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構造論と象徴論で読む「宝石の国」

 99話無料期間ということで、前からやってみたかった考察というか私の読み方紹介みたいなものをやってみます。当たり前だけどネタバレばっかりなので、未読の人は今すぐ本屋にGOだ。ついでに短編集「虫と歌」「25時のバカンス」画集「愛の仮晶」もBUYだ。
https://comic-days.com/episode/13932016480029605220


金剛の罪



 まずは金剛からいきましょうか。「宝石の国」で私が2番目に好きなキャラクターです。初めは人格者だと思われていたのに、あとあと人間臭さがバレるところがいいですね。

はじまり

 金剛はアユム博士によって、「次の世界への橋渡し役」として造られました。旧世代の生物である、「人間」を消滅させて、次代の生物の出現を見守る役割です。しかし、その大事な役目のための「月人の分解」機能が途中で壊れてしまう。レッドダイヤモンドをはじめとした宝石たちに愛着を持ってしまった金剛は、祈ることができなくなります。
 するとどうなるか。金剛の存在意義が消失してしまいます。大好きな博士にもらった仕事、自らの唯一の存在理由を失ってしまうのですね。金剛は目的を持って造られた「機械」ですから、それを全うできなければ粗大ゴミなのです。のび太くんの世話をしないドラえもんみたいなものです。

 生きる意味を失った金剛。こうなってしまうと、金剛は自壊するしかありません。何のためにお前いんの?という話です。しかし、金剛は自壊することができません。

 金剛は、生きていくために、新たに自分の存在理由を作る必要に迫られます。

 つまり、自分が生きていていい理由としての「仕事」です。

 これが彼の言う「罪」ですね。宝石たちの保護と指導という仕事の動機に、「自分のため」という感情がある点です。私は別にそれが悪いことだとは思いませんが、彼は思い悩み、フォスの離反の際には自身の行いを「到底許されない」と言いました。

宝石と金剛

 金剛は宝石たちを導くにあたり、彼らの「仕事」にこだわります。仕事もなく無為にのうのうと生きることは、機械である金剛にとってありえない事なのですね。ですが、金剛は「仕事から解放されたかった」とも言っています。

「仕事をしなければいけない」というのは金剛が機械(被造物)であるがゆえのロジック、人間(博士)に与えられた論理であって、彼自身は仕事を果たせない自分に、そして仕事を果たせないまま生きる自分を責めることに疲れていたのではないでしょうか。すべてを放棄して自壊したいが、それはできない。「本来の仕事を全うできない自分は死ぬべきである」という自責の念を、金剛はずっと抱えて生きてきたことがわかります。

 しかし同時に、金剛は宝石たちに「自由」を与えていました。エクメアは「宝石に人間に近い存在でいて欲しいのかもしれない」と言っていますが、実際のところはどうでしょうか。その場合、博士曰く「次世代の生命体」であるはずの無機生物の宝石に、前世代の生命体である人間と同じ見た目を施すのは理屈が合いません。
 金剛は、なぜ、博士の命令にそぐわないような見た目の加工を行ったのか。

 金剛は、心の奥底で「仕事から解放されたい」と思っていた。自覚したのがいつなのかは分かりませんが、エクメアとの会話から見るに割と昔の事のようです。そして、その望みの一端を宝石に託したのではないでしょうか。
 彼らには自由でいて欲しい。悩み続ける自分の代わりに、自由でいて欲しい。自分と宝石たちを同一視しようとしたのですね。
 宝石を人間と同じにしようとしたのではなく、自分に似せたのではないでしょうか。

 もっとも、これは順番が逆の可能性があります。最初にレッドダイヤモンドが産まれたとき、間違いなく彼は自分のためではなく、レッドダイヤモンドに文化的な生活を与えるために彼を加工したはずです。しかし、いずれかの時点で、(宝石たちに「自由」を与えると決めたときかも知れません)金剛は間違いなく「かつてなく自分に近しい存在である」宝石たちに自分を重ねたはずです。
 宝石たちへの執着により、金剛の本来の仕事である「祈り」による三族の消滅を果たせなくなった金剛は、矛盾を抱えたまま、宝石たちと生き続けます。

