見出し画像

今語りたい、『涼宮ハルヒの憂鬱』の凄さ

こんにちはー!
最近鍋が美味しい季節になってきましたね!
我が家ではこの間初めてちゃんこ鍋を作ってみました。めちゃくちゃ美味しかったです。
ちゃんこ鍋とは全然関係ありませんが、今回は『涼宮ハルヒの憂鬱』について語ろうと思います。


何故今『涼宮ハルヒの憂鬱』について語るのか

さて、仕切り直して・・・
今回はずばり、言わずと知れた名作『涼宮ハルヒの憂鬱』についてです!

・・・え?名作だよね?みんな知ってるよね?

いえ、もしかしたら知らない人もいるかもしれません。なにせ一期は2006年・・・えっ10年以上経っとるやんけ。
もしかしたら名前だけ聞いたことあるけど中身を見たことが無いという人もいるかもしれませんね。そんな人は読み終わったらすぐアニメを見に行ってもろて。
さて、何故今『涼宮ハルヒの憂鬱』かというと。
最近でこそアニメ(ゴールデンでやっているような子ども向けアニメや少年漫画アニメではなく、俗に言う深夜アニメの類)に対するハードルが下がり・・・いえ、ハードルが下がるどころの騒ぎではありませんね。その地位はなんと、
・アニメのオープニングがアメリカのビルボードのグローバルチャートで首位に躍り出る(YOASOBIの『アイドル』)
・声優がゴールデンのバラエティに顔出ししまくる(宮野守さんぐるナイレギュラー獲得等々)
・金曜ロードショーの枠で新作アニメが公開される(『葬送のフリーレン』)
・会社の陽キャ連中のみならず、アニメに偏見がある世代のはずのおっちゃんまでもが当たり前のようにアニメを見ている(私近辺の話)
等の偉業を成し遂げるほどのうなぎ上りぐあい。正直私が時をかける少女となり昔の2ちゃんに「数年後にはこういうことになってるやで」とか書き込んでも「はい嘘乙ーw」「ソースうp」とか書かれて相手にされなかったと思います。これでは時をかける少女ではなくジョン・タイターです。

・・・すみません、だいぶ話が飛躍しましたが。

とにかく、深夜アニメが今のアニメの見られ方とは全然違う冷え冷えな扱いをされていた当時に放映されたアニメが『涼宮ハルヒの憂鬱』です。
当時の『涼宮ハルヒの憂鬱』に対するオタク外からの反応は
・なんか「萌え」とか言ってる集団が崇めてる色物アニメ
・中身が無い美少女もの
・平野綾という声優がバラエティに出て来たり、アニメキャラクターがcmに出て来たりしてうぜぇ
こんな感じ。
・・・いや、これ誇張表現じゃないですよ。マジでマジ。リアルでこの声聞いたことあるし。
「『涼宮ハルヒの憂鬱』っていうアニメがなんか流行ってるし面白いらしいから見てみようかなぁ!」とか言ってくれるのはオタクに優しいクラスのカーストだと中間かちょい下くらいに位置する人だけ。カースト上位の連中は見向きもしないし「キモイ」とか言われる始末。
同い年や若い人の反応はまだマシなほう(なんだかんだ若い人は新しいものが好き)で、もっとひどいのは自分の親世代の反応。私が「好き」という態度を見せると黙ってため息をつかれました。そしてその更に上を行く冷遇具合だったのがおじいおばあ世代。おじいおばあ世代はマジでやばかったです。「何見てるの!やめなさい!!!」と悲鳴をあげられるレベルでした。
そのため当時はリアル世界で声を大にして言ったらキモがられるし、逆にネットはオタクの温床だったので声をあげたところで「ハルヒが面白い?にわか乙」と言われて終了だったのです。
が、今ネット上を徘徊しているのはもはやオタクのみならず。オタクもあの時代からはだいぶ進化してリア充とオタクのハイブリットイケメン美女みたいなオタクも現れるようになりました(いやあの時代からしょこたんとかはいたけどさ)。世間も深夜アニメに偏見はなく、むしろ最近のアニメブームから「何か面白いアニメは無いか」と向こうから探しに来るという始末(つい先日「この間○○っていうアニメ見たんだけど3話から作画変わり始めてさー」みたいなツイートしてる人見て「今一般人が観てる高予算アニメが異常に作画が崩れないだけでそれが普通や・・・!」と思ったのもいい思い出)。
つまり、ようやく声を大にして『涼宮ハルヒの憂鬱』の良さをネットで語る事ができる世の中になったわけです!!!
・・・ということに昨日気づいたので、ちょっと書いてみようかなと。おいおいここまでで既に1700文字かよ・・・・・。

