんだかんだと、とても大事にされたそうです。 そういうことから、六代目と何か気が打ち解けて来たようになったといいます。 「怖かったという一つのもの」が、橋蔵さんの中で吹っ切れたのです。 六代目と過ごす夏が始まりました。 六代目は毎日鮎釣りに行きますので、橋蔵さんは籠を背負い、お弁当を持ってお供をしていくのです。この鮎釣りは友釣りなので、岩が多く糸が引っかかると、六代目が口笛をピーッと吹く、そうすると橋蔵さんは、どこで泳いでいてもすぐに駆けつけるのです。糸を切るとおとりの鮎が無駄になってしまうので、糸を切らないで引っかかっているのを潜ってはずしてくるのです。 川は渓流で、もの凄く流れが早いのですが、橋蔵さんは泳ぎが好きだったので、川上の方から飛び込んで、流されながら引っかかっているところまで行って潜るのです。一回や二回では簡単に取れないので何回も繰り返すのです。流れが早いので、岩にぶつかったりこすられて擦り傷ができたリ、傷だらけになるのですが、何とかして取ろうと、子供心に必死になったといいます。 六代目が「もういいよ、切ろう」と言っても、橋蔵さんは「いや、僕は取ります」 上手く取ると六代目が大変喜んでくれる。その喜ぶ顔をみて、橋蔵さんは非常に嬉しく、少々の怪我なんぞビクともせずにやったのです。 そのようなことから、非常に気に入られて、「ずっといろ」ということで、結局信州には二ヵ月程いるようになったのです。 信州中込で、中央に六代目、橋蔵さん後方左から2人目 その間に、東京から先輩や若手の方が舞台の稽古に見えたそうです。 その稽古風景を見ていた橋蔵さんに・・・この時、人生の転機の前兆があったようです。 ****** ****** ****** ****** ****** ◆7)初めて稽古をつけてもらった「草摺引」 1956年雑誌より 信州には二ヵ月程いましたので、ある日若手の俳優の方が、東京から舞台の稽古にみえました。今度「草摺引(くさずりびき)の五郎をやるということで、二日稽古をしていったのです。 橋蔵さんは、稽古中傍で座って一生懸命見ていて、その踊りを覚えたのでした。 六代目は、橋蔵さんが踊りを覚えたのを察知したのか、ある時突然、「お前、ちょっと踊ってごらん」と言われたそうです。 橋蔵さんはその時の事をこう言っています。「覚えていたから良かったものの、覚えてなかったら大変だったのでしょうが、とにかく、一応踊ったんです」 すると、急に「稽古してやろう」と言って、稽古が始まりました。 「草摺引」の五郎という役は鎧を持ってやる芝居なので、小さいボストンバッグを鎧に仕立て、刀のかわりにつなぎ竿を差して、稽古をしてくれたそうです。 パンツ一枚で、鎧に仕立てたボストンバッグを、セリフを言いながら、手をまっすぐに伸ばして持ってやるのです・・・手が疲れてきても、絶対に下に降ろさせてくれません。 その当時、橋蔵さんは声変わりの頃、声が出なくセリフも調子が出ないところを、無理に声を出してやったのです。そのうち手がしびれてきて感じがなくなり顔が真っ蒼になってきてもやらせられる。ちょっとでも間違うと、細い釣竿の先を持ってピシピシと足とか手をたたかれ、何度も何度もやらされたそうです。 終わるとレモンをかじらされ、「甘いか?すっぱいか?」と言うのです。橋蔵さんが「すっぱい」と言いますと、「じゃ、もっとやろう」と。どうして?・・その時はその意味が分からなかったのですが、何度もやってからだが疲れてきてレモンを噛むと甘く感じたそうです。それで、また聞かれるので「甘い」と言うと「よし」という訳で・・・「レモンが甘く感じるほど稽古しないといかんという事なんでしょう」。こうして六代目から初めて「草摺引」の五郎を稽古をしていただいたのです。 六代目は、稽古の時になると、ものすごかった。そういった厳しさが音羽屋の特徴だったので、とても勉強になったということです。 橋蔵さんが六代目の目にとまった理由はどこにあったのか。性格がいいというのは、前回までに書きましたね。ここで子役時代のことにまた少し触れます。 