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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.08.01
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カテゴリ:正岡子規
   虫の名は知らず虫聞く男ども(明治29)
   名をかへてことぶき草や歌に詠む(明治33)
   名を記す矢数の主のほまれかな(明治34)
 佐藤紅緑といえば、サトーハチローや佐藤愛子の父親で、『ああ玉杯に花うけて』などの「少年小説」の分野で一世を風靡した人物です。
 

 
 紅緑は、明治26年、遠縁にあたる陸羯南を頼って上京し、すぐに羯南の家の門番兼書生として厄介になったので、家の隣の子規とはすぐに顔を合わせました。『子規翁』によれば子規の印象は「全くの書生風で、木綿の兵児帯をしておった」とあります。そして、この年の冬に子規は謡を始めます。「我々の日曜日は向かいでも必ず謡をやる。そは二人もしくは三人で、その中に一番低い声で一番まずいのは正岡さんだろうと、玄関でもっぱら評判であった(子規翁)」とあり、閉口した書生たちは、毎朝撃剣をやることに決め、毎朝ガチャンガチャンと稽古し始めたのですが、子規は一向にこれがイタズラだとは気が付きませんでした。
 
 翌年、紅緑は日本新聞社へと入社します。子規は紅緑に俳句をすすめました。紅緑の『師影六尺』には次のように書かれています。
 
 わずかに二十一歳の弱輩をもってして、私は先生と日本新聞で机を並べる一大幸輻を与えられた。その一室には、編輯営務の末永鉄巌氏と露月と私は向き合っている。「小日本」から帰ってきたその横に先生がいる。そこで先生は俳句を私に勤めた。
「やって御甕なさい」
 課題は「薄」であった。露月はなかなか巧に句を作った。私は十ばかり作ったが、たった二つだけ賞められた。
   芒野や月出んとして風が吹く
   絶壁の一本茫乱れけり
 この二句であった。
「これは振ってる、振ってる」と先生はいかにも嬉しそうに微笑して俳句の上に朱筆で二重丸を付けた。この顔は終生忘るることの出来ない顔である。先生は門人の誰彼を問わず、佳句があると心の底から喜ぶ、あたも海士が海底から珠玉を拾ったように嬉しくて堪らないという風である。昔の聖人は他人の善をなすを見て喜んだそうだが、子規先生は全くそれである。先生を喜ばせるには佳句を作るに限る、先生が後に病臥した時に、私逹は見舞に行こうと思っても御土産が出来ないので行けたいことがしばしばあった。佐藤肋骨(安之助氏)がこういったことがある。
「行きたいけれどもホックが出来ないからな」
 これは私共の通脱であった、佳句を御みやげにするのが先生の病を慰むる唯一のものである。先生の真意を知れば知る程、肋骨のよう言葉が出ざるを得ない。
 先生はそれを直ぐ翌日の新聞に出そうとした、ところが私に雅号がない、私は中学時代にいろいろな雅号を有っていたが何れも気に入らぬ。何でもいいから号けて下さいと私がいった。先生は虚子は清で、碧梧桐は乗五郎で、鳴雪翁は「世の中のことはナリユキに任せる」というので鳴雪なのだと語った。そこで私は洽六だから洽の字を割って合水にしましょうかといった、すると先生は笑って、一合の水では小さ過ぎるといった。それで未決のまま仕事に取掛っていたが、夕方に植字場へ行って見ると「紅緑」になっていた。私が室へ帰ると先生がにこにこして古島氏と語っていたが、
「見ましたか君」と先生がいった。
「紅緑ですね」
「ああリョクはロクにもなるからいいじゃないか」
「しかし何だか支那の遊廓みたいですね」
「禅語にありますよ、何となく君に適しているような気がする」
「貴方が号けて下さったのだから僕は喜んで頂戴します。しかし何だか気恥かしい雅号ですね」
 すると横合から古島さんが唸った。
「気恥かしいってガラでもないじゃないか、君には最も適当だ」
「難有う」
 私の雅号がこれで決まった。それから三十五年、私の生活が善きにつけ悪きにつけ、私の雙肩には先生の賜うた紅緑を荷っているのだ。先生の恩を荷っているのだ、先生の期待をも荷っているのだ。不才亡師に背き、紅を汚し線を染したことは数え切れない。(佐藤紅緑 師影六尺)
 
 紅緑の本名は「洽六」で、虚子や碧梧桐と同様に読みはそのままに号としたのでした。
 紅緑は、子規の思い出話から一つの教訓を残しています。このことが、俳句から小説へと、紅緑を駆り立てたのかもしれません。
 
 ある日私は私の郷里の話をした、雪国の冬の景色や人間の活動振り、朝と昼と夜、それを精しく語った、先生は例の如く麗わしい眼をして夢中にそれを聞いていた、私は先生がこんなに喜ぶとは思いも寄らなかった、話の起因は先生の句、
   屋根低きアイヌの村や雪の原
 というのであった、暖国に生れた先生は雪については全く無智であった、私のいった平凡な話が事毎に先生を喜ばしたのも無理がない、先生から例の細かい質問が出たが、何しろ自分の故郷を語るのだから、の物響に応ずるが如く、このところ私の得意場であった、北京の話とは大分違うのだ。話が終ってから「それをどうして君は書かないのだ」と先生がいった。
 私たち真実を掴む力のないものは、足元のものを書かずに強いて虚構を書こうとするのだ。(佐藤紅緑 師影六尺)
※紅緑と子規の出会いは​こちら
※紅緑と子規の別れのビワは​こちら





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最終更新日  2019.08.01 19:00:06
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