原作が既に面白い、涼宮ハルヒシリーズ

アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』について語る前に、まずは原作についてお話しなければいけないでしょう。私自身も実はアニメを見る前にラノベで読んでハルヒの存在を知りました。そしてドはまりし、アニメをやっているらしいから是非アニメも観てみようと借りて観始めたわけです。
さて、涼宮ハルヒシリーズはライトなノベルと書いてラノベです。確かに書きぶりは純文学のそれとは違い、物語はすべてきょんの一人称視点で描かれ、セリフ調で描かれるシーンも多いです。
・・・が!
まず初めに言っておきます。本の好き嫌いがありすぎてえり好みをしてしまう私が、ライトノベルの中でこれは面白れぇと好んで読み進めたシリーズは、『バカとテストと召喚獣』と涼宮ハルヒシリーズのみなんです!!!
・・・事実をお話するために妙な形でバカテスが挟まってしまいましたがそれは置いておいて。
とにかくハルヒは典型的なラノベなのですが、その書きぶりや一人称視点であるきょんの話しぶりはユニークで秀逸。何よりも面白い。思わずくすりと笑ってしまうような描写が満載なのです。
そして、これが一番勘違いされやすい点なのですが、涼宮ハルヒシリーズはただの美少女ものでもハーレムものでもありません。
SFなのです。
物語の中にはもちろん日常パートも多く存在しますが、思わず鼻をつまみたくなるような、美少女が何故か平凡以下くらいの主人公にホの字で頬を赤らめたり、薄っぺらい陳皮でありきたりな恋愛騒動を巻き起こしたりする、みたいなきな臭い描写でその日常が埋め尽くされているわけではありません。
恋愛要素は匂わせる程度、その大半は日常のなかで突如起こる不思議超常現象、に巻き込まれつつ解決していくきょんとSOS団の仲間たちの物語なのです。
また、これが巧妙だと思うのが、これらの超常現象は台風の目であるところの傍若無人な行動の化身女涼宮ハルヒには知られてはならないということ、超能力バトルのような典型的な力のようなものを題材にしていないこと、起こる超常現象のほとんどが馬鹿げて笑ってしまうようなものであること、しかし放置し過ぎるとなんだか世界滅亡的なことにつながるのでなんとかしなきゃいけないこと、という、ありきたりなようで絶妙にこんな作品は無いと思わせるような、SFとギャグとライトノベルの萌え文化と学生の青春をうまい具合に融合させたような作品なのです。

レッテルに負けない登場人物のキャラクター性の魅力

また、涼宮ハルヒシリーズに出てくるキャラクターの魅力についても語らないといけないでしょう。
これまた私が感心したのが、涼宮ハルヒシリーズに出てくるキャラクターは一見コテコテなように見えて活き活きと血の通ったキャラクター性なのです。私はラノベのコテコテレッテルキャラ張りにもうんざりしていたので、このあたりが私がハルヒを読み続けることができた理由でもあります。
ハルヒはよく"ツンデレ"と評価されます。確かに"ツンデレ"ではあると思います。しかし、型にハマったような"ツンデレ"行為を繰り返すようなキャラではありません。傍若無人だしモラルも散々だけど若さゆえの憤りからの暴走であることも感じ取れるような、少しずつだけれど成長する人間らしさも感じられるようなキャラクターです。また、コテコテの"ツンデレ"は何故か常に好きな人に対してだけ傍若無人で好意を示すときは常に天邪鬼になるのですが、ハルヒはきょんに対してだけ傍若無人なわけではありません。同性のみくるにも容赦ないですし、好意を示すときに天邪鬼になるというよりも、そういう"恋愛的な雰囲気"や"なんかいいことする雰囲気"がそもそも苦手でくすぐったいから避けているのです。これはあの有名な『God knows…』が劇中歌である『ライブアライブ』で、ハルヒが軽音楽部の人からお礼を言われたときになんだか居づらそうにしていたことでも表現されています。
また、例えばシリーズ一番人気の長門有希ですが、所謂"無口キャラ"ではあれど、それは彼女が"情報統合思念体"に3年前に作られたアンドロイドで、しかも人とのコミュニケーションも最低限できればいい、感情も無くていい、情報だけ詰め込んどけ、と気持ちいいほど割り切って作られた存在だからという理由があります。しかし、そのことに全く悲壮感はなく、お助け便利キャラみたいな感じで作中で大活躍します。そして、そんな背景のある彼女がほんのーりと見せるわずかな自我、これがなんとも尊く、あ、つまりこれが好きなんだねと、ほほえましい気持ちにさせられるわけです。そんな彼女が見せた最大の自我、『涼宮ハルヒの消失』の描かれ方もなんとも絶妙な具合で、現実世界の長門有希がその事件をきっかけに破顔したり、わがままを言ったりするようになるわけではなく、今までの長門有希のまま「エラー」として処理する。しつつ、ほんの少しだけ"仲間意識"のようなものを持つようになるのです。てーてー・・・。
他にも、典型的萌えドジキャラのようで案外普通な常識人でもある"朝比奈みくる"や、優等生男子高校生のようでなんかキナ臭い面白キャラとなりはてている"古泉一樹"など、一口でこうと語れないキャラで固められているSOS団ですが、
私が今の時代だからこそ特に語りたいと思う存在は"きょん"です。

