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〝ケビン・カーターは死なない〟/「ハゲワシと少女」の真実

◾️Shiro Otsu/アフリカ紛争ジャーナリスト
〈何故書くのか、書けるのか〉
わたしは何十年アフリカ武力紛争を追いかけ、取材してきたフリージャーナリスト(映像)です、今の日本社会では吹けば飛ぶような存在です。
ソマリア/スーダン/ルワンダ/コンゴ/アンゴラ/ウガンダ/ブルンディ/チャドそして中東のイラク、、、
何故アフリカ紛争を取材してきたのか。
そこに人間と時代、そして世界のほとんどの問題と困難が凝縮されていると直感したからです。当然ですがそれは日本の主要メディアとは相入れません。
①〝ハゲワシと少女〟、何故書けるのか/
ケビン・カーターが取材してから半年余後の1993年10月、わたしは彼がが訪ね、写真を撮ったのと同じ村、南部スーダンAyod アヨドを二度取材した。あの時、〝シャッターを押してる時間があったら何故少女を助けなかったのか〟という世界中からの非難について、わたしは同じ現場体験、周囲の状況から、少女はハゲワシに食われることはないし、また、死ぬことはないことを確信を持って言えます。
②何故今書くのか/
非難、批判のほとんどは、シャッターを押してる時間があったら、何故目の前の少女を助けなかった⁈という一点に集中している。
それは裏を返せば、一人の見知らぬ少女への強烈な〝関心〟の表明である。できたら自分が助けたいという願望ですらある。
非難、批判という形をとりながらも、人の人に対する関心の表れである。関心、それは人間の絆の不可欠の土台である。90年代、まちがいなくそれは存在した。しかし、グローバリゼーションによる格差の進行、さらにコロナによる人間の分断、孤立が加速する今、それは失われつつある。勝者だけがものを言い、声の大きい者が勝つ時代、ケビン・カーターが命を賭して撮った一枚の写真が今問いつめるものとはなんなのか。

◾️アフリカのすべてが
1993年3月、わたしは91年4月、ナミビアでのテレビ番組ロケ中車の転倒事故で亡くなったk先輩の追悼のため、ご家族とともにナミビアに向かっていた。途中、乗り継ぎのためヨハネスブルク(南ア)の飛行場の待合室にいた。何気なくソファーの傍のテーブルの上に置いてあった新聞を手にした
今でこそ、世界中に衝撃を与えた一枚の写真を撮った男がさまざまな批判を浴びやがて自ら命を絶ったということは十分に頭の中にすり込まれているが、しかし、それは事後の話しだ。
タブロイド判一面に載った一枚の写真を目にした時、興奮とも感動ともつかないなんとも言えない感情が突き上げてきた、そこにわたしが探し求めていたアフリカがあった。
飢餓と内戦、アフリカの大地を跋扈するタフなゲリラたち、それらすべてを表現するにはどうしたらいいのか、一枚の写真で、あるいは一本のドキュメンタリーで、目の前にその答えがあった。それは今でいうネガティブ・ポジティブ の議論を超えてアフリカの説明に対し圧倒的説得力を放っていた。

