2008年11月27日
名取栄一翁伝4
名取栄一翁伝4
石橋湛山会
東部政財界が後押し
先月七日、大正ロマン漂う木造建築、沼津市千本郷林の「沼津倶楽部」がレストランとして再オープンした。ここはかつて、県内選出代議士で唯一、首相となった石橋湛山を育てた「湛山会」の拠点の一つだった。
山梨県出身の石橋湛山の静岡第二選挙区(当時)での担ぎ出しを持ちかけたのは、終戦後、初めて行われた総選挙で当選しながら、公職追放となった佐藤虎次郎(元旧清水市長)だったとされる。
解散風が強まった昭和二十二年一月、佐藤は沼津市大手町の名取栄一邸を訪れ、石橋の静岡二区での出馬を相談、同じ山梨出身の名取翁を中心とする沼津政財界の支援を要請した。石橋は当時大蔵大臣だったが、東京の選挙区で落選していた。
快諾した名取翁はその翌日、沼津や御殿場、下田などの政財界を仕切る「名取門下」の幹部を名取邸に集めた。「石橋さんを担ぎ、静岡県から総理を出そう」
同年三月、石橋は本籍を名取邸に移し自由党公認として出馬。名取翁は選挙直前に公職追放の身となったが、県東部の保守が結集して石橋はトップ当選した。
「湛山会」重鎮だった父親の死後、名取翁に目をかけられた勝亦一強沼津観光協会長(七三)は「当時は東部政財界に大物が多かったが、あれだけ集められたのは名取翁だったからこそ」とみる。
三十一年十二月、石橋は首相の座を射止める。翌年一月、沼津駅前に朝から数千人が集まったお国入りパレードで、名取翁はオープンカーに石橋首相と並んで座った。
石橋の代議士五期はさまざまな起伏があった。利益誘導を行わず、演説は大所高所に立った内容がほとんど。若手市議として選挙戦に加わった田上博沼津市議(八三)は「世界平和のため、私が日米ソ中を同盟させるーと街頭演説した時は驚いた」と懐かしむ。
名取翁は三十三年に没するまで石橋を支え続けた。名取栄一翁伝記は「名取翁は石橋氏のために次々と土地を売り、全財産を投げ出したといってもよかった」と記す。
石橋は在任二カ月で病気のため首相の座を降りた。湛山会は石橋湛山の引退後、自然消滅した。やはり父親が湛山会主要メンバーだった沼津倶楽部理事長の林茂樹乗運寺住職(七〇)は「名取翁の大きな人柄、湛山先生の高潔さは絶対忘れてはならない」と、沼津倶楽部の再出発とともに湛山会で培われた政治風土、文化の流れの再興を願う。
【メモ】石橋湛山(いしばし・たんざん)1884ー1973年(明治17ー昭和48年)。東京生まれ、1歳で山梨県に。早大卒後、東京毎日新聞社などを経て41年東洋経済新報社社長。47年静岡2区で衆院初当選。56年12月に首相となったが脳梗塞を発症し翌年2月辞任。63年の総選挙で落選し政界引退した。
(静新平成20年11月27日「名取栄一翁伝4」)
石橋湛山会
東部政財界が後押し
先月七日、大正ロマン漂う木造建築、沼津市千本郷林の「沼津倶楽部」がレストランとして再オープンした。ここはかつて、県内選出代議士で唯一、首相となった石橋湛山を育てた「湛山会」の拠点の一つだった。
山梨県出身の石橋湛山の静岡第二選挙区(当時)での担ぎ出しを持ちかけたのは、終戦後、初めて行われた総選挙で当選しながら、公職追放となった佐藤虎次郎(元旧清水市長)だったとされる。
解散風が強まった昭和二十二年一月、佐藤は沼津市大手町の名取栄一邸を訪れ、石橋の静岡二区での出馬を相談、同じ山梨出身の名取翁を中心とする沼津政財界の支援を要請した。石橋は当時大蔵大臣だったが、東京の選挙区で落選していた。
快諾した名取翁はその翌日、沼津や御殿場、下田などの政財界を仕切る「名取門下」の幹部を名取邸に集めた。「石橋さんを担ぎ、静岡県から総理を出そう」
同年三月、石橋は本籍を名取邸に移し自由党公認として出馬。名取翁は選挙直前に公職追放の身となったが、県東部の保守が結集して石橋はトップ当選した。
「湛山会」重鎮だった父親の死後、名取翁に目をかけられた勝亦一強沼津観光協会長(七三)は「当時は東部政財界に大物が多かったが、あれだけ集められたのは名取翁だったからこそ」とみる。
三十一年十二月、石橋は首相の座を射止める。翌年一月、沼津駅前に朝から数千人が集まったお国入りパレードで、名取翁はオープンカーに石橋首相と並んで座った。
石橋の代議士五期はさまざまな起伏があった。利益誘導を行わず、演説は大所高所に立った内容がほとんど。若手市議として選挙戦に加わった田上博沼津市議(八三)は「世界平和のため、私が日米ソ中を同盟させるーと街頭演説した時は驚いた」と懐かしむ。
名取翁は三十三年に没するまで石橋を支え続けた。名取栄一翁伝記は「名取翁は石橋氏のために次々と土地を売り、全財産を投げ出したといってもよかった」と記す。
石橋は在任二カ月で病気のため首相の座を降りた。湛山会は石橋湛山の引退後、自然消滅した。やはり父親が湛山会主要メンバーだった沼津倶楽部理事長の林茂樹乗運寺住職(七〇)は「名取翁の大きな人柄、湛山先生の高潔さは絶対忘れてはならない」と、沼津倶楽部の再出発とともに湛山会で培われた政治風土、文化の流れの再興を願う。
【メモ】石橋湛山(いしばし・たんざん)1884ー1973年(明治17ー昭和48年)。東京生まれ、1歳で山梨県に。早大卒後、東京毎日新聞社などを経て41年東洋経済新報社社長。47年静岡2区で衆院初当選。56年12月に首相となったが脳梗塞を発症し翌年2月辞任。63年の総選挙で落選し政界引退した。
(静新平成20年11月27日「名取栄一翁伝4」)
Posted by パイプ親父 at 11:39│Comments(0)
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