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【近世】小林一茶(1763年~1828年)

やせ蛙 負けるな一茶 是にあり

江戸時代の俳人、小林一茶である。著名な俳人で松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ代表的な俳人が一茶である。

しかし、一茶の半生は栄光に満ちたものではなく、苦難の連続であった。起伏のある人生を、等身大で乗り越えていった一茶の、人間味溢れる俳句が人々の心を打ったのである。

彼が生きた時代は江戸時代の後半、宝暦・天明期~文化・文政期に町人が担い手となる文化が開花する。時代は田沼時代や大御所家斉の時代である。重商主義政策、ないしは放漫財政により財政悪化を引きおこすが、一方で貨幣流通量が増大し、人々の暮らしは豊かになり、庶民にも生活の余裕が生まれる。この時代に町人たちが主体的となり楽しむ文化が育まれたのである。

例えば、歌舞伎や相撲、物見遊山といった小旅行である。人々はこれらを身近に感じようと、歌舞伎役者の絵や力士の絵、風景画を求めた。また、文学も盛んで、滑稽本や読本、合巻や人情本が庶民に受けた。版画技術の向上で、安価に大量出版が可能となり、流通経済の発展に乗っかり、これらは地方にも伝播された。地方では寺子屋教育の普及により、多くの農民が読み書きが出来たし、豪農層は商業活動に手を出す傍ら積極的にこれらの文化を享受した。

こういう時代だからこそ、小林一茶という農民出身の俳諧師が誕生したのである。彼は長野県の豪農の子として生まれたが、継母との関係が悪く、15歳で江戸に奉公に出されてしまう。生活は安定せず、住まいも転々とすることになった。そんな中、俳諧と出会い、腕を磨いていくことになる。

故郷を出て14年、各地を巡検し、花鳥風月に接する経験を経て、帰郷を果たす。そこで継母との和解が成立し、その後西国への俳諧修行の旅に出た。7年に渡る俳諧修行の旅は、文字通り修行で、明日の宿、明日の食事すら保障されたものではなかった。そこで、俳句を通して人と交わり、人々の好意によって泊まる宿を確保し、食べるものを得ていかなければならなかった。

しかし、小林一茶はこの修行を通して、確かに実力と知名度を高めた。俳諧師として人々から認められ始めたのである。しかし、そんな中、継母と義理の弟との間で財産を巡る確執が生じてしまう。和解しかけた継母との関係に再び確執が生まれてしまったのだ。

51歳の一茶の歌にこのようなものがある。

梅が香や どなたが来ても 欠茶碗

どんなに一生懸命に生きても、お客人にまともな茶碗すら提供できない一茶の自嘲にも似た歌である。しかし、これが現実なのである。名をなすことは財をなすこととイコールではない。夢を追いかければ、我慢しなければならないことはたくさんあるのでる。

そして、

寝にくても 生まれ在所の 草の花

ギスギスとした実家であっても、故郷は愛おしく、大切な場所なのだという一茶の気持ちである。

結婚して4人の子供をなすが、全て夭折し、妻にも先立たれてしまう。再婚相手とは折り合いが付かず、火事で自宅を焼失するなど、笑えないくらい災難が降りかかる人生を歩んだ。

小林一茶は65歳で、その生涯を閉じる。晩年の作品『おらが春』では、江戸で屈指の俳諧師としての名声を得るようになる。明治時代の正岡子規や夏目漱石は小林一茶を絶賛し、その名声は不動のものとなる。

小林一茶は自然や花鳥風月を愛でる俳人ではなく、生きることの喜びや苦しみを等身大で歌に詠んだ俳諧師であった。だからこそ多くの人々の共感を得られたのであろう。


歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。