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近現代文化の諸問題 第6回 島国の風土と国民性~和辻哲郎『風土』~

 第5回では、唐木順三の『現代史の試み』という著作から、現代にもつながる「大正教養派」の問題点に迫りました。
 今では、「教養」という言葉はすっかり定着した感がありますが、実はこの言葉が新しい知的概念として知識人の間で持てはやされるようになったのは、歴史的には二十世紀初頭、日本の年号でいえば、日露戦争に勝利した明治末期から大正時代にかけて…であったことが理解できたかと思います。
 では、明治世代はどのような言葉があったのか。それが「修養」でした。
「修養」というと、前近代的な「修業」などの概念も含むものですが、唐木は「教養」との大きな相違として、読書の他に「行」があったことを指摘しています。
 さらに唐木は明治の頃まで存在した「型」の概念が、大正以降、喪失したと指摘。教養派以降の知識人について「型なし」とまで指弾しています。
 これは大正教養派の中の年少世代でもあった唐木自身の自己反省も含むものでしたが、自分の先輩たちにあたる阿部次郎や三木清といった哲学者たちが、後の昭和世代のマルクス主義者たちに、なぜ圧倒されてしまったのか、当時の社会主義思想を、明治の修養にとって変わる新たな〝型〟として見直したところに、大きな意義があります。

 いつの時代でも自分よりも少し上の世代は憧れでもあり、そうであるが故に反発を覚えることはよくあることです。そうした「逆張り」から上の世代とは全く逆の方向に走ってしまう―これは今の時代でもしばしば見受けられることで、決して珍しいことではありません。
 しかし、大正教養派の名誉のためにいえば、彼等の中からも昭和の激動期にあって、当時の国策による言論弾圧が強まる中、最後までその「自由主義」思想で抵抗した人たちもいたことも忘れてはなりません。
 獄中で亡くなった三木清もそうですが、マルクス主義にも後の日本主義にも抵抗した知識人として、河合栄治郎のような人物もいたのです。
 文藝評論家でフランス文学者の饗庭孝男は、『日本近代の世紀末』という著書の中で、一般的に「内省的」と言われた大正期の教養派知識人の思想にも、「社会」や「世界」に広がっていくような可能性を充分秘めていた…と考察しています。
 また、大正世代でいうと、西田哲学の影響から『愛と認識との出発』や『出家とその弟子』を著した倉田百三のように、自ら病身に鞭打って、宗教の修業の実践に取り組んだ人物もいます。これも明治世代につながる新しい「型」、或いは「行」にあたる試みといえるかもしれません。

 さて、今回は、その大正教養派の哲学者でもあり、昭和以降も活躍した人物を紹介します。和辻哲郎です。
 和辻というと『古寺巡礼』や『鎖国』などの著書が有名で、その著作を紐解いたことがなくても、名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれません。今回はその代表作ともいうべき『風土』を紹介します。

 まずは簡単ですが、いつものように和辻の経歴から振り返ってみたいと思います。
 和辻は明治22年兵庫県生まれ。西暦でいえば1889年ですが、ちょうど明治の半ば、大日本帝国憲法が発布された年にあたります。
 数歳上に阿部次郎や三木清がおり、唐木順三はその一回り下の世代にあたります。夏目漱石や西田幾多郎の影響を強く受けていることからも、まず典型的な大正教養派の思想家の一人に位置づけられる人物です。
 かといって、思想家としての和辻を位置づけるのは、とても容易なことではありません。
 学生時代は、ニーチェやキルケゴールなどの哲学を学び、『ニイチェ研究』を出版。
 三十歳で書いた『古寺巡礼』では、東西の美術史の該博な知識から仏像を分析しています。
 大学院時代に照夫人と結婚。阿部次郎とも親しく、和辻夫婦と次郎は自宅を行き来するほどの間がらにありました。
 ところが、和辻がドイツ留学中に、阿部次郎と照夫人が親密な間柄となります。激怒した和辻は、その後次郎に絶交状を送り付ける結果となりました。
 詳しくは竹山洋著『教養派知識人の運命 阿部次郎とその時代』(筑摩選書)に描かれていますが、唐木順三が先輩の和辻哲郎を称える一方、『現代史への試み』で阿部次郎に対して厳しい評価を下したのは、そうした教養派の間での複雑な青春模様があったからかもしれません。
 ドイツ留学中は、ベルリンで二十世紀最大の哲学者といわれるハイデッカーにも師事。その代表作『存在と時間』にも啓発されています。
 四十代の博士論文では、原始仏教を考察。
 その後、昭和の時代とともに、「尊皇思想とその伝統」といった日本の思想史についても考証し、昭和天皇にも御進講を行っています。
 その一方で、漱石の薫陶を受け、谷崎潤一郎らとともに『新思潮』に参加した文学者でもあります。
 その他、カント哲学からキリスト教、ギリシャ思想、孔子のほか、『日本精神史研究』では『源氏物語』などの国文学まで及び、一体何が専攻なのかわからなくなるほど、該博な知識と深い考察で多大な業績を遺した人です。
 『和辻全集』を読むだけでも、古今東西の人類の知的遺産が一通り身につくのではないか…と思われるくらい、広く深い洞察力は、まさに大正教養派の完成体といってもいいくらいです。

