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柳田国男の読まれ方

正確な言葉遣いは忘れたが、ある映画監督が柳田国男に次のように問うたことがあった。

「先生の学問の目的は日本人のエートスを発見することではないですか。」

これに対する柳田の答えは、「君がそう思うのなら、自分はそれでもかまわない。」

この韜晦な答えは肯定と受け止められたようだが、素直に解釈すれば「だが、自分の考えはそうではない」という否定も込められているように思える。

しかし、この映画監督ばかりの早とちりと責めることができない。およそ柳田国男を読む人の大方は、そこに「日本人のエートス」のようなものを期待する。故に柳田は日本主義者の元祖、日本人論の重要な源流とみなされている。それ以外に、今日、柳田を読む理由などあるのか。

自分探しの末に「日本人」を発見した人々

ある教育学者は次のようなエピソードを披露している。若い頃煩悶した彼は、「自分は何者であるか」という問いを「日本人とは何か」に置き換えてしまい、柳田に向かった。しかし、柳田のなかに期待した答えを見つけられず失望したという(中野光『大正自由教育の研究』)。

詳しい説明がなかったので、自分なりに解釈してみると次のようになる。「自分が何者であるか」という問いに対して「日本人である」という答えを引き出し、そこから「じゃあ、日本人というのは何者か」という問いが生じた、ということだと思う。しかし、この問いには別にいくらでも答えがある。「自分個人」、「人間」、「男」、「若者」、「学生」、「動物」、「有機体」、「本好き」、「○○県民」、「教育者の息子」などと挙げていけば切りがない。それなのに「日本人」という答えを大した根拠もなしに受け入れてしまった反省が込められているようだ。

この「自分は何者か」という問いは、いわゆるアイデンティティの問題である。なぜそんなことが問題になるかというと、アイデンティティが決まらないと自分のやるべきことが決まらないから、というの今日の心理学の理論らしい。つまり、理論的にはアイデンティティは価値選好や利害の選択に先行する。自分が何かを好き(嫌い)であったり重要だと思ったりすることが、自分が何者であるかを決定するんでない。逆に、自分が何者であるかが自分の好みや利害を決める。

しかし、アイデンティティに悩む人の時間からいえば、「自分は何者か」の問いには「自分は何をすべきか」とか「いかに生きるべきか」という問いが先行する。まさに明治末期の煩悶青年たちを悩ませた問いだ。この問いに答えるためにアイデンティティの問題に遡行していったのである。

なぜ柳田に失望したのかについても説明がなかったのであるが、想像するに、柳田を読めば日本人が何であるかわかり、そこから何か行動の指針となるものが得られるという期待が充たされなかったということではないだろうか。つまり、いくら柳田を読んでも「日本人として生まれたからには、...」に続く文章が思い浮かばんのである。

自分は「日本人のエートス」を探すために柳田を読んだことはない。だが、この教育学者の正直な失望には共感した。柳田を読んで日本人の何たるかが分かったような顔をするのにはちょっと違和感を感じていたからだ。ましてや、柳田の文章から自分の人生における行動指針などそう簡単に引き出せそうもない。

煩悶青年たちの日本

この教育学者の例は戦後であるが、戦前にも多くの煩悶青年たちが柳田の下に集った。(戦前の煩悶青年たちについては以下リンク参照)

転向組の若者にもマルクス主義に代わる、もしくはそれを補完するものを求めて、柳田の門を叩いた者がいた。柳田もこれを温かく迎えた。それはそれでよろしかったのだが、そのせいで柳田の読まれ方にはある種の偏りが生じたように思える。

柳田の学風自体は、西洋起源の人間科学の系譜に連なるもので、特に英国の人類学の影響が強い。「民族」という言葉も使っているが、究極の目的としては「人間」というものを明らかにするための手段としての民族研究であり、日本人だけが特殊であるという主張に対する抵抗でもあった。

日本人は西洋人の考えた「人間」とは違うけれども、やはり人間であり、日本の経験はヨーロッパ中心主義の人間科学をより普遍的な科学にするための有力な事例であるという考えが柳田にはあった。決して日本の田舎の生活の解明だけを目的としていたわけでない。これがアイデンティティや実存の問題を民族性に寄りかかる形で解決しようとする煩悶青年たちにも、民俗学を社会科学の一専門分野としてしかみない職業民俗学者にも充分に理解されなかった点ではないかと思う。「柳田に弟子なし」という言葉は、このような意味では正しいと思う。

柳田とロマン主義

しかし、このような読まれ方をしたのには、柳田の書く文章に煩悶青年たちが共感できる点が多々あったためでもある。それは柳田自身が煩悶と無縁ではなかったからだ。

明治8年生まれの柳田は、明治30年に一高を卒業している。一高の校友会雑誌に天下国家論ではなく人生論の論文が多くなるのはその1,2年後であるから、ちょうど過渡期にあたっている。一高生、大学生の時に田山花袋、国木田独歩、島崎藤村、川上眉山らの文学青年たちと交わり、一時期はかなり煩悶した形跡がある。一時は本郷教会にも通って、キリスト教入信も考えたらしい。当時は「恋の詩人」として知られた松岡国男の詩作には、死に共感するロマン主義の影響が濃厚に感じられる。

だが、明治33年には無事に帝大法科を卒業し、学位を持つ高級官僚の第一世代として農商務省に入省、大審院判事柳田直平の家に婿養子となる。煩悶の大流行の前に、立身出世コースにうまく滑り込んだと言えそうである。しかし、官僚の仕事に満足できなかったらしく、農政官僚として働くかたわら民俗研究にも手を着けている。だが、タテマエとしては「趣味」にとどまり、社会科学というよりは文学愛好家や好事家としての関心の方が強い。そこに近代社会に背を向け「美しい過去」や「エキゾチックな他者」「異形の漂泊民」などにはけ口を求めるロマン主義の残滓を見つけることは難しくない。旅行観にも、文明の利器や快適さから遠ざかる旅こそが真正の旅であるというロマン主義的見方が認められる。