 金剛は「今の状況は自分が招いた」と言っていますが、自己矛盾を抱えたままそれを解決できない自分のことを「罪」だと感じているのですね。今さら宝石たちの指導を放棄することもできません。そして話は1話に繋がります。

天国と地獄

 月人の姿は仏像や天女、蓮や後光など、明らかに「天国」「極楽」の象徴として描かれています。

 しかし、エクメアの本名エンマ、月人たちの出自や目的が明かされたことで、月は本当は天国ではなく「地獄」であると判明します。しかし、宝石たちや私たちから見ればきらびやかで快適な生活も送っている。ここでは天国と地獄をまとめて「あの世」としましょう。

 宝石たちは、死にません。半永久的に生きます。しかし、月人にさらわれます。宝石にとっての「死」とは、「月へ行くこと」なのですね。「地上」が「現世」で「月」が「あの世」です。


 
ここで、私たちの世界の話をしましょう。
 昔の人たちは、「人は死んだらどこへ行くのか」「生命はどこからやってくるのか」と考えました。
 そして思いついたのが、「『あの世』というものがあって、魂をそこに送ったりそこからもらったりしている」という考え方です。
 死んだら魂はあの世へ行く。だからお葬式をして丁寧に送り出す。犯罪者の魂は、清めて「来世は良いやつに生まれ変われよ」と言ったり、そもそも送り出さずに封印したりする。一部のアイヌは犯罪者の死体を埋葬するときに棺桶をぐるぐるに縛り付けたりしますが、これは魂を輪廻から疎外して封印するための措置だと考えられています。
 赤ん坊の魂はあの世から送られてくる。生命は全て誰かの生まれ変わりなわけですね。これを仏教では、「輪廻転生」と呼びます。

 この図式を「宝石の国」に当てはめてみましょう。
 宝石は死んだら月へ行きます。そこで月人を飾る装飾品にされる。実際は月に敷きつめられているわけですが、まぁ似たようなもんです。
 宝石は生まれるとき、浜でイビツな形で生まれます。月から魂をもらっているわけではありません。ここは非常に重要なポイントです。作者が輪廻転生を意識していないはずはありません。何か大切な意味があるはずです。

 魂の代わりに何か、月からもらっているものがあるはず……と考えてみても、思いつきません。矢じりとなった宝石(実際は合成宝石)、または金剛を刺激するために、パズルや犬や博士の幻影が送られてはきますが、どうもそれらではなさそうです。何か、ないか。何か。
 

 ありません。ないのです。宝石は、構造的に不完全な生命なのです。考えてみれば、宝石は人間が3種に分かたれたうちのひとつ、「骨」です。言ってしまえば、前時代の遺物に過ぎません。死なず、魂を受け取らない、不完全の生命体が「宝石」です。これは月人も同じです。彼らも死ぬことができませんし、新しく生まれることはありません。実は、宝石たちは博士の言う「次世代の生命体」ではないのです。
 博士の言葉を借りれば、「橋」です。次世代への繋ぎ。人間の元・一部であり、金剛が壊すべきもの。月人と宝石を含む生命体。
 魂のサイクル、輪廻から外れている宝石は過渡期の生命に過ぎず、いずれ役目を終える存在なのです。

