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『信虎』(2021年・ミヤオビピクチャーズ・金子修介・宮下玄覇)の歴史背景

2021年11月12日(金)TOHOシネマズ系で公開される映画『信虎』(金子修介・宮下玄覇)は、武田信玄の父・武田信虎の晩年をダイナミックに描いた、日本映画としては久々の戦国時代劇大作。

本作の劇場用プログラムで「武田三代の映画・ドラマ史」と題して寄稿させて頂いている。

この映画をより楽しむために、ここでは映画『信虎』の歴史的背景として武田家三代、父・武田信虎、息子・武田信玄、孫・武田勝頼について、史実を中心にまとめてみた。鑑賞ガイドになれば幸いである。

<戦国の名将 武田信玄の父・信虎は信玄によって追放され、駿河を経て京に移り、足利将軍家の奉公衆となる。追放より30年の時が流れた元亀4年(1573)、信玄が危篤に陥ったことを知った信虎は、再び武田家にて復権するため甲斐への帰国を試みるも、信濃において勝頼とその寵臣【ちょうしん】に阻まれる。信虎は、織田信長との決戦にはやる勝頼の暴走を止められるのか。齢【よわい】80の「虎」が、武田家存続のため最後の知略を巡らせる――。(公式サイトより)>

【父・武田信虎 (寺田農)】

 武田信虎は、1491(明王3)年1月6日、武田氏の第17代当主・信縄の嫡男として生まれた。室町時代「上杉禅秀の乱」により甲斐国(現在の山梨県)は、乱国状態となっていた。当時、武田家では、信虎の父・信縄の弟・油川信恵が家督を狙って争いが絶えなかったが、1507(永正4)年に家督を継いで第18代当主となった信虎は、翌年に叔父・信恵を倒した。

 信虎は1518(永正15)年に、信虎は守護所を、水害を受けやすかった石和から、甲府へと移転。居館である躑躅ヶ崎館を建設、城下町を整備して、有力国衆である家臣を集め、抵抗する国衆たちを次々と撃破、武田家の勢力を拡大していった。

 その後も、1521(大永元)年には、河内へ出兵して、敵対する今川方の富士氏を撃破。しかし今川方の反撃により、信虎は要害山城へ退き、「飯田河原の戦い」「上条河原の戦い」で今川勢を撃退して、駿河へと駆逐した。この最中、要害山城で生まれた嫡男が武田晴信(のちの信玄)である。

 こうして信虎は、1532(天文1)年までに、反対勢力の有力国衆を次々と撃破して、甲斐統一を成し遂げることに成功した。1536(天文5)年には今川氏の家督争いのお家騒動「花倉の乱」に関与して駿河国に出兵。善徳寺承芳(のちの今川義元)を支援、義元が結果的に勝利を収め、信虎は長女・定恵院を義元正室として嫁がせている。

 一方、甲斐領国内では、一度に多くの公文書を発行できる印判状を用いて、支配体制を確立。しかし、信虎の専制化を恐れた家臣たちは、1540(天文9)年10月、信虎の長男・晴信を担ぎ出した。

 1541(天文10)年6月14日。信虎は、娘婿・今川義元訪問のために、駿河国に向かうが、そのさなか、晴信は甲駿国境に足軽を派遣して路地を封鎖してしまう。この時、信虎は長男・武田晴信の画策で、駿河国へ追放されてしまったのだ。その後、信虎は今川義元の元を離れて京都へ移り、将軍・足利義輝の相伴衆となる。義輝が三好・松永に殺された後、尾張国の織田信長が、足利義昭(信輝の弟)を擁立して上洛すると。信虎は新将軍・足利義昭に仕えた。

 その後、信長と不和となった義昭は、挙兵。信虎は義昭の命を受け、甲賀で兵を募ることになる。映画『信虎』の物語はここから始まる・・・。

【息子・武田信玄 (永島敏行)】

 甲斐国守護・武田信虎による甲斐国統一の途上、1521(大永元)年11月3日、要害山城で生まれた。母は西郡の有力国人・大井氏の娘・大井夫人、幼名は太郎。1523(大永3)年、兄・竹松が7歳で亡くなり、信虎の嫡男となる。しかし1525(大永5)年、弟・次郎(武田信繁)が生まれた。「甲陽軍鑑」によれば、信虎は次郎を溺愛して、それゆえ太郎を次第に疎むようになっていった。

 天文1536(天文5)年3月、太郎は元服をして、武田晴信と名を改める。その初陣は、1536(天文5)年11月、佐久郡海ノ口城主・平賀源心攻めであるとされている。「甲陽軍鑑」には、この頃、晴信が城を一夜にして落城させたと記されているが、その真偽は定かではない。

 晴信は、信虎の信濃侵攻にも従軍、1541(天文10)年の「海野平の戦い」にも参加している。その頃、信虎による甲斐国の専制に危惧を抱いた、晴信と重臣・板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌たちが、信虎を駿河国へ追放。晴信は武田家・第19代目の家督を相続する。

