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天才チャーリー・パーカーのニューヨーク進出とビ・バップ創造までの軌跡

今でもジャズの王道である「モダン・ジャズ」の基礎となる革命的な音楽スタイル「ビ・バップ」の創造者と言えば
 
チャーリー・パーカー(Charlie Parker Jr. )(以下「バード」と略す)
もし彼がいなかったなら?
ジャズという音楽は まったく違ったものになっていたかもしれません。

1920年8月29日:カンザスシティ生まれ

1935年末:ハイスクールを退学~フルタイム音楽活動を開始。プロになったバードの演奏の評判はイマイチ。

1936年11月:交通事故で約4ヶ月間入院。
この事故が、麻薬依存症への転機と考えられます。
病院のベッドに寝たきりの状態で、痛みを和らげるために、モルヒネを処方されていていました。退院後も脊柱と肋骨の痛みを和らげるためにヘロインを使わなければならなかったそうです。

この事故によって、バードは、薬物注射のやり方を覚えたのでしょう。(当時のカンザスシティならば、麻薬は簡単に入手できたはずです。)

【1936年初頭】:クリント・イーストウッド監督の映画「Bird」にも描かれていましたが、バードがジャム・セッションでの演奏に苦闘しているときに、ジョー・ジョーンズがバードに対する演奏の評価として、ゴングショーの鐘のようにシンバルを床に投げ込みます。

恥ずかしくなったバードは、泣きながらクラブを出て行ってしまうという出来事が起こります。

まだ若いバードは、客やバンド仲間から、“厄介者の三流サックス奏者”と蔑まされていたので、上記出来事を機に、山籠もり(興行のための寄せ集めバンドの一員として、リゾート地で約三ケ月に渡って“演奏づけの日々”を過ごす)をして、音楽理論とサックスのスキル・テクニックを徹底的に勉強し直します。

1939年:ニューヨーク進出

バードは、ニューヨークにいる、師匠と仰ぐバスター・スミス(Buster Smith)宅を訪ねます。

ミュージシャンとしての仕事に就けないバードは「Jimmy‘s Chicken Shack」という店で皿洗いをしながら、街のあちこちのジャム・セッションに参加していていました。

そんなある夜、バードはギタリストとセッションしていたときに、ジャズ・ソロの限界を打ち破ることができる半音階の12半音に気づきました。

この気づきが『ビ・バップ』になっていきます。


"I'd been getting bored with the stereotyped changes (harmonies) that were being used all the time. I found that by using the higher intervals of a chord as a melody line and backing them with appropriately related changes, I could play the thing I'd been hearing. I came alive.“

私は、定型的なコード・チェンジ(ハーモニー)に飽き飽きしていた。コードの高い方の音をメロディーラインとして使い、それにふさわしいコード・チェンジをつけることを発見して、かつてから耳の中で聞こえていたことをプレイできるようになったよ。私は生き返った。(バードの名言より)



1942年アール・ハインズ楽団に加入(ここでディジー・ガレスピーに出会う)

1944年ビリー・エクスタイン楽団に移籍
セントルイスにビリー・エクスタイン楽団がやってきたときに、マイルス・デイヴィスが病気のメンバーの代役を務めます。(これが、バードとマイルスとディジー・ガレスピーの初めての共演)

1945年11月26日:バードの初リーダー録音『サヴォイ・レーベル』に吹き込まれました。
『The Charlie Parker Story』
チャーリー・パーカー(as) ディジー・ガレスピー(tp, p)
マイルス・デイヴィス (tp) サディス・ハキム (p) 
カーリー・ラッセル (b) マックス・ローチ (ds)


1945年から1949年がバードの音楽活動の最盛期。
革新的ひらめきを伴ったインプロヴィゼーションが伝説化


1946年7月29日:歴史的に有名な"Lover Man" セッション

ハリウッドにある“Billy Berg‘s”というクラブで演奏後ディジーとのコンビ解消。

バードは、一人ハリウッドに残り、ダイアル・レコードで多くの録音を残します。

NYへの飛行機代が薬代となって帰れなかったという噂もあります。
LAではヘロインの流通が少なく入手困難の上に価格はNYの3倍だったからかもしれません。

♪Lover Man♪ セッションの時、バードが出だしをミスって遅れてサックスを吹き始めます。

この夜、バードは薬物中毒の禁断症状で錯乱状態になります。
ホテルのロビーに全裸で表れて注意され、部屋で消し忘れた煙草でベッドが燃えてボヤ騒ぎを起こします。

10日間の勾留後、バードは、カマリロ精神病院に送られ6か月間入院することになります。


1947年2月 退院後ダイアル・レコードでセッション再開

この時にバードが用意した曲が『Relaxin‘ at Camarillo』。

リハーサルを行ったところ、バード以外は、演奏が出来ず、譜面を見ながら練習を始めました。

そこでバードは「君たちが演奏できるようになったら 呼びに来てくれ」と告げて、車の中で酒を飲みながら待ちましたが、
全員が演奏できるようになった時には、ボトルは空で酔いつぶれていました。


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