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世の中を“シラフ”のまま楽しむのは難しいのか(ゆりいか)

宮崎智之著『平熱のまま、この世界に熱狂したい』(幻冬舎)を読んだ。良いエッセイだった。ここ数年、なかなか魅力的なエッセイに出会えていなかったから、読んでいる最中も「こういうのが読みたかったんだよな」と、しみじみしてしまった。

先に言っておくと著者の宮崎さんはお世話になっているライターの先輩だ。僕が20代の頃、とあるライター勉強会で出会って、それから飲みの席で度々お話させてもらっていた。物書き仕事のイロハを教わったわけではないが、若い自分の話に興味を持ってくれることが何より嬉しかった。今でも時折お仕事の相談などをさせてもらうことがある。

なので、読者から「先輩の宣伝としてひいきしているのでは」と受け止められる恐れもあって、記事を書くか正直悩んでいた(自分にそんな大それた権威はないが、気持ちの問題だ)。しかし、そこを押してでも、ひとまず感想を残しておいた方がいいと思ったから、今こうして書いている。

何が良いかといえば、驚くほど“普通”のことが書いてあることだ。このエッセイには、波乱万丈な冒険や親族との骨肉の争い、企業の陰謀、海外で得た新たな知見などといったものは、ほとんど無い。動物園にヤブイヌを見に行ったり、蓄膿症を治療したり、細マッチョに憧れて筋トレにチャレンジしたりと、誰にでも起こりそう、思いつきそうなことがつづられている。

ともすれば素朴な話に終始しているように読者には受け取られかねないだろう。しかし、宮崎さんがかつてアルコール依存症となり、それが原因のひとつとなって離婚を経験、現在は完全に酒を断っているという話を知った後では、それらのエピソードの意味合いは全く違うものとなってくる。

“酒に溺れる者にとって現実はあまりにもあけすけで、人生はままならない。人間も世界も「不確実」なものだが、その不確実性に、酒飲みは耐えられない。だから酒を飲む。それが「正気」の判断なのであり、ままならない人生を酒なしで生きるには、「常に正気でい続けることの狂気」を受け入れなければならない。”

新宿ゴールデン街の飲み屋で店番をしていると、宮崎さんのような思考にはまっている人に出会うことは少なくない。やんわりと飲みすぎを注意したり、短いスパンでおかわりを出さないようにしたりしているが、その人たちの一刻も早く「正気に戻りたい」という熱量を止めることは、残念ながら難しい。「シラフでは人と話せない」「酔わないと自分が出せない」という話を聞くたびに「どうしたものかな……」と考え、特に答えらしい答えは用意できずにいる(用意できたところで、その言葉を相手が納得して受け入れるかはまた別の話だから、難しいところだ)。

宮崎さんの場合、断酒を決意した後の課題となったのは、どうやって「平熱のまま、この世界に熱狂」できることを見つけられるかだったという。しかも、この課題は「ライター」という職業のあり方にも深く関わってくる。読者は、どうしても破滅的な人生や過激な行いを知りたいと思うし、そういったものに憧れがちなところがある(太宰治や坂口安吾などを思い浮かべてほしい)。

“もちろんそうやって数々の素晴らしい作品が生まれてきたことも事実である。しかし、ぼくはそうはなれなかった。そうなる前にいとも簡単に心も体も壊れてしまうし、そうした人生を徹底することのできない臆病な人間だ。
 だが、熱狂することで見落としてしまうものもあるのではないか。”

そうして、宮崎さんは凪(なぎ)の日常から何か自分の興味の持てるものを探していく。それがヤブイヌだったり筋トレだったりする訳だが、それによって自分の心はどのように揺らぎ、震えたのかを、赤子の観察日記をつけるかのような丁寧さでつづっていく。

一見は平穏で、ところどころ笑いをもたらしてくれるエッセイなのは間違いない。だが、その根底にある必死さが、ページをめくる手を離さない。これまで心に留まっていなかったものの中から新しい感情を見つけていくのは、とても難しいものだ。なぜなら、それは必ず自分が無意識に目を背けていたものと対峙することになるからだ。宮崎さんもまた日常の出来事の気づきから、自分の“弱さ”について深堀りしていくことになる。

“信念を持っても貫きとおすことができない。理性や知性で判断しても失敗する。すぐ間違う。そして、それを繰り返す。少なくともぼくは、自分が「強いやつ」だとは、どうしても思えないのである”

結果的に宮崎さんが自分の“弱さ”の中から何を見つけ、どう考えたのかは、本書を読んでほしい。少なくとも、この世界を“シラフ”では生きていけないと考える人たちに、宮崎さんの言葉は決して弱くない意味を持ってくるはずだ。(ゆりいか)


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