 その和辻が昭和2年から3年にかけてのドイツ留学後、京都帝国大学で博士の学位を得て、さらに東京帝国大学で倫理学講座の教授を務めた時期に書いたのが、今回紹介する『風土』です。
 ハイデッカーの影響を受けた和辻ですが、人間を規定するものは『存在と時間』でいうところの「時間」だけでなく、「空間」にもあるのでは…と仮説を導き出します。それがこの「風土」です。
 まさに人生の最も脂がのりきった四十代の頃に書き上げられたもので、海外渡航経験を積みつつ、東西両洋の該博な知識をもって日本文化を考察する…といった教養派知識人の置き土産のような記念碑的作品となっております。

 『風土』は残念ながら「青空文庫」には入ってませんが、岩波文庫の一冊となっているので比較的手軽に読める作品でもあります。
今回はその中から、日本の「モンスーン」に着目して、その国民性について考察した第三章を取り上げたいと思います。

 周知の通り、大陸から分かれた日本は、島国特有の風土とともに独自の文化を生み出しています。
 中学高校の地理の時間で学んだように、「モンスーン域」に位置づけられる日本ですが、同じモンスーンでも大雨と大雪という特殊な二重現象の風土を持ちます。その具体的な気象現象が「台風」です。
「季節的でありつつ突発的」という台風の性格は、「人間の生活自身の二重性格」を生みます。
 そのことについて和辻は、「人間の受容的・忍従的な存在の仕方の二重性格の上に、ここにはさらに熱帯的・寒帯的・季節的・突発的というごとき特殊な二重性格が加わってくる」と説明、そこからさらに日本人の国民性について洞察しております。

※以下、引用

 和辻哲郎著『風土 人間学的考察』から第三章「モンスーン的風土の特殊形態」(岩波文庫 1979年)

>人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この特殊性は風土の有限性による風土的類型によって顕著に示される。(中略)
 自分はモンスーン地域における人間の存在の仕方を「モンスーン的」と名づけた。我々の国民もその特殊な存在の仕方においてはモンスーン的である。すなわち受容的・忍従的である。
 しかし、我々はこれのみによって我々の国民を規定することはできない。風土のみを抽象して考えても、広い大洋と豊かな日光とを受けて豊富に水を恵まれ旺盛に植物が繁茂するという点においてはなるほど我々の国土とインドとはきわめて相似しているが、しかしインドが北方が高山の屏風にさえぎられつつインド洋との間にきわめて規則的な季節風を持つのとは異なり、日本は蒙古シベリアの漠々たる大陸とそれよりもさらに一層淡々たる太平洋との間に介在して、きわめて変化に富む季節風にもまれているのである。<

>大洋のただ中において吸い上げられた豊富な水を真正面から浴びせられるという点において共通であるとしても、その水は一方的においては「台風」というごとき季節的ではあっても突発的な、従ってその弁証法的な性格とその猛烈さとにおいて世界に比類なき形を取り、他方においてはその積雪量において世界にまれな大雪の形を取る。かく大雨と大雪との二重の現象においては日本はモンスーン域中最も特殊な風土を持つのである。それは熱帯的・寒帯的の二重生活と呼ぶことができる。(中略)
 熱帯的植物としての竹に雪の積もった姿は、しばしば日本の特殊の風物としてあげられるものであるが、雪を担うことに慣れた竹はおのずから熱帯的な竹と異なって、弾力的な、曲線を描き得る、日本の竹に化した。<

 竹は大陸でも、南部でみられる植物ですが、それが北部の特徴である雪と一緒に見られる。これは日本では決して珍しい話ではありませんが、海外の人から見るとシュール(超現実的)に映るのだそうです。

 >台風は稲の花を吹くことによって人間の生活を脅かす。だから台風が季節的ありつつ突破雨滴であるという二重生活は、人間の生活自身の二重生活にほかならぬ。豊富な湿気が人間に食物を恵むとともに、同時に暴風や洪水としての人間を脅かすというモンスーン的風土の、従って人間の受容的・忍従的な存在の仕方の二重性格の上に、ここにはさらに熱帯的・寒帯的・季節的・突発的というごとき二重性格が加わってくるのである。<

 この二重性について、和辻は、「感情の昂揚を尚びながらも執拗を忌むという日本的な気質を作り出した」としています。
 その例として、日本の「国花」とされる桜の花を例に説明しています。桜の花の「恬淡に散り去る」美しさが、日本人の国民性にも通じるというのです。