その後の主人公キャラの原初みたいな存在"きょん"

涼宮ハルヒシリーズにおける主人公"きょん"は、今のあらゆる深夜アニメの主人公の原初とも言えるキャラだと私は考えています。彼の特徴を、あくまで薄い表面上だけすくい取るとこのとおりです。
・平凡な高校生
・顔面偏差値も普通
・生まれつき持つ能力などは特にない
・クラスメイトの変な美少女に気に入られる
・変な事件に巻き込まれるようになる
こんな感じ。そう、今のアニメでよくある「平凡な俺が突如変なことに巻き込まれて~~~」シリーズの原初はこの"きょん"なのです。ハルヒが流行った後はこの形式の主人公もぶあーーーっと流行り始めました。特に、一人称視点で物語を描いていくのはラノベとしては書きやすく、多くのラノベ作家が「これならわい氏でも書けそう!」とノリノリで一人称視点のラノベを書き始めたことでしょう。また、一般人が巻き込まれて「やれやれ」と言いながら一緒に解決する、みたいなシチュエーションも作りやすいですしね。
しかし、その後出た同じような、一人称視点で平凡な俺が巻き込まれる系のラノベやアニメをいくつか見ても、私的には"きょん"ほど魅力的に語り部や人物像が描けているとは思えませんでした。
きょんが語り部となる涼宮ハルヒシリーズは、ただ一人称で一般人なきょんが何故か巻き込まれるから面白かったわけではありません。
これは小説を書いている谷川流氏自身の語彙力の多さにも所以があるでしょうが、ときに軽快にツッコミを入れたり、個性的な例えを含んで説明したりするきょんという語り部がまず純粋におもろいのです。アニメで杉田さんがあんなにノリノリで演技をできていたのもそもそもの元の文章がユニークで軽快なものであったからでしょう。
また、きょんは確かにステータスとしては平凡な一般人ではありますが、なんの魅力も無い人間というわけではありません。ハルヒのお気に入りになってしまった経緯も納得できるものだし、平凡を盾にして傍若無人や不条理に反論することはあれど、仲間想いだし空気も読めます。
涼宮ハルヒシリーズの人気は、ハルヒの人気によるものというより、どちらかというとこのきょんの語りが魅力的だったからこそというのも、私は大いにあると考えています。