橋蔵さんは、子役の主だった役を経験していく中で、その愛くるしさが一役ごとに六代目菊五郎の目にとまり、厳しい躾の中で、からだに刻み込まれていったのでしょう。だからといって、橋蔵さんは、決して目立った存在ではなかったと言われています。映画界でもライバルであった中村錦之助さんは、この頃子役で頭角を現し、叔父吉右衛門や六代目菊五郎の舞台で華々しくもてはやされていたのに比べると、菊五郎一座の中でただの子役の男女丸(橋蔵さん)でしかなかったのです。 ご存知のように歌舞伎界は家柄とか名門の御曹司であることが大きくものをいいます。錦之助さんと橋蔵さんの場合にもあてはまりました。 錦之助さんの方が、チャンスをものにしていく先天的な役者のカンにおいては、当時遥かに勝っていたといいます。橋蔵さんは六代目が目をかけてくれるにかかわらず、舞台は平凡そのものでありました。 「春日龍神」めだか (1937年(S12年)1月於:歌舞伎座) 右から坂東光伸(坂東蓑助)・市川たか志(市川門之助)・ 中村錦之助・市川男女丸(大川橋蔵) それでは、人一倍優れた芸を誇示した六代目が、橋蔵さんになぜ目をつけたのでしょう。それは、素直な性格と踊りの素質を見てとったからのようです。 その橋蔵さんの踊りについて、こんな話がありました。橋蔵さん10歳の頃です。 西川鯉三郎、尾上菊之丞という踊りの名手たちでの”菊寿会”で「山姥」を上演した時、橋蔵さんは金太郎に起用されました。 六代目が目をかけているとはいえ、たかが男女蔵の弟子にどれほどのことがと思われていたところ、橋蔵さんは、周りの危惧をよそに見事に踊ってみせたのです。 やわらかいこなし、筋目のいい振りは、鯉三郎や菊之丞を意外にも「麒麟児」と感嘆させました。 「山姥」怪童丸=金太郎 (1939年(S14年)5月) それは、橋蔵さんが、舞踊界の第一人者藤間勘十郎のもと、懇切な手ほどきを受けるとともに、六代目の荒稽古をそばで見て、からだに叩きこんできたからです。 六代目菊五郎自身も厳しく芸を仕込まれてきた人でしたから、荒稽古には定評がありました。 六代目歌右衛門が「道成寺」の稽古をつけてもらいに訪れた時、六代目菊五郎はいきなり裸になり、歌右衛門も裸にさせて夜を徹して踊らせたといいます。 踊りの性根をたたきこむためでした。 先代歌右衛門の嗣子に対してまでも厳しかったのですから、橋蔵さんの「草摺引」の稽古も言うまでもないことでしょう。 「麒麟児」男女丸(橋蔵さん)は、偶然に生まれたのではなく、こうした荒波にもまれたあげく、いよいよ片鱗を覗かせて来たのです。 橋蔵さんの生立ちには、いろいろ風説がありますが、実父はガラス屋を手広く営んでいて、柳橋の芸妓とねんごろになり生まれた脇腹の子です。その頃、母親のたかさんは芸者屋の養女になっていて、この芸者屋によく遊びに来ていた役者が瀧之丞さんでした。目鼻立ちが整い、きりりとした子を見て、「ぜひ将来は役者にさせるとよい」と、幼少の頃から踊りなどを習わせ、知り合いだった歌舞伎役者の男女蔵さん(三代目市川左団次)に預けました。 そして歌舞伎座に出入りしていて、稽古でも他の子たちが音を上げてしまう中、一人じっと耐え六代目のいう事にしたがっていた橋蔵さん。その様子を見ていて「男女丸は、きっと将来は大物になるよ」とつねづね言って目をかけていた六代目があることを決断し、橋蔵さんにも大きな人生の転機が訪れるのです。 +++++++++++++++ +++++++++++++++++ +++++++ ◆8)丹羽家への養子、幸運に飛びつきたいという気持ちと祖父母への念い 橋蔵さんは、歌舞伎の役者でしたけれど、洋服の一点ばりでした。 オープンシャツ姿も、おしゃれです。(1957年雑誌より) 信州から東京に帰った後も、今度は沼津へひと月避暑に行き、釣りの好きな六代目でしたから、今度はカツオ釣りで過ごしました。こうして、どこへ行くにも、橋蔵さんをお伴にするようになりました。 