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遊心六中記

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2016.10.01
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カテゴリ:探訪


大念寺から阿為神社を巡り、安威古墳群の西端に向かいます。冒頭の写真は古墳群のある山並みの西方向です。西端の北側は開削されて追手門学院のキャンパスがあります。写真の左端にある高い建物が学校の一部です。

阿為神社の所在する安威3丁目から南方向に町中の道路を通り抜けて行きます。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。


通り沿いの街角で見かけたお地蔵様。

 
屋敷の塀を折り込んだ形で小祠と石燈籠が設けられたりしています。

 
安威2丁目に安威小学校があります。この西側に、「旧跡 安威城跡」の石標と説明板が設置されています。説明板傍の建物に「安威二丁目12」という住所表示板が貼られています。上記の地図で位置関係がおわかり願えるでしょう。
安威城は室町時代の在地領主安威氏の城(居館)があったところです。


この地図は講座資料に引用されていた「安威城跡図」です。
安威城は内郭と外郭の二重構造になっていたそうで、黒い太線が内郭で濠に囲まれていて、外郭は細い線の部分で、土塁で囲まれていたと言います。現在も東北部と南部に土塁の痕跡が残っているそうです。(資料1)

花園山の頂に砦があり、ここの城とが一対のものと考えられているとか。
現在の安威小学校の東側にある南北の道路と村の中央を南北に走る道路の位置がほぼ濠だったところで、その間が内郭に相当するそうです。
また、安威小学校敷地の西側道路と北側道路あたりが、外郭の西側及び北西角側の土塁の位置になるようです。『大阪府全志』によると、東西100間・南北150間の規模の城(居館)とされています。(資料1,説明板)

石標の立つ傍での一例ですが、この細い通路の先にある竹林の先が外郭の土塁(東側)になるあたりだとか。「外郭は、今もその多くが竹林となって旧地形を残しています」(説明板)とあります。

「1586年(天正14年)に安威五左衛門了佐が茨木城の代官になった頃、安威城は廃城になったものと思われます」とのこと。(資料2)

安威1丁目を通過して、追手門学校前を通り過ぎてしばらく道沿いに西方向に進むと、

道路沿いの右手(北側)に「大織冠神社」の石標、石段と石造鳥居が見えます。

石段はちょっと急勾配。石段のほぼ上部から鳥居を見下ろした景色。



  
石段を上がりきった正面に古墳の横穴式石室入口が見えます。
ここが「将軍塚古墳(将軍山1号墳)」です。その傍に、右の写真の石標が立っています。この古墳が藤原鎌足の墓と伝承されているのです。





説明板を読みますと、江戸時代になってこの将軍塚を藤原鎌足の墓にあてるようになったそうです。石室内に祠(ほこら)をつくって神社の形式が整えられたといいます。「毎年10月16日には、京都の九条家から使者が来て、反物二千匹を持参し、お祭りをされていた」とか。
勿論それ以前から、安威の人々はここを阿威山であり藤原鎌足の墓と崇敬し伝承されてきた歴史があるようです。

この古墳を考古学的にみれば、山頂を利用した横穴式石室を主体部とする円墳。「石室は、羨道が玄室の片方によったいわゆる片袖式」で花崗岩が使用されていて、玄室の規模は4.5m×1.7m、高さ2.4m。5枚の天井石がのせられているものだそうです。古墳時代後期、6世紀後半の造営と推定されています。(説明板、資料1)

前回触れていますが、大織冠は鎌足が死の前日に天皇から賜った冠であり、飛鳥時代の冠位では最高位にあたります。それが「藤原鎌足の特称」(『日本語大辞典』講談社)にもなったのです。この神社は阿為神社により祀られているそうです。

『摂津名所図会』には、「大織冠古廟」としてこの絵が掲載されています。(資料3)

この1号墳を左側に回っていくと、

かなり傷み始めていますが「将軍塚古墳」の説明板が立っています。

 
その傍に、石室が見えます。これは1号墳の近くに位置した古墳時代前期造営の大型前方後円墳(2号墳)の竪穴式石室を移築したものなのです。フェンスで囲われていることと、雑草がかなり繁っていて、観察しづらくなっています。
「この付近に産しない結晶片岩を用いて竪穴式石室を造っていた。石室には12枚の天井石がのせられU字型の粘土棺床が造られていた」といいます。「実際の石材を用いて、もとどおり竪穴式石室に造ってあるのでこの構造を知る上に参考になるもの」(説明板)と記されています。
全長6.4m、幅1m、高さ0.8mの石室だそうです。(資料1)

2号墳が実際にあった場所を下りましたが、そこはすべて造成された住宅地に変貌しています。住宅地内の通路の位置とカーブから、説明を聞くと後円部の縁の状況がなんとなく理解できるところでした。