 信虎の時代、武田氏が敵対しているのは相模・御北条氏のみで、駿河国・今川氏、上野国・山内上杉氏・扇谷上杉氏の両上杉氏、信濃・諏訪氏と同盟関係を結んでいた。しかし晴信はその路線を変更して、信濃諏訪領へ侵攻を開始、1542(天文11)年9月25日、「宮川の戦い」に勝利をして、諏訪を掌握した。

1545(天文14)年4月「高遠合戦」で、上伊那郡・高遠城に侵攻、高遠頼継を滅した。こうして晴信は、「小田井原の戦い」で上杉・笠原連合軍に勝利、「上田原の戦い」で北信地方を支配していた村上義清と合戦するも敗れてしまう。

 この時、傷を負った晴信が、甲府の湯村温泉で三十日間の湯治をしたという伝説が残されている。その後、中信地方を平定し、1550(天文19)年9月、村上義清の砥石城を攻めるも大敗を喫してしまう。しかし翌年、砥石城が落城したことで、武田軍は優勢となり、三千人の兵を従えて村上義清を追い込んだ。1553(天文22)年4月、村上義清は越後国主・長尾景虎(のちの上杉謙信)の下へ逃れ、東信地方も武田家の支配下となった。

村上義清の要請を受けた長尾景虎が、信濃出兵を開始。武田軍は、村上義清の葛尾城を一度は落としたものの、1553(天文22)年5月「更科八幡の戦い」で、義清に奪還されてしまい、一進一退の戦いが繰り広げられる。長尾景虎は信濃に侵攻を続け、9月「布施の戦い」で武田軍が撃破されてしまう。ここから「川中島の戦い」が激化していくこととなる。

晴信は、駿河の今川氏、相模の北条氏と、積極的に娘や息子と婚姻関係を結んで「甲相駿三国同盟」を成立させた。特に北条氏との「甲相同盟」では、長尾景虎を共通の敵として、相互出兵をして、戦いを続けていった。1554(天文23)年、武田勢は、佐久郡や伊那郡、木曽郡の反武田勢力を鎮圧して南信地方を安定化させた。長尾景虎と武田晴信の「川中島の戦い」は、1564(永禄7)年まで続くこととなる。

その間、1559(永禄2)年2月、晴信は「第三次川中島の戦い」の後に出家して武田信玄と名を改めた。信玄は長尾勢と戦いながら、北信侵攻を続けていた。1561(永禄4)年3月、長尾景虎は、上杉政虎と改名。政虎は、北条氏の小田原城を包囲した「小田原城の戦い」を展開、信玄は割ヶ嶽城を攻め落とした。この時、信玄の参謀・原虎胤が負傷したため、山本勘助が参謀になる。1561(永禄4)年8月、これまでの戦いのなかで最大規模となった「第四次川中島の戦い」が繰り広げられた。武田勢は、信玄の実弟・武田信繁、足軽大将・山本勘助、三枝守直たち家臣を失い、信玄も傷を負ってしまったという。

その後、信玄は「西上野侵攻」「飛騨国への介入」「越中国への介入」「今川・北条の戦い」などを重ねて武田家の隆盛を極めていく。1567(永禄10)年には、織田信長の嫡男・織田信忠と、信玄の娘・松姫との婚約が成立、織田家との同盟関係が結ばれる。しかし1571(元亀2)年の織田信長の「比叡山焼き討ち」を信玄が非難。関係は危うくなり、1572(元亀3)年10月3日、将軍・足利義昭の信長討伐令に、信玄が応じて「遠江侵攻」を行った。この時、信玄は浅井長政と朝倉義景に信長への対抗を要請。その後信長は信玄と義絶、武田軍の快進撃は続き、同年12月22日、信玄は遠江三方ヶ原で徳川家康と戦って、圧倒的な勝利を納めた。

しかし度重なる戦いに疲弊していた信玄は体調を崩していた。1573(元亀4)年4月12日、軍を甲斐へ引き返す途中三河街道で、信玄は死去した。享年53だった。その辞世の句は「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」だった。

「甲陽軍鑑」によれば、信玄は遺言で「越後国の長尾謙信と和睦し頼ること」「(嫡男・勝頼に対しては)長男・武王(信勝)継承までの後見として務めること」「自らの死を三年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈めること」と言い残した。信玄の死後、家督を継いだ武田勝頼は、遺言を守り、葬儀も行わなかった。

映画『信虎』では、信虎が高遠城に六男・逍遥軒を訪ねた際、逍遥軒の長男・平太郎から「信玄様は4月12日、ご帰陣のさなかに死去されたのです」と真実を告げられる。

【孫・武田勝頼 (荒井敦史)】

 武田信玄の死後、家督を継いだ武田勝頼は、1546(天文15)年、武田晴信の四男として生まれた。生年月日、生誕地、幼名は不明。母は、信虎の時代に同盟関係を結んでいた信濃国・諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人。