戦時中は、六代目の身近な弟子達は皆兵隊に行って、家庭は奥様の他手はなく、奥様も身体が悪く六代目の身のまわりをお世話する人がありませんでした。 天下の名優も戦時中の苦労は人一倍されましたことが分かります。そこへ、六代目の希望で身近に使えお世話をすることになったのが橋蔵さんです。 六代目がご自身で朝五時頃起きて台所で食事の支度をするのを毎日手伝いました。 立派な役者になろうとする人間は、人の心を読み取るぐらい感が働かなくてはならない主義の六代目に仕えて、橋蔵さんは一日中、細かに神経を働かせ、あらゆるものを吸収しようとつとめました。 そして、橋蔵さんが十六歳の時。六代目の養子にという話が持ち上がりました。 ここで・・六代目の養子と言っても、戸籍上は六代目夫人千代さんの実家丹羽家を継ぐのです。安寿子夫人に先立たれ男やもめだった六代目菊五郎が、永年の愛人だった丹羽千代さんを後妻として正式にむかえました。六代目には二人の息子と二人の娘がありました。 長男は養子の尾上梅幸、千代さんとの間に生まれた次男尾上九朗右衛門、と十七代目中村勘三郎と清元延寿太夫に嫁いだ二人の娘です。もし千代さんに万一のことがあれば、丹羽家は跡が途絶えてしまうことになるので、六代目は前々からそのことを心配していたといいます。丹羽家には千代さんの母親がいるだけでしたから、橋蔵さんは実際には寺島家へ引き取られるわけです。以前から、六代目の使い走りなどをしてくれたりしていて、千代さんも千代さんの母親も橋蔵さんの気心を知ってはいました。 それは、城山町に住んでいた時のことでした。長女の久枝さんが勘三郎さんのもとに嫁いだので、家の二階の一間が空いたときに、六代目は「どうだろうかね、お千代。男女丸をここへ連れて来ようと思うんだが」と、千代さんに問いかけるまでもなく、六代目の心の中は、すでに橋蔵さんを丹羽家の養子にすることに決めていたようでした。 この時期のことを橋蔵さんはこう言っていました。 「六代目菊五郎といえば、『踊りの神様』と謳われるほどの名優で、尾上家は歌舞伎の名門中の名門です。私としては、この幸運に飛びつきたい気持ちも確かにありましたが、その一面、老いた祖父母を残して、他家の養子になるにしのびない念(おも)いのほうがずっと強かったのです。随分悩みました」 しかし、祖父にこんこんと諭されます・・・目の前の情愛にひかれて一生を埋もらすより、自分の道を切り拓くことこそ孝行というものじゃないか。迷うことはない、心を決めなさい。こんなにめでたいことはないじゃないか。そこに「私達はお前の出世を楽しみに生きている。生きているうちに、お前の将来の見通しがつけば、こんなに嬉しいことはない」と涙を見せずに言う祖母の言葉に、橋蔵さんは決心しました。 「自分の将来を思えばこそ、強気なことを言う祖父母の心中を察して、私は、寝床の中で声をころして泣いたことも一度や二度ではありませんでした」 祖父母の懐から飛び立ち橋蔵さんが、城山町の家に行ったのは、夏でした。その時の様子を千代さんはこう話していました。 「夏に入っているというのに、喉を痛めてはいけないと、首にぐるぐると包帯を巻き、小さな風呂敷包みを大切そうに抱えていたものです。わずか十五歳の少年は、ひょろひょろに痩せ、まるで病人のような青白い顔をしていました」 そして、1944年(昭和19年)10月、丹羽家の養子になり、大川橋蔵を襲名することになるのです。 「汐汲」海女 1942年(昭和17年) 「一本刀土俵入り」子守 1943年(昭和18年7月 於:歌舞伎座) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ◆9)二世大川橋蔵 襲名 (1956年雑誌より) 戦争、大劇場の閉鎖、劇団の慰問巡業は、成長期にあった男女丸(橋蔵さん)の身の上にも容赦なくふりかかってきましたが、鍛えれば鍛えるだけ反応を見せてくる橋蔵さんに対して、六代目の愛情は加わっていったのでしょう。 