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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (87) 漱石先生を見舞う

「先生の手紙と「銀の匙」の前後」によると、病気の中先生にとって明治42年の中家の状況は思わしくなく、このまま中家で寝ていたのではとうてい恢復に向うのはむずかしいと末子さんが判断したということです。そこで末子さんは中先生に手紙をもたせて小田原の野村家の別荘黄夢庵に行かせました。野村子爵は亡くなっていましたが、末子さんの母が健在で黄夢庵で中先生を待っていました。末子さんの母は花子さんという人で、嘉永元年(1848年)10月のお生れです。末子さんの妹の初子さんも子供といっしょに滞在していました。「私は幾月か言葉に盡せぬほどの世話になつた」と中先生は書いています。中先生の兄が社会生活のできない状態になってしまった以上、中家を支えるには中先生に頼るほかはなく、末子さんも中家を離れて実家にもどるなどということは考えられませんし、中先生と末子さんが力を合せて生きていく道を開いていくしか仕方がありません。末子さんの母にしてみれば末子さんの行く末が案じられますし、中先生だけが頼みの綱だったことと思います。

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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。

●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…

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