 信濃攻めを本格した信玄は、越後国の上杉氏と戦い、1562(永禄5)年「第五次川中島の戦い」で信濃平定がひと段落した。信玄は支配のために、子女を入嗣させて懐柔していたが、勝頼も永禄5年6月に諏訪家の名跡を継いで、諏訪氏の通字「頼」を名乗り「諏訪四郎勝頼」となった。

 諏訪勝頼は、信濃高遠城主となり、初陣は1563(永禄6)年「上野箕輪城攻め」だった。勝頼は、晩年の信玄の戦のほとんどに従軍している。1569(永禄12)年、「武蔵野国滝山城攻め」では、北条氏照の家老・飯岡山城守と、三度槍を合わせた伝説がある。また1565(永禄8)年11月、勝頼と尾張・織田信長の養女・龍勝院との婚礼が進められた。この頃、信玄は織田家と同盟して信濃侵攻を進めていた。この時、信玄の指名で勝頼が武田家の後継者と決められた。

 1567(永禄10)年、高遠城で勝頼と正室・龍勝院の間に、嫡男・武王丸(武田信勝)が生まれた。北条氏と武田氏は「甲相同盟」を結び、将軍・足利義昭の命による「信長包囲網」に参加。1572(元亀3)年の「西上作戦」では、勝頼は大将を務め、11月には徳川方の遠江二俣城を攻略、12月「三方ヶ原の戦い」でも織田・徳川連合軍と戦った。翌、1573(元亀4)年4月12日、信玄が病死したため、勝頼は武田姓に服して家督を相続して武田氏第20代当主となった。

 信玄の死で、織田信長、徳川家康らは窮地を脱し、信長は将軍・足利義昭を河内国に追放。元号も天正と改元、武田家の凋落がここから始まる。信長は越前国、近江国に攻め入り、信玄に協力していた朝倉義景、浅井長政を滅し、織田・徳川連合軍の猛攻が始まった。それに対抗するべく、勝頼は「明知城の戦い」「飯羽間城の戦い」「高天神城の戦い」(1574年)と快進撃を続け、東遠江をほぼ制圧。1574(天正2)年9月、天竜川を挟んで徳川家康軍と退陣、ついには浜松城下に放火した。

 そして1575(天正3)年、勝頼は徳川家康に寝返った、三河国・山家三方衆の奥平貞能・貞昌親子を討伐すべく、一万五千人の兵を率いて三河国に攻め入った。5月には奥平信昌が立て篭もる長篠城への攻撃を開始。これに対して、織田信長・徳川家康の連合軍、三万八千人が長篠に到着。しかし圧倒的な兵力の差もあり、信玄時代からの家臣たちは撤退を進言するも勝頼は、織田・徳川軍との決戦を主張、5月21日早朝、「長篠の戦い」の最終決戦の火蓋は切って落とされた。数で劣る武田軍は総崩れとなってしまい、敗走する途中で馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟など、歴戦の将士を失ってしまう。満身創痍となった勝頼は、菅沼定忠に助けられ、伊那郡へ退却した。

「長篠の戦い」後、勝頼は領国を再建するために、越後・上杉氏、相模・後北条氏との同盟強化を図る。1575(天正3)年、紀伊国に亡命していた将軍・足利義昭が、武田家、上杉氏、後北条氏の和睦を呼びかけた。上杉謙信は、北条との和睦は拒絶。「甲相越三和」の実現には至らなかったが、この年の10月、武田と上杉の和睦は成功している。

1578(天正6)年3月13日、上杉謙信が病死。上杉景虎と上杉景勝の間で、家督をめぐって「御館の乱」が起こった。勝頼は、自ら越後国に出兵して、両者の調停を試みた。結局、景勝から和睦が持ちかけられ、これを受け入れ、勝頼は景勝と和睦、景虎との調停を続け、8月19日、春日山城で両社の和睦が成立した。その後、再び両者は対立、1579(天正7)年、景勝の勝利で「御館の乱」は収束するも、結果的に後北条氏を敵に回してしまった。

 しかし武田家は、織田・徳川・北条と三方を敵に囲まれ、出兵とその出費、新府城築城に多額な費用がかかり、経済的にも疲弊していった。そのための年貢や賦役を課して、領民の人心も勝頼から離れつつあった。1582(天正10)年2月、賦役の増大に不満を抱いた木曾義が、勝頼を裏切り、織田家に寝返った。勝頼は木曾の謀反に激怒、5000の軍勢を率いて木曾征伐を行った。信長は、勝頼討伐を決定、信長・信忠父子は伊那郡から、徳川家康が駿河方面から進軍することに。

さらに2月14日には浅間山が噴火、武田家にとってはこれが大きなダメージとなる。組織的抵抗が出来なくなってしまったのだ。2月28日、勝頼は1000名の兵とともに新府城に撤退するも3月3日には、勝頼は新府城を未完成のまま、放棄した。進路を塞がれた勝頼は、武田家ゆかりの天目山棲雲寺を目指している途上、3月11日、織田氏の宿老・滝川一益の追っ手に阻まれ、嫡男・信勝、正室・北条夫人とともに自刃。享年37だった。これによって甲斐武田氏は滅亡したが・・・。


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