つまり、立身出世を選ぶことができた柳田であるが、結局立身出世しきれなかったというか、立身出世に飽き足らなかった。天下国家を語る国士的な雰囲気が残る中で育ち、またまだイギリス学がドイツ学に取って代わられない時代に教育を受けた柳田には反権威主義的なところがある。柳田をモデルとする人物が登場する田山花袋の小説などを読むと、役所の仕事にはすぐに失望してしまったようだ。最後は貴族院書記官長という一種の名誉職で終り、貴族院議長の徳川家達と仲たがいして詰め腹を切らされている。煩悶とまでは言えないが、自分のやるべき仕事は役人生活とは別のところにあると感じたとしても不思議ではない。そこで学問というものが浮上してきた。既に役人時代から郷土研究に携わっていたが、役所を辞めると本格的に民俗学の創設に奔走し始める。

柳田自身は自分のロマン主義的傾向に自覚的であり、後には意図的にそれを抑制しようとした形跡が見られる。どうも若気の至りで、恥ずかしい過去であると思っているような様子である。しかしながら民俗学者でない一般読者にとってもっとも印象に残るのは、むしろ抑制されたロマン主義がちらりと垣間見えるような文章である。国語の教科書などにも採用されている「清光館哀史」などがその例だ。

一見実証主義的な論述にも、「素朴な農民」「文明によって汚されていない無垢な魂」「堕落していない田舎の生活」などという反近代的なロマン主義お気に入り表象が背後に控えてもいる。そもそも文字のない文化を対象とする民俗学や人類学自体がロマン主義の強い影響下で発生した学問だ。そこだけ拾い読みすれば、柳田はロマン主義者のナショナリストであるという結論が出て来なくもない。「いかに生きるべきか」という問いに、「西洋の文物にかぶれる前の昔の日本人のように生きろ」とか「日本固有の文化を大事しろ」なんて教訓を引き出した人もいるかもしれない。ここらへんが立身出世に反撥した煩悶青年たちが柳田に魅力を感じた点ではないかと思う。

流産した柳田民俗学?

しかし、柳田の学問をロマン主義に解消してしまうことはできない。彼は反動の19世紀のロマン主義も引き継いだが、啓蒙の18世紀の合理主義の後継者でもあるし、またドイツ歴史学派の影響も受けている。意識的に追求したのは英国風の帰納法による経験科学であったし、また人が人を知るための再帰的な人間科学という視点も持っていた。

この民俗学を梃子にして、日本人を世界史をつくる能動的主体たらしめるという構想が1920年代にはあった。朝日新聞時代の柳田は、吉野作造や長谷川如是閑ら大正デモクラットからそう遠くないところにいた。今風に言えば、グローバル教育という側面を当初の民俗学構想は持っていたのだ。そこには明らかに今日の民俗学とはちがう民俗学があった。ロマン主義もまた重要な役割を果たしたが、無媒介の形ではない。

ちなみに、文学においても、柳田はロマン主義への反動としてあらわれた自然主義に共感している。このロマン主義と自然主義との関係は一筋繩ではいかんものであるし、柳田の自然主義文学に対する態度も両義的であるのだが、ロマン主義を経た現実主義というものが柳田の文学観にも民俗学にも見られる。それは歴史主義と自然主義の混在という形でも柳田の思想に影を落としている。

残念ながら、1930年代の国際主義、平和主義の衰退と軍国主義の台頭を受けて、柳田はこの初期の構想を後退させていく。人が人を知るための学問であるという認識は戦後まで棄てなかったようであるが、ある意味では、柳田民俗学構想は大正デモクラシーの試みとともに流産したとも言えるのではないかと、自分などは思っている。

柳田自身が人間学としての民俗学についてあまり発言しなくなったため、その後の民俗学は民族固有の文化の故郷としての農村生活の研究という狭い縄張りに閉じ籠るようになった。柳田の文章もまた、過去に遡ってもっぱらそのように読まれるようになる。まだ調べてないが、戦後に柳田ブームが起こり、新左翼の若者などに支持された柳田も、やはりそのような読まれ方の延長線上にあるように見える。

近年柳田が以前ほど読まれなくなったのも、この偏った読まれ方と無関係ではなさそうだ。英語圏では一部の日本研究者によって、柳田は文化を実体と見るナショナリストであるという批判がなされ、それが定説となってしまった。日本でもナショナリズム批判や知識人と植民地主義の関係批判の立場から柳田の限界を指摘する声が上がった。そのため、多くの者が、柳田を読む前にすでに時代遅れという烙印を押してしまっている。自分に言わせれば、そうした批判は従来の柳田の読まれ方に対する批判としては有効であるが、柳田自身の思想をとらえきれていない。

既に語られ尽くしたかに見える柳田には、まだ十分に認識されていない現代的意義が残っていると、自分は今でも思っている。そして、それは『遠野物語』(1910)でもなく、『先祖の話』(1945)でもなく、『青年と学問』(1928)あたりにあるように感じている。

柳田学の対象は柳田だけではなく、柳田を読むわれわれ自身でもある。

(画像は官僚時代の柳田。和服ではなく洋装である。遠野市立博物館所蔵。産経新聞「【明治の50冊】(8)柳田国男「遠野物語」 日本人の死生観「心の復興」」https://www.sankei.com/life/news/180305/lif1803050009-n1.html から拝借させてもらった。)

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