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いつかどこかで見た映画 その123 『無頼』(2020年・日本)

監督・脚本:井筒和幸 脚本:佐野宜志、都築直飛 撮影:千足陽一 出演:松本利夫、柳ゆり菜、中村達也、清水伸、松角洋平、遠藤かおる、佐藤五郎、久場雄太、阿部亮平、遠藤雄弥、火野蜂三、 木幡竜、清水優、田口巧輝、朝香賢、徹裵 、ジョンミョン、高橋洋、髙橋雄祐、橋本一郎、和田聰宏、浜田学、駒木根隆介、松浦祐也、ラサール石井、小木茂光、木下ほうか、升毅

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 井筒和幸監督といえば、やはり初の一般映画『ガキ帝国』で鮮烈に日本映画シーンに登場したことや、その後の『岸和田少年愚連隊』や『パッチギ!』、『ヒーローショー』など、不良性感度の高い「ヤンチャ」どもの群像劇の撮り手というのが一般的なイメージだろうか。そういえば井筒監督のエッセイ本にも、『ガキ以上、愚連隊未満。』というのがあった(……もっともそれは、『ガキ帝国』から『岸和田少年愚連隊』までの自らの映画人生を振り返ったもの、という本の内容からとられたネーミングだろうけれど)。
 あるいは『のど自慢』や『ゲロッパ!』といった人情ドラマでも、社会から落ちこぼれたり、いろいろとワケありな面々が、クライマックスにいたって画面いっぱいに“喜怒哀楽”をぶちまける。その心情(いや、むしろ「真情」か)と熱量[ボルテージ]に観客は圧倒され、思わず笑い泣かされるのである。
 そういえば井筒監督は、テレビ・ラジオにもよくコメンテーターとして出演しているんだが、そこでの歯に衣着せぬというか、コテコテの関西弁で「毒舌」を振るういかにも血中濃度の高そう(?)なガンコ親父ぶりもまた、その作品のイメージに反映されているのかもしれない。
 そんな熱気あふれる痛快なエンターテインメントの担い手という一方で、井筒作品を見る者は、ふとした瞬間そこに内省的というか、どこか「知的[クール](!)」な“まなざし”を感じないだろうか。笑わせ、泣かせ、熱くさせる「ヤンチャ」どもの生きざまを描くようでいて、井筒作品における彼らには、どこか奇妙な焦燥と「悲壮感」を感じさせる瞬間がある。単純明快な人物像[キャラクター]に思えて、ある瞬間に見せる陰影というか「翳り」にハッとさせられてしまう。そしてそこに、あたかも彼らの“生態”をじっと見すえる映画の、監督の“まなざし”をありありと感じてしまうのだ。ーー少なくともぼくという観客は、そういった瞬間を何度も眼にしてきたつもりだ。
 たとえば『岸和田少年愚連隊』で、他校の生徒たちとのケンカに明け暮れる矢部浩之が演じる主人公と仲間たち。やったらやり返され、やられたらやり返すばかりの彼らは、その際限のないケンカの日々のなかで決して人間的に成長したり、人生を学んだりしない。それは、主人公の父親と祖父がいつも見ているテレビの動物番組の野生動物たちと同じく、果てしのない闘争をくり返すばかりなのである。あの動物たちを追うカメラこそ、井筒作品の“まなざし”に他ならない(……そして井筒監督の『ヒーローショー』とは、そんな闘争がどんどん肥大化しエスカレートしていったその“行きつく先”を描いたもの、といえるかもしれない)。
 しかし主人公たちもまた、いっぽうでこの果てしのないケンカの日々、その堂々巡りの閉じられた“円環”の外へ出なければならないことに薄々と気づいている。けれどその「出口」を見つけられないことの焦燥と無力感が、この一見ハチャメチャなコメディに微妙な“内省性[メランコリー]”をもたらしていたのではなかったろうか。無意味であることを承知していながら、その閉じられた“円環(=世界)”のなかでは永遠に同じ無意味をくり返すしかない……そういった反復こそが、ここで彼らを真に「悲劇」的な人物としているのである。そう、ギリシャ神話のあのシジフォスのように。