「実子の九朗右衛門はいるし、養子である梅幸も健在なのに、何も今さら」と陰口をされながらも、あえて橋蔵さんを養子にむかえたのは、丹羽千代さんを入籍する代わりに跡取りのない丹羽家の養子にということでしたが、その裏には、家柄のものをいうこの社会に、芸熱心の橋蔵さんをこのままで突放しては、折角たたきこんでやった芸も、家柄ゆえに埋もれてしまう懸念があったようです。 六代目の暖かい愛情に包まれ、戦争も押しつまった1944年(昭和19年)10月、橋蔵さん16歳の時、千代夫人の実家丹羽家の養子として、尾上家には非常にめずらしい姓の違う名前の二世大川橋蔵をもらうのです。 ただし舞台での襲名披露は戦争のため後日になります。 ただ、橋蔵さんは、六代目の家には養子に行く前からずっと寝泊まりをしていたようです。 橋蔵さんはその時の事をこう話していました。 「うちに帰さないんですね、私を。新橋演舞場で芝居をしておりまして、私も出ていたんですが、劇場へ入るとパッと人が変わって、厳しくて私には全然口をきかなくなる。それで、芝居が終わりますと、私が柳橋の家に着くか着かないうちに、電話がかかってきて『すぐ来い』というんです」 そのため、当時、丹羽家は芝の城山町にあり、そこに六代目もいたので橋蔵さんは柳橋からすぐに出かけて、一緒に食事をして、結局城山町に泊まることになり、あくる日は六代目と一緒に楽屋入りという日常だったようです。 養子となる事が決まり、《大川橋蔵》の名を許された時、六代目は応接間に橋蔵さんを呼んで、二人きりで『いいか』と橋蔵さんに話したことがありました。 「それは十ヵ条あるんですけれども、 お前を養子にもらったのは、丹羽家を立派に栄えるように盛り立てて行くこと。 《大川橋蔵》という名前については書物がうちにあるからそれをよく読んでみなさい、《大川橋蔵》という名前は尾上家にとって非常に大事な名前であり、汚さないように努めてほしい。 今日から自分を父と呼べ。 あと何ヵ条かいろんなことがありますが、それで『今日から本当の修業として考えなさい』ということから始まって、あくる日から、手の裏返したように厳しくなっちゃったわけです」 ※ ここで、橋蔵さんが初代大川橋蔵についての書物を読んで、簡単に説明している面白いエピソードがありますので要約し掲載しておきます。 初代大川橋蔵が三代目尾上菊五郎の隠居名前です。この人は「梅寿」という別名があるように、非常に器用な人で、女形、立役、お婆さん、お爺さんといろんなものこなした大変な名優で、「四谷怪談」のお岩を一番最初にやってお化けの元祖といわれた人です。非常に風流な方でもありました。一度隠居したのですが、このまま舞台に出ないのは惜しいといわれ、再度立つことになったのですが、引退した後なので、名前を変えて嘉永元年に上方に巡業に出た時、そこで以前弟子で器用だが師匠三代目菊五郎の真似ばかりしていて、上手いとか、良いとか、おだて上げられ、放漫になって破門になった尾上多見蔵が大山八蔵と名乗って中座で芝居をしているのに出会ったのです。 そこで、三代目は角座の芝居に出るについて「大川橋蔵」と名乗り、尾上一門を全部大川にちなんだ大川土左衛門とか、大川棒杭とか名前を変えて芝居を打ちました。大山八蔵と全く一緒の出し物をだしました。すると、一方は自分のあみだした芸であり、一方は真似てやっているということで、自然と中座の客が角座に移ってしまったのです。 それで初めて、多見蔵は自分の芸は本物でなかったことが分かり、改心して三代目に詫びを入れ破門が許されたしいう逸話があるのです。 それから、二、三年上方にいて、七代目団十郎と二人で「阿国御前」とか「天竺徳兵衛」などをやっています。それから病気になり、嘉永四年四月二十八日江戸へ帰る途中の掛川でなくなりました。 橋蔵さんが、大川橋蔵を継いだのが、初代が亡くなってちょうど九十九年目に当たったのです。 三代目菊五郎(初代大川橋蔵)は、若い時「どうして俺はこんなにいい男なんだろう」と、楽屋で自身の顔を鏡で映しながら呟いたほどの美貌で知られていた。
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