 そう考えてみると、金剛が宝石たちの見た目を人間らしく加工したことにもまた納得がいきます。彼らは「次世代の生命体」ではなく、あくまでも「人間の遺物」であるからです。
 金剛の項で、彼は宝石と自分を同一視しようとしていたのではないかと述べました。しかし、そんな気持ちがもし金剛にあったとしても、それは副次的な理由に過ぎません。金剛が宝石たちを保護し、教育し始めたのは、あくまでも彼らが「橋」であるからです。何十万年も過ぎたいずれ、彼らが「無」へ至ることを望んだとき、金剛は人間の遺物である彼らに祈りを与えるつもりだったでしょう。
 しかし、金剛はいずれ燃やすべき「橋」である宝石たちに過度に感情移入してしまい、「祈り」を果たせなくなってしまった。未だ消滅を望んでいない宝石たちをも巻き込んでしまう、出力の制御できなくなった「祈り」を、金剛は拒みます。金剛は先ほども述べた同一視、「自らの存在理由」となった宝石たちを、大事にしすぎたのですね。その結果金剛は月人たちと敵対し、月人と宝石が戦争を続ける矛盾した状況を作り上げてしまいます。

 そして金剛の目を得たフォスが博士との記憶を追体験するこのシーンは、宝石である(だった)フォスフォフィライトが「自分たちは過渡生命である」ということを知るシーンであり、博士に「お前たち宝石は次世代のために滅びるべき生命なのだ」と告げられるという、非常にグロテスクなシーンでもあるわけです。

 そう考えてみると、重要な人物が浮かび上がってきます。

パパラチア

 パパラチアは死と復活を繰り返します。こんな宝石は他にいません。

 死んでから再生した宝石はいないのですね。パパラチアは宝石の中でも恐ろしく特別な存在です。だから何でも知っている。強く、賢く、間違えません。
 しかし、彼は月に行ってから月人に穴をふさがれ、「死」を失います。それは「特別性」の喪失に他なりません。彼は凡庸な宝石の一人に成り下がります。
 最後、彼はルチルに胸のコランダムを渡して再び「死」にますが、ルチルはその穴をふさごうとしません。完全に生き返ったパパラチアは特別な存在ではないからです。自分の手によって蘇ったのではないパパラチアを受け容れられなかった、という別の理由もありますが、それはまた別の話になります。

アドミラビリス

 もう1つ重要なのが、「肉」ことアドミラビリスです。彼らは宝石や月と違い、生まれ、死にます。

 だから、彼らには輪廻転生があります。
 ものすごくわかりやすいのでいうと、ウェントリコススの二代前の王はウェントリコススにそっくりです。霊魂の輪廻が見た目で端的に表現されているのではないでしょうか(単に王族の親戚だからそっくりというだけかもしれませんが)。

 しかし、彼等は作中で「魂」を失います。食糧が不足し、知性が後退したからです。
 人を人たらしめる「魂」とは、現代的な価値観で言えば「理性」です。知能が後退し、共食いまで犯した彼らは、もはや人間とは認められません。月人の家畜やペットとなり、宝石復活のために殺される……死を待たれる存在となります。魂を失い、理性を失い、人権を失い、宝石以下、月人以下の存在になるのです。

 この「宝石のために死を待たれる下位生命」というアドミラビリスの構造は、「次世代のための『橋』にすぎない宝石」という構図と重なります。アドミラビリスの絶滅を決断させられるフォスフォフィライトの姿は、後に「橋」を壊す役目を任される彼の伏線だったと言っていいでしょう。


 彼等は宝石を喰って殻を作ります。失った霊魂を取り戻そうとするかのように。

フォスフォフィライト

 話を戻します。月は「あの世」で地上は「現世」という話でした。

 主人公のフォスフォフィライトは、死んでは部品を補って生まれ変わり……つまり、復活を繰り返します。
 アパラチアの項で、「過去に死んで復活した宝石はいない」ということを確認しましたが、「死んで(破壊されて)からの復活」が細かく描かれるフォスフォフィライトの復活は、また違った特別な意味を持っています。

 1回目はアドミラビリスに喰われ。殻から破片となり再生します。そしてアドミラビリスに裏切られ、脚を失い、シンシャの前で気絶するフォスが描かれます。ここまでが一連の「死」ですね。そうやって読むと、海に入るために白粉を塗り直しているフォスの姿も何だか意味深に見えます。
 彼は博物誌制作の任を解かれます。金剛の項でも触れましたが、仕事=存在意義の消滅は、存在の死です。アゲートの脚を手に入れ、アメシスト×2の補佐を経て、流氷割りの仕事を割り当てられたフォス。仕事を得て、存在が復活します。