 あるいは、なんとか自らの人生を切り拓いていこうとしながら、最後は「運命」という“宇宙の法則”から逃れ得なかった『宇宙の法則』の、古尾谷雅人演じる主人公を思い出してもいい。これまでの苦労や奮闘をすべて“無”に帰してしまう、ラストに迎えるそのあっけない「死」。それもまた「悲劇」以外のなにものでもないだろう。
 そう、前述のとおり社会からはみ出したり落ちこぼれたりした者たちの、その「反骨精神」や抵抗を熱っぽくパワフルに描くのが井筒作品のつねだ。しかしそこには、そんな彼や彼女たちを通して「悲劇的」な人間を見出そうとする井筒和幸監督の“まなざし”がある。だからこそ井筒作品の人物たちは、誰もがちっぽけで卑小な生を懸命に生きる者たちでありながら、ギリシャ悲劇的な意味において真に「崇高」なのである。いや、ぼくは本気でそう思っている。
 そして、前作『黄金を抱いて翔べ』から実に8年ぶりとなる最新作『無頼』もまた、実に400余名(!)という登場人物のほとんどが「ちっぽけで卑小な生を懸命に生きる者たち」ばかり。その生きざま(と、死にざま)を、昭和から平成へといたる約40年にわたって描く一大群像劇だ。
 ……昭和31年、伊豆の片田舎で飲んだくれの父親と暮らす中学生の井藤正治と兄の孝。極貧のなか家の屋根に葺かれたトタン板を剥がしたり、アイスキャンディーを売ったりしていたが、ある日、正治はついに父親をぶちのめして家を出る。 
 それから4年後、安保闘争のデモにむかう学生相手のカツアゲで鑑別所に送られた正治。出てきたと思ったら、今度は地元のヤクザ相手に殴り込みをかけてふたたび刑務所の世話になる。その後も網走刑務所で臭いメシを食い、昭和46年に出所した正治(松本利夫)は31歳になっていた。
 兄の孝(中村達也)の口ききで関西の巨大組織・若松組直系の川野組組長(小木茂光)と親子の盃を交わし、正治はついにヤクザとして「一家」をかまえることとなった。昔からの不良仲間や全共闘くずれなどをひきいて抗争に明け暮れ、正治の井藤組は裏社会で顔をきかせるようになっていく。
 そんな日々のなか、親の借金の肩代わりに働いているというホステスの佳奈(柳ゆり菜)にひと目ぼれした正治。だが、ふたりきりでの逢瀬のさなか警察に踏み込まれ、またも正治は逮捕されてしまう。
 出所後、佳奈と結婚した正治。組も順調に大きくなっていったものの、親分の川野が同じ巨大勢力・若松組系列の橘組組長(ラサール石井)と対立し、川野はさしむけられたヒットマンに殺されてしまう。だが、正治は若松組直系の実力者・伊坂(隆大介)と盃を交わすなど、あいかわらず抗争と刑務所入りをくり返しながら極道社会を突き進んでいった。
 そして、昭和50年代半ばの日本がバブル経済にわく頃、正治の井藤組はついに若松組の直系となる。しかし跡目争いで分裂した若松組は、新組長の谷山(升毅)が襲撃で死亡。正治の組でも、報復のため武装した組員たちが対立組織の会長宅へダンプで突っ込むも失敗に終わってしまう。
 さらに時代は流れ、平成の世をむかえた日本。バブル景気もはじけ、暴力団対策法の施行によって、正治たちも金融や証券取引で生き残りをはかろうとしている。そんななか、古いつきあいの右翼活動家・中野(木下ほうか)がテレビ局で拳銃自決を決行し、正治とその組を支えてくれた兄の孝も病院で息をひきとった。
 これまでがむしゃらに裏社会を生き抜き這い上がってきたものの、もはや修羅場を“斬った張った”で乗りきっていける時代ではないことを思い知る正治。これから自分はどう生きるべきなのか……。