2号墳は山丘の頂上を利用した全長およそ107m、後円部径70m、前方部端の幅44mという規模の前方後円墳だったそうです。


講座資料から引用しますと、将軍塚古墳群はこんな位置関係になります。
今では、1号墳の周辺が大織冠神社の境内として保存されるだけとなっています。その北側は開削されて学校のキャンパスとなり、南側は丘の斜面が住宅地となって広がっています。

住宅街の坂道を下り、北中学校の傍まで来ると、
 
かなり大きな池のある「耳原(みのはら)公園」があります。そこで少し休憩です。
「耳原公園は、耳原大池と、その外周部約4万5千平方メートルの敷地に日本庭園をイメージして整備を行いました。」(資料4)とのこと。公園の中央付近には桜や梅が植えられていて、カルガモやコサギなどの野鳥が見られるといいます。


公園の一角に、「糠塚跡」という説明碑があります。
「糠塚」の由来と利用が古記録にあるという説明が記されています。
一つは『摂陽群談』に「耳原村の西にあり。天正年中明智日向守此の地を穿ち糠秣等埋めしめ、軍用とするの古墳たり。是を以て時の人糠塚というの所伝なり。」とあるそうです。もう一つは『大阪府全志』に、「天正1年(1573)8月28日和田伊賀守・茨木佐渡守等は足利義昭の命を奉じて糠塚に陣し、郡山に陣せる信長の武将荒木信濃守村重・池田筑後守輝政と白井河原で闘う。」と記されています。
北中学校の西南の隣接地のここに「糠塚」があったのです。




北中学校の南東方向で、この公園の東側の近くに「鼻摺古墳」と称される方形墳があります。
一辺33m、高さは約5.5m、四方が濠で囲まれていたそうです。濠の幅は南側で12m、北・東・西側は約7m、深さは約1.4mと昭和35年(1960)に実施された発掘調査でわかっています。2回の発掘調査で出土した須恵器から、この方墳の築造年代が6世紀から7世紀初め頃と考えられているそうです。(資料1,説明板)

この方墳からほど近いところに、「耳原古墳」と称される径23mの円墳があるのですが、私有地内にあり傍の道路を通り過ぎるだけになりました。

「安養寺」という浄土宗のお寺の前を通過するときに、門前に立てられている「弥陀名号板碑」の説明を受けました。
 

 
蓮華座の上に南無阿弥陀仏の名号が刻されています。その右側に「逆修善根人数十二人」と記され、また大永5年(1525)の銘も入っています。この板碑の場合には、「逆修」という言葉は「生前に自分の死後の供養をすること」を意味していて、信仰心篤き12人の人々が一緒に供養を行ったというものだそうです。こういう形式のものが残っているのは比較的めずらしいとか。

以前の探訪で墓地の一角に逆修の文字が刻されたものがありました。それは、「年長者が若い死者の供養をする」(『日本語大辞典』講談社)というものでした。

 
この安養寺の前の道路が、西国街道です。

 
西国街道を東に歩むと、「阿為神社御旅所」があります。路傍に道標が立てられていて、「歴史の道 西国街道」の表示もでています。


ここから少し歩き、阪急バスの「耳原」バス停が今回の探訪の終着点となりました。
このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。

御旅所の前から西国街道をそのまま東に行けば、徒歩15分程度で、宮内庁が比定する「継体天皇陵」(太田茶臼山古墳)があるとのことですが、現地解散時刻のこともあり、オプションとして脚を伸ばすのは止めました。
当初の解散予定地で今回の探訪のご紹介も終わりです。

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) REC講座「関西史跡見学教室27 ~茨木・安威~」当日配布レジュメ
   (2016.9.8 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)
2) 安威城跡 :「発見!探検!いばらき観光」(茨木市観光協会公式ウェブサイト)
3) 大日本名所図会. 第1輯第5編摂津名所図会  (コマ番号332/380参照)
      :「国立国会図書館デジタルコレクション」
4) 耳原公園 :「茨木市」

補遺
摂津 安威砦 :「城跡巡り備忘録」
安威城跡  :「大阪府」
大織冠神社(藤原鎌足公古廟) :「大念寺」
継体天皇陵 三嶋藍野陵  :「宮内庁」
太田茶臼山古墳(継体天皇陵) :「古墳のある町並から」
大織冠鎌足神社
  大和郡山市にこの名称の神社があるそうです。

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


探訪 茨木・安威を歩く -1 地福寺・桑原・安威古墳群・道標 へ
探訪 茨木・安威を歩く -2  大念寺・阿為神社・安威古墳群 へ





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Last updated  2016.10.01 11:08:49
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