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パワースポット@神の島「Okinawa」

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2022.10.11
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カテゴリ:西原町

(ニフェーマーチューの拝所)

沖縄本島の中部にある西原町に琉球大学千原キャンパスがあります。この広大な敷地一帯はかつて琉球王国が管理して王府の御用木を生産していた「杣山/ソマヤマ」と呼ばれる山林(官有林)が広がっていました。大学の共通教育棟1号館の北東側敷地内に「ニフェーマーチューの拝所」があり、この場所は琉球王国の中城間切時代には「カナイタ山」と言われていました。「ニフェーマーチュー」の「ニフェー」は「感謝」で「マーチュー」は「松の木」の事で、総じて「感謝の松」を意味しています。かつて「ニフェーマーチューの拝所」はコンクリート製の祠が建てられており、祠内部には2体の霊石が祀られていました。しかし台風により祠は崩壊し、現在は「ニフェーマーチュー」と彫られた石碑が新しく建立しています。


(ニフェーマーチューの石碑)

(ニフェーマーチューの拝所)

大学敷地の整地のため拝所は一時期、大学の中城村側東口守衛室の裏側に仮移設されましたが、再び元の拝所の場所と考えられる現在の位置に移されました。その昔、この場所には松の大木があり周辺の住民は「カナイタ山」に入り松の枯葉や薪などを採って生活していました。人々はこの「ニフェーマーチューの拝所」で山の神様に山を利用できる事への感謝と、山の安全への祈りを捧げてから入山したと伝わります。琉球大学千原キャンパスができた後も、この拝所は地域の人々の信仰の場所として拝され続けています。建立されている石碑の裏側には『後世の人々に山御願の歴史が伝承されていくことを切に願い、この地に新たに拝所の石碑を建立した。二〇二一(令和三)年二月吉日 中城村南上原南組有志会』と記されています。


(チャーヤマ/茶山跡地)

(クガニガマ跡)

琉球大学工学部からテニスコート辺りまでが昔から「チャーヤマ/茶山」と呼ばれていた場所で、琉球王国の正史の歴史書である『球陽』には1733年の「尚敬王」の時代に棚原山地に初めて茶園を開いたと記されています。更『球陽』には20,850余歩の面積を開いて茶種や樹木などを植え、和漢の茶葉を製造して王国に供するとの記述があります。「金武御殿」からの分家と伝わる「普天間家一門」の宗家が約250年前に首里から「チャーヤマ」の番人として移り住み「茶山普天間」の名前で知られていました。また「チャーヤマ」周辺は「アカモー」とも呼ばれており、赤土の山に野イチゴやヤマモモが多く自生していました。かつて「チャーヤマ」の北東側には「クガニガマ」と呼ばれる洞窟があり「クガニ」は「黄金」で「ガマ」は「洞窟」を意味します。黄金の光がこの洞窟内で輝いた伝説から「クガニガマ」の名称が付けられたと伝わります。


(石原門中の屋敷跡地)

(石原門中の屋敷/井戸跡)

琉球大学文系講義棟の東側にある小高い森には、かつて「石原門中」が暮らした屋敷と井戸の跡が残されています。「石原門中」は『首里系士族 楊氏 元祖楊太鶴山内親方昌信 名乗頭 昌』で本家は「与世田殿内」大屋は「山野前」となっています。現在、屋敷跡の周辺は石とコンクリートで整備されており、かつての屋敷の面影を残しています。「石原門中」の屋敷で使用されていた井戸はコンクリート製の囲いが施されており、井戸の内部へはパイプで空気孔が設けられています。更に井戸の脇にはベンチも設置されており、大学の学生の憩いの場として利用されています。戦前、この屋敷の周辺には「石原門中」が集中して暮らしており、屋号「石原」が4軒あった他にも、屋号「御殿地石原・内石原小・タードーシ石原・金武田石原小」などの屋敷も点在していました。


(知名門中/大屋知名の屋敷跡地)

(喜屋武門中/大喜屋武小の屋敷跡地)

(サキタリヤマ/サカタリヤマ跡地)