>四季おりおりの季節の変化が著しいように、日本の人間の受容性は調子の早い移り変わりを要求する。だからそれは大陸的な落ちつきを持たないとともに、はなはだしく活発的であり敏感である。(中略)
 あたかも季節的に吹く台風が突発的な猛烈さを持っているように、感情もまた一から他へ移るとき、予期せざる突発的な強度を示すことがある。(中略)
 さらにそれは感情の昂揚を非常に尚(とうと)びながらも執拗を忌むという日本的な気質を作り出した。桜の花をもってこの気質を象徴するのは深い意味においてもきわめて適切である。(中略)<

 「突発的忍従性」というきわめて何とも難解で、不可思議な定義ですが、これは例えば我慢を重ねた末に爆発する、江戸っ子的な「あきらめの美学」であったり、春の到来とともに美しく咲いた末に「淡白に生命を捨てる」という桜の花びらにも通ずる、日本の美意識を持ち出せば、わかりやすいかもしれません。注目したいのは次の一文です。

>暴風や豪雨の威力は結局人間をして忍従せしめるのではあるが、しかしその台風的な性格は人間の内に戦争的な気分を湧き立たせずはいない。だから日本の人間は、自然を征服しようともせずまた自然に敵対しようともしなかったにかかわらず、なお戦闘的・反抗的な気分において、持久的なならぬあきらめに達したのである。日本の特殊な現象としてのヤケ(自暴自棄)は、右のごとき忍従性を明白に示している。(中略)
 忍従に含まれた犯行はしばしば台風的なる猛烈さをもって突発的に燃え上がるが、しかしこの感情の嵐のあとには突如として静寂なあきらめが現れる。(中略)
 きれいにあきらめるということは、猛烈な反抗・戦闘を一層嘆美すべきものたらしめるのである。すなわち俄然として忍従に転ずること、言いかえれば思い切りのよいこと、淡白に忘れることは、日本人が美徳としたところであり、今なおするところである。桜の花に象徴せられる日本人の気質は、半ばは右のごとき突発的忍従性にもとづいている。その最も顕著な現れ方は、淡白に生命を捨てるということである。<

 和辻がこの本を書いた昭和9年の時点では、満洲事変から数年経ったとはいえ、後の大きな戦争までには至ってません。和辻はその「突発的忍従性」について、「キリシタンの迫害に際しての殉教者の態度」や、日露戦争における軍人たちの戦闘の様子を念頭においています。偶然とはいえ、この一節を読んで、後の「特攻隊」を想起する人も少なくないのでは、と思います。

 そしてこの章で、和辻は「日本の国民的性格」について、以下のようにまとめています。

>そこで日本の人間の特殊な存在の仕方は、豊かに流露する感情が変化においてひそかに持久しつつその持久的変化の各瞬間に突発性を含むこと、及びこの活発なる感情が反抗においてあきらめに沈み、突発的な昂揚の裏に俄然たるあきらめの静かさを蔵すること、において規定せられる。それはしめやかな激情、戦闘的な恬淡〔てんたん=あっさりとして執着しないこと〕である。これが日本の国民的性格にほかならない。<

 これがこの文章の結論部分にあたるものですが、この「突発的忍従性」という日本人の性格は、現在の日本人の態度にも継続されているように思います。
 因みに和辻はこの『風土』の中で、アフリカから中東、モンゴルにかけては「沙漠地帯」、ヨーロッパについては「牧場地帯」として考察しています。
 草の生えない厳しい環境から戦闘を繰り返し、一神教を生み出したのがユーラシア南西部の「沙漠地帯」であり、夏は乾燥、冬は湿潤といった気候的特徴から、人工的に牧場を作りだし、人間が自然を克服していくという合理思想を生み出しだのがヨーロッパだというのです。
 そうした和辻の考えは図式的で、発表当初からも批判が多かったのですが、しかし指摘されてみると、何とも説得力を感じてしまうのが、和辻の圧倒的な筆力にあるのかもしれません。
 今でも東西の比較思想を語る時、東洋人が「自然に従順で適応していく」〔例:庭園の鹿威(ししおどし)〕で、それに対して西洋人が「自然を克服していく」〔例:公園の噴水〕…というようにしばしば対立的に説明されることがありますが、その走りが和辻の風土学だった、ということもできます。
 『風土』における和辻の問題提起は、細かく考察するとツッコミどころが少なくなく、読み手によっては賛否分かれる議論かもしれません。
 しかしながら、現在の地球規模で起こる環境問題や、各国の地勢学や風土に基づく民族の文化や国民性、それによってしばしば生ずる東西文明の分裂や衝突、紛争などを考察する上でも、今なお色褪せない課題を突きつけているようにも感じます。

(※和辻の伝記については、岩波新書の熊野純彦著『和辻哲郎―文人哲学者の軌跡』がお薦めです)

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