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【百年ニュース】1921(大正10)12月19日(月) 「なだ万」三代目の楠本萬助に次男,楠本憲吉が誕生。父の楠本萬助は1919(大正8)パリ講和会議全権の西園寺公望の欧州随行料理人に。憲吉は灘中学校(同期に遠藤周作),慶應義塾大学法学部,のち俳人となる。テレビにもしばしば出演し活躍した。1988没,享年66。

「なだ万」経営者で中興の祖である三代目・楠本萬助に、次男の楠本憲吉が誕生しました。

1830(天保元)年に初代灘屋萬助が大阪で開業した料理店が料亭「灘萬」の母体となりました。その後、1871(明治4)年に長崎料理を基調とした「灘萬楼」を開業。のち総合食料品を開業し、現在のスーパーマーケットの先駆者となりました。1919(大正8)年に三代目・楠本萬助がパリ講和会議全権の西園寺公望の欧州随行料理人になりました。

さて三代目・楠本萬助の次男憲吉は旧制灘中学校に進みます。中学の同期に作家の遠藤周作がいました。のち慶應義塾大学法学部に進み、戦後に句作をはじめました。新俳句人連盟の『俳句人』で特別賞を受賞し、著名な俳人となりました。またテレビにもしばしば出演し活躍した。

1988(昭和63)年12月17日に死去。享年は66歳でした。

三代目・楠本萬助
灘萬食料品店
楠本憲吉
NHKテレビ「お達者くらぶ」
※写真の人名に間違いあり。高橋義孝ではなく、講談師の二代目神田山陽。


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