 2回目の復活は金の腕を手に入れた時ですね。

 

 初めて金の腕がくっついたとき、フォスフォフィライトの体を合金が包んでしまいます。
 つまり、卵の殻ですね。自然に考えて、そこからの「脱出」は再誕と生まれ変わりを象徴していると思われます。実際、アンタークチサイトが連れ去られたこの日を境に、フォスフォフィライトはどんどん不安定になっていきます。生まれ変わって、性格が変質したのです。
 戦闘力を手に入れ、彼は戦うことができるようになりました。同時に、先生である金剛を疑い、月人のことを調べるようになりました。戦闘、月人の調査、そして金剛の調査。新たな仕事の獲得です。

 3回目は、頭を持っていかれたとき。ラピスラズリの頭をくっつけられて、フォスフォフィライトは102年かけて復活します。

 もちろん、ここでも「新たな仕事の獲得」が描写されています。ラピスラズリの人格にそそのかされたフォスフォフィライトは、新しく「月へ行く」ことを考えはじめるようになりました。「目的」と言い換えても構いません。

 ここまでくれば、もう気づいた方もいると思います。死んで復活する、といえば、イエス・キリストです。実は、フォスフォフィライトは、みんなに認めてもらうために、シンシャの居場所を見つけるために、知らず知らずのうちに救世主としての道を歩んでいたのです。


 4回目は220年後の冬。

 救世主としての仕事に万策尽き、疲れ果てたフォスフォフィライトは、金剛に祈ってくださいと懇願します。
 ここでようやく金剛は祈りを試みます。「仕事」に疲れ果てたフォスに、自分自身を重ねたからです。

「祈れ」「機械」「僕のために」

 
しかし、祈りは成功することなく、他の宝石の妨害によって終わります。
 エクメアは、「金剛はフォスフォフィライトを人間の代替として認めた」と言いました。ユークレースの「あなたはフォスに逆らえないのね?」という問いにも、金剛は「すまない」と頷きます。
 しかし、厳密には、まだフォスフォフィライトは「人間」ではありません。金剛が祈ってみせたのは、フォスフォフィライトという人間に命令されたからではなく、あくまでフォスフォフィライトという個人のためであり、彼に自分の姿を重ねたからだと思われます。
 敢えてもう1つ理由を挙げるとすれば、彼の言葉を聞き、「おまえさえいなければ」と睨みつけられ、己の罪に向き合ったから、と言えるでしょう。祈り、全ての宝石を消滅させることは、築き上げてきた己の罪の精算であり、博士に課された本来の役目「橋を壊すこと」でもあります。

 次の復活は、シンシャとの戦いの後です。

 フォスフォフィライトの体内のインクルージョンがシンシャの水銀と適合し、彼はボロボロでバラバラの状態から、心身ともに「人間」として復活を遂げます。


 不完全な生命である宝石は、何回もの生まれ変わりを繰り返して人間へと成りました。次は、何でしょうか。

 神、……と言いたいところですが、少し段階を踏んで、「金剛」ですね。金剛の眼球を埋め込んだフォスフォフィライトは、一万年の永い引き継ぎ期間に入ります。

 エクメアのこんなセリフがあります。

宝石<人間<金剛<神
 という不等式が成り立ちそうです。

 一方、月では宝石たちと金剛が月人になっていました。
 先ほどの式に月人を加えると、
宝石<月人<人間<金剛<神
 となります。ちなみにアドミラビリスを加えるなら、前述の通り宝石の下です。なので、アドミラビリスは一段階上の宝石に近づこうとして彼等を捕食し、二段階上の月人にすがります。