実験的過ぎる!この時代に美少女ものでこの演出

さて、そして話はアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の話に戻ります。
もともと原作自体も人気だった涼宮ハルヒシリーズ。ただし、当時これのアニメ化は難しいと言われていたとも聞きます。というのも、この涼宮ハルヒシリーズは上記で私が散々語ったとおり、キャラクターやその動きの魅力以上にきょんの語りの魅力もあるのです。これを単にキャラクターを動かしてセリフを言わせたところで、この独特の面白さは何も伝わらないことになってしまうでしょう。
また、中身はあくまでSFなので、時に超能力的な、人智を超えた表現が必要となることもあります。例えば朝倉がきょんを殺しに来るシーンや閉鎖空間など。そのため、単純に学校を題材にキャラを動かせばいいというわけではなく、小説という文字の表現から実際にどう映像に昇華すれば伝わるだろうか、という創造的な部分も欠かせなかったのです。
しかし、この課題を京アニは見事にクリアする・・・どころか、誰もが想定しえなかったことまでしてしまいます。
まず、きょんという語り部ありきの面白さ、これはアニメという映像で見せる作品ながら、小説のようにきょんの語り部の表現をモノローグとして存分に残す、という手法で打破されました。その分きょんの声優である杉田さんの演技量は半端ない事になっていたでしょうが、この杉田さんの見事なアフレコもきょんというキャラにマッチし、これが大成功となります。
そしてSFとしての表現。これが本当に当時感心して、確かに京アニさんの美麗な作画あっての作品なので、ハルヒ・長門・みくるの3人はとても可愛く、当時でいうところの「萌え」を感じさせるような美しさで描かれているのですが、それ以上にSFの世界観やキャラの心理描写がごく丁寧に表現されていることに感心したのです。今ではさほど珍しいことでもないですが、当時こういう萌え系の美麗なキャラクタ―作画の作品はキャラクターこそ美麗なれど、作品全体への挑戦的な表現手法のようなものがされたものは無かったので、たとえば長門が宇宙人であることを語るときの演出や、ハルヒが自分のもやもやを独白する時の演出、閉鎖空間にハルヒと閉じ込められたときのきょんの独白に対する演出など、美少女ものでこういうおしゃれな演出とかするんだーというのが新鮮だったのです。
映像化した朝比奈みくる伝説のリアルな素人のカメラ回し具合や、ライブアライブの軽音の楽器演奏の作画、はたまたコンピュータ研とのPCゲームをリアルな戦艦対決に見立てるなどの凝った演出も素晴らしいものでした。
細かいところですが、SEやミニキャラなどでのアニメ的演出がほとんどなかったのもおしゃれさに拍車をかけていたような気がします。そう、ハルヒは当時の美少女アニメとしてはおしゃれアニメだったのです。
そして、何よりも当時の視聴者の度肝を抜いたのが、その放送順。
なんと、ハルヒシリーズは一番初めに朝比奈みくる伝説の上映から始まるという、初見の人は混乱オブ混乱、原作を読んでいる人も開いた口がふさがらないほどの衝撃の采配を行います。
そのあとも物語が時系列に進むわけではなく、やっと1巻の話が始まったと思ったら、4話では急に野球大会が始まるなど、話の順番があべこべなのです。
確かに涼宮ハルヒシリーズは1巻の最後が一番最初の大きな山場であって、作品の最後に山場を持ってこようと考えると1クールで1巻の内容をのびのびでやり続けなければいけません。もしくは1巻の内容を巻きでやって次の山場である4巻へつなげる・・・いや、とてもじゃないけど2クールで終わる内容とも思えません。
となると、1巻の終わりを途中で挟みつつ、2巻の終わりまでやって終わらせる。というのが普通の人が考えるアニメの作り方なのでしょうが。
ハルヒは敢えて3巻や5巻の短編集の内容を1巻の話の間に挟みながら、1巻の終わりが一番最後に来るように仕上げて見せたのです。
まず一見萌え美少女ものと見せかけてSFで凝った演出をしている時点で今までにないアニメなのに、こんなこともしてしまったので唯一無二のアニメになってしまいました。

絶妙なメタ演出と呼応した現実世界での盛り上がり

『涼宮ハルヒの憂鬱』で盛り上がった演出は、アニメ内の演出のみではありません。
まず、アニメのクレジットですが、必ずと言っていいほど超デカ文字で「超監督 涼宮ハルヒ」とのクレジットが。もちろん実際の監督は石原立也さんという実在の人物だしクレジットもきちんとされていますが、この「超監督 涼宮ハルヒ」の文字がくそデカ文字でクレジットされることによって、「なんか変な演出だけどハルヒだったらこんなへんてこな演出しそうだな」という妙な納得感につながるのです。この演出にはたまげました。
また、本編ではハルヒときょんがHPを作成しますが、このHPが実際にネット上に存在します。


↑リンクです。
こちらのwebサイト、当時はサイトの中を探ったら朝比奈みくる隠しフォルダを見つけられる、七夕の時期にはHPの中見が変わる等、遊び心満載のHPだったのですが、今はこのトップページ以外特に見れなくなってしまっているようです。もしくは適用ブラウザが古すぎて今の私の最新Googleクロームたんでは見れなくなっているのでしょうか。このあたり何かご存知の方がいらっしゃったら是非教えてください!
その他にも、(これは私がわざわざ触れずとも有名ですが)エンディングはSOS団のダンス付きで公開され、オタクの序列がそこまで厳しくない学校では学祭で踊ってみた人もいたほどの人気ぶり。思えばこのダンスがハルヒのブームの一助になったようにも思います(中身は伝わらずハルヒという名前だけ広まる原因ともなりましたが)。
また、ハルヒはキャラクターソングが各キャラ分発売され、声優のライブも行われるなど、純粋に楽曲周りでも盛り上がった作品です。これは当時ネットがオタクの巣窟で、且つ著作権という概念があってないようなものだったので、これらの楽曲とアニメ映像を元にオタク達が"MAD"を作成したりしたことでぶわーっと広がりました。ハルヒをきっかけにキャラソンや声優に興味を持ったオタクも多いのではないでしょうか。

最後に

平成に流行ったアニメとして一躍有名になった『涼宮ハルヒの憂鬱』。
もちろん、今のアニメは当時と比べてクオリティも面白さの水準もかなり上がっていますが、であれど『涼宮ハルヒの憂鬱』は今観てもとても面白く、画期的な内容のアニメです。
もし今のアニメブームで初めてアニメを観始めたのであれば、是非この『涼宮ハルヒの憂鬱』も観ていただきたいと思います。一度観始めたら、最後まで止まらないこと間違いなしです。

では!

この記事が参加している募集

アニメ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?