「知名門中」の屋号「大屋知名」の屋敷跡地には現在、琉球大学の共通教育棟3号館が建っています。「知名門中」は『首里系士族 向氏 元祖尚真王三子尚韶威今帰仁王子朝典 名乗頭 朝』で本家は「具志川御殿」です。元祖の「朝典」は第二尚氏の北山監守として「今帰仁グスク」に移り住んだ王族です。この屋敷跡地の南側には「喜屋武門中」の屋号「大喜屋武小」の屋敷跡地で、現在は大学浄水施設の敷地となっています。「喜屋武門中」は『首里系士族 毛氏 元祖毛国鼎中城按司護佐丸盛春 名乗頭 盛』で本家は「豊見城殿内」となっています。元祖の「護佐丸盛春」は「尚巴志王」に仕えた按司として知られています。更に、この屋敷跡地の北側にある大学の「サッカー・ラグビー場」には、かつて「サキタリヤマ/サカタリヤマ」と呼ばれた山があり、密造酒を造っていた事からこの名称が付けられたと言われています。


(ボージウシューヌカー/坊主御主の井戸)

(ボージウシューヌカー/坊主御主の井戸)

(ボージウシュー/坊主御主の屋敷跡地)

琉球大学農学部の建物の北東側に「ボージウシューヌカー/坊主御主の井戸」があります。その昔「チャーヤマ」に隠居した第二尚氏の第17代「尚灝王/しょうこうおう」(在位:1804-1834年)が使用していた井戸だと伝わります。「ボージウシュー/坊主御主」とは「尚灝王」の隠居後の名称で、昔からこの井戸は首里から礼拝者が多数訪れていました。琉球大学が首里から移転する際にこの井戸は取り壊されそうになりましたが、首里のノロ(祝女)達が来て井戸を残すよう言われたそうです。現在、大学北口に向かう道路脇にある井戸はコンクリートの建物で囲まれ、内部には大学移転当時のポンプが現在も残されています。この井戸から東側の北食堂裏の敷地は「尚灝王」が暮らしていた屋敷の跡地となっています。ちなみに「尚灝王」は一妃二夫人八妻を持ち、九男十七女をもうけた琉球国王でした。


(サーターヤー跡)

(ウマウィーグヮー/千原馬場跡)

(果樹園跡)

琉球大学工学部1号館の北側一帯はかつて「サーターヤー」と呼ばれる製糖場がありました。そこから南西側にある農学部沿いの道路はかつて「ウマウィーグヮー」という馬場で、馬の走り方の美しさを競う琉球競馬が行われていました。「チャーヤマンマイー」や「千原馬場」とも呼ばれた道は長さ約108メートル、幅が約9メートルあったと伝わり琉球競馬の他にも子供達の遊び場でもありました。この位置から同じ道を更に南側に進んだ一帯にはかつて「果樹園」がありました。『西原町史』の民族編には、1960年(昭和35)頃に台湾出身の陳という人が千原馬場の南側、現在の農学部南棟側から農場棟辺りの山地で、約2万坪の村有地を借地開墾し果樹園を開いていたと記されています。この果樹園では主に紀州ミカン、ポンカン、バンジロウなどを栽培していましたが、琉球大学の移転に伴い閉鎖され撤去されてしまいました。


(琉球大学)

琉球大学農学部の「農学部フィールド」と呼ばれる一帯には「棚原グスク」を守る支城の役割があった「イシグスク」や「大城門中按司墓」と彫られた石柱が建つ古墓、更に「ヤマバーン/山番」と呼ばれる杣山管理をしていた首里系士族「普天間門中」の墓を含む「五連墓」など、より多くの人々に知られるべき興味深い遺跡文化財が点在しています。残念ながら「農学部フィールド」は琉球大学の研究者以外は立ち入り禁止の区域となっています。琉球大学の広報担当に問い合わせたところ、個人での見学や利用については検討が必要で許可が下りるまで時間がかかるとの回答がありました。更に「農学部フィールド」に関する画像は研究者の知的財産権を損害してしまう場合があるため、SNS等への掲載はお控え下さいとの返答もありました。









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最終更新日  2022.11.05 00:10:34
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