 フォスフォフィライトの復活と生まれ変わりを、振り返って見てみましょう。

①仕事のない、「何者でもない」フォスフォフィライト→
②アドミラビリスに喰われ、「アドミラビリス」に→
③流氷割りの仕事を得て、「宝石」に→
④月に行き、地上の宝石と敵対し、「月人」に→
⑤復讐心を得て、「人間」に→
⑥金剛の眼球を得て、「金剛」に→

 上記の不等式のとおりになっていることがおわかりいただけるかと思います。


 そして、フォスフォフィライトの長い長い一万年が始まります。

新しい生命体

 神になったフォスフォフィライトの祈りにより、月人、元宝石、ついでにアドミラビリス(月人化したウェントリコスス、ウェントリコススの弟、もしくはその子孫だと思われます)が消滅し、彼らは安寧の世界に旅立ちます。仏教でいう涅槃、「無」です。
 涅槃とは死と生のサイクルから脱却した(解脱した)状態の事ですが、もともと不完全な生命体である宝石と月人のあいだで生死の輪廻のサイクルは破綻していますから、そこまでの意味はありません。

 金剛が博士に命令された仕事、新しい生命体への架け橋を壊すこと。すなわち、元人間たちの消滅が、金剛の仕事を受け継いだフォスによって完了しました。

 ここから先で描かれるのは、橋の向こう、新生命体のお話です。九十九話のタイトル「始まり」ですね。

 まず最初にフォスが見つけたのは、ひとつの石でした。
 金剛のやり方しか知らないフォスは、彼(?)を動けるように加工してあげようとしますが、彼によって拒否されます。フォスもそれならまぁいいか、と思うだけです。彼らは宝石と違い「人間の遺物」ではありませんから、人間のような手足は必要ないのです。
 金剛は「自らの存在意義」のために宝石の指導をしていましたが、もう仕事を終えたフォスはそうではないので、別にモチベーションとかあんまりないのです。燃え尽き症候群のフォスですが、それだけに穏やかな時間が過ぎていきます。


 やがて、石はひとつの歌を作りました。フォスは一緒になって歌います。
 そして、石とフォスは踊る「たすたす」に出会いました。
 石とフォスが彼を追いかけていった先には、詩をつくるもうひとりの石がいます。

 アドミラビリスの項で、人を人たらしめる「魂」とは「理性」であると言いました。人とそれ以外を区別する大事なものが、もう二つあります。「言語」と「文化」です。
 まぎれもない「テクスト(言語)」を持ち、「文化」を刻む彼らは、人間に代わる次代の新生命体と考えられます。

 ここで重要なことは、繰り返しになりますが、彼らの姿が人間からはかけ離れているという点です。かつて「人間」だったもの、つまり宝石と月人とアドミラビリスは人間のような見た目をしていますが、次代の新生命体である彼らの外見はほとんど石ころです。さらに言うなら、金剛が宝石たちを加工した意味、そして理性を失ったアドミラビリスが人間態に変身できなくなるという点は、この作品における「人間とは何か」を考える点でも重要な意味を持っているといえるでしょう。

「歌」「踊り」「詩」を創作する、新たな生命の誕生と、それを見守るフォスフォフィライトがいます。


 ところで、人はなぜ歌を歌うのでしょうか。
 人はなぜ踊るのでしょうか。
 人はなぜ詩を詠むのでしょうか。

 ものを食べるのはエネルギーを摂取するためです。寝るのは体を休めるためです。しかし、歌と踊りと詩にはそれをしなければならない理由がありません。しかし人びとは歌も踊りも詩作もやめられません。
 昔の人びとはこれらの行為に、何とか合理的な理由づけや動機の説明をしようとして、それらを祈りに使うということを思いつきました。「これらの行為は神様への祈りのためにあるものなのだ」と解釈したのです。
 現代でもお祭りの場では、必ず歌があり、踊りがあり、詩があります。もともと、それらは神様に捧げるものだったからです。


「歌」「踊り」「詩」は、「祈り」なのですね。


 百話は、ようやく安寧と祈りを得たフォスフォフィライトの眠る姿で終わります。

出典:市川春子「宝石の国」講談社

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