 意外にもこれが、井筒監督にとって初めての本格的な「ヤクザ映画」ではあるものの(……『二代目はクリスチャン』や『ゲロッパ!』でもヤクザ組織を描いたが、それらはあくまで「コメディ映画」としてあった)、それでも“社会からはみ出したり落ちこぼれたりした者たちの、その「反骨精神」や抵抗を熱っぽくパワフルに描く”というその姿勢[スタイル]は変わらない。
 そのうえで、《アウトロー社会という世間の良識から排除された“ネガ画像”をあえて描くことで、僕なりの昭和史を逆照射してみたい》と語る井筒監督。なるほど、60年安保や高度経済成長、東京オリンピック、オイルショックからロッキード事件、バブル経済の狂騒、等々の昭和という時代の“世相”が、主人公の生きざまとともに、映画のなかでそれこそ“走馬灯”のように浮かんでは消え去っていく。あるいは主人公たちを「欲望の資本主義」(とは、井筒監督自身による本作の主題[テーマ]のひとつだ)へと駆りたてるのである。
 それは、井筒監督が好んでタイトルを挙げる『ゴッドファーザー』や『仁義なき戦い』シリーズというより、むしろマーティン・スコセッシ監督の傑作『グッドフェローズ』をぼくに想起させるものだった。あの映画もまた、マフィアの一員として暗黒街を生きた男の、1950年代から80年代にかけての人生を描くものだ。
 が、「人生を描く」といってもそこに「人間ドラマ」はないに等しい。少年時代から闇タバコの密売や、窃盗に手を染め、やがて賭博や強盗に手を広げていった小悪党[チンピラ]。主人公である彼もまた、ここではひとつの「点景」にすぎない。スコセッシ監督がここで提示するのは、さまざまな悪事[ビジネス]に精を出し、女や麻薬におぼれ、殺し殺されるギャングたちの生きざまというより、その行動であり“生態”なのである。それを、時代ごとのヒットナンバーを全編にわたってひびかせながら、40年近くにわたるアメリカの「裏社会史」を2時間25分の上映時間のなかで描くというより“疾走”するのだ。
 そして井筒監督の『無頼』も、スコッセシ作品よりも1分長い(!)2時間26分のなかで、40年近くにわたる日本の「裏社会史」を描くというより突っ走る。そのときこちらは、時代ごとのヒットナンバーではなく“世相[トピックス]”を画面のなかに映し込ませるのである。
 しかし、スコッセシ作品になくてこの井筒作品にあるもの、それはやはり「人間」だ。前述のとおり、『グッドフェローズ』があくまでギャングたちの生態を、それこそ野生動物のドキュメンタリーのように追ったものなら(……本作について、「ともかく精神はドキュメンタリーだ。16ミリキャメラで、こういう連中を20年から25年追い続けたらできあがるようなものとでも言えばいいだろうか」と、スコッセシ自身が語っている。引用は『スコセッシ・オン・スコセッシ』宮本高晴訳より)、『無頼』のなかで井筒監督は、主人公をはじめすべての無頼[アウトロー]たちを泣き、笑い、怒る、あくまで「人間」として映しだそうとするのである。
 ……映画のなかで主人公は、とにかくやたらと刑務所を出たり入ったりをくり返す。それは、彼の世界が「刑務所の内と外」だけで成り立っていることを表している。しかし、『岸和田少年愚連隊』の主人公がそうだったように、本作の主人公もまたその“円環”の外を夢見るようになるだろう。そして映画は最後に、まさにその「“外”の世界」を見せて終わるのだ。
 それを、これまでの物語全体をそれこそ“反故”にしてしまうものだと、批判する向きもあるだろう。しかし、永遠に続くかのような堂堂めぐりの無意味な人生、その「悲劇的」な生から“降りた”主人公が見た景色の「穏やかさ」こそ、井筒作品のひとつの到達点に他ならない。そしてぼくという観客は、それを心から肯定し祝福したいのである。

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