〈I HAVE SEEN HADES/私は地獄を見た〉
タブロイド判の新聞の一面トップに打たれた文字の下の写真から発せられる〝アフリカ〟にわたしは衝撃を受けた
写真の左には一羽のハゲワシが佇み数メートル先の地面には一人の少女が蹲っていた。
紙面の上の片隅にWeekly Mail/3.26/1993と打たれていた。
直前の同年1月、わたしは8mmビデオカメラを手に内戦後のソマリアにいた、首都モガディシュの街にはアメリカ軍の装甲車、欧米のメディア、NGOがせわしげに行き交っていた、救援センターには痩せ細ったたくさんの子どもたちが集まっていた。それまですでにアフリカ体験は旅、サハラ干ばつ救援活動、青年海外協力隊(タンザニア派遣)、テレビ番組の現地コーディネーターの仕事を中心に20年をこえていた、だが、カメラを手にジャーナリストととしてアフリカ、しかも紛争地を訪れるのははじめてだった。前年の母の死が何かそうしたきっかけ、力を与えてくれたのかもしれない…
今でこそ、時折マスコミ的に〝戦場ジャーナリスト〟という表現が使われるが、当時そうした言葉、ジャンルは少なくとも日本では一般的ではなかった。
◾️難民キャンプ
モガディシュ(ソマリア)からケニアに戻ったわたしは、すぐにケニア北部に点在する難民キャンプを訪ねた。スーダン国境(現南スーダン共和国)にあるカクマ難民キャンプは16000人の子どもたちだけ暮らす特別の場所だった。ほとんどがスーダン内戦を逃がれてきた子どもたちだ。カクマの後さらにわたしはケニア北部エチオピア国境沿いにあるワルダ難民キャンプを訪ねた。ワルダにはスーダン難民以外にもソマリア、エチオピア、さらにコンゴからの難民たちが少数だが暮らしていた。
二つのキャンプでわたしはスーダン難民を中心にインタビューを重ねた。
彼らの話しはどれも衝撃的で、わたしのスーダン内戦取材への思いをさらに強めた。カクマで会った3人の少年、ピーター、ドゥルバック、そしてベンジャミン、わたしの〝今、何を一番したいですか〟という問いかけに、〝I kill Arabsアラブ人を殺す〟と答えたベンジャミンの子どもながらの刺すように鋭い眼差しにわたしは圧倒された。ワルダのスーダン難民、ジョン・ジョクの話しは衝撃的だった、自然とカメラを持つわたしの周りに集まってきたスーダン難民たちの中から、自ら進み出て熱くスーダンの現状について話し始めた男がいた、男の片目は失われていた、サングラス越しに垣間見える片方の目は動かなかった、それがジョン・ジョクだった、男は逃げてきた故郷南部スーダン、アパーナイル州の惨状について話した。
〝多くの人間が家を焼かれ、殺され、追われた〟〝南部スーダンは地獄だ〟今でもこの言葉が耳の奥底に残っている。
ワルダからナイロビに戻ったわたしはSPLA(スーダン人民解放軍)のナイロビ事務所を訪ね南部スーダン潜入取材について相談した、いつでも歓迎するという返事をもらい、帰国した。南部スーダンへの道が少しだけ開けたような気がした。 
そしてソマリア、ケニア取材から帰って2か月後93年3月、わたしはナミビアへのK先輩追悼旅行の途中乗り継ぎで立ち寄った南アヨハネスブルクの飛行場でWeekly Mailの3月26日発行の新聞、「I HAVE SEEN HADES わたしは地獄を見た」(後に〝ハゲワシと少女〟と呼ばれるようになる)に出会った。
◾️誰もが世界に関心があった頃
南部スーダンやソマリアのもっと以前、80年代半ば、世界はエチオピアの飢餓、死んでゆく被災民たちについて報じた。今では考えられないが、有名タレントのマラソン耐久イベントで人気を博し多くの寄付を集めている日テレ〝24時間テレビ〟も、当時は割と地道に、世界の貧困問題、障害者問題に取り組んでいた、そうした一環でエチオピアの未曾有の飢餓に対しても自ら現地に救援キャンプを作りそこに医師、看護師を日本から送っていた、わたしはコーディネーターとして彼らの活動を中心にエチオピアの飢餓の現状をレポートする番組作りに参加していた。当時、エチオピアに限らずアフリカ全体の特に子どもたちの飢餓、栄養失調についての世界的関心は決して低くなかった。いつもどこからともなく曲が流れ、聞こえてきていた。「we are the World」
ボクたちは世界、ボクたちは世界の子ども…、マイケル・ジャクソンをはじめとした世界の超一流アーティストが心をこめて歌う世界へのメッセージは熱く、素直に受け入れられ人々の心を揺さぶった。
たぶんボクらもそうしたどこか熱い雰囲気の中でエチオピアに向かい、レポートの仕事をしていたように思う。
エチオピアの時はまだ東西冷戦のただ中だった分、メディア、NGOの現地活動はどこか抑制的で遠慮がちだった、しかしそうした態度、姿勢は冷戦終結直後に起きたソマリア危機で一変、激変した。
東西冷戦下、現場取材への規制が強かった分、強力な中央政府の崩壊したソマリアへ、欧米メディアを中心に世界中からメディアが殺到した、CNNが世界中にその力を見せつけた、NGOも負けていなかった、自分たちの存在感を見せる最高のチャンスとばかり〝飢餓に苦しむ〟ソマリアに殺到した、〝Save Somalia 〟という言葉と文字が飛び交った。こうした状況を専門家は多少の皮肉を交えて〝Humanitarianism Unbound解放された人道主義〟と呼んだ。
識者、専門家がなんと呼ぼうが、それは世界の自分以外の人間(の困窮)に対する強い関心の表れだった

◾️憧れの南部スーダン
ソマリア、ケニア取材から帰ったわたしは、親しくしているプロダクションと南部スーダン取材の相談をした、社長のHはわたしの提案を心よく受け入れてくれた。さまざまな準備の後、パキスタン航空でバンコク、カラチ、そしてドバイ経由でケニアのナイロビに入った。ドバイは今とは違いまだまだローカルな雰囲気の残るこじんまりとした飛行場だったのが印象に残っている。
ナイロビには南部スーダン救援活動関係の代表機関/OLS(Operation Lifeline Sudan/スーダン生命線作戦)他、多くのNGOが集まっていた。その後何度もお世話になるナイロビのオークウッド・ホテルにチェックインした。『Bang Bang Club』(1990年代はじめ、南アヨハネスブルク郊外、Sowetoを中心にアフリカ人同士の戦いを取材し続けた4人のジャーナリスト仲間)によれば、南部スーダンを目指すケビンとジャオの二人は、中々下りない現地取材許可、消えて行く金に焦りを感じながら、気持ちを鎮めるためにオークウッドホテルのベランダでビールを飲みながらナイロビの街を眺めたという。
OLS(スーダン生命線作戦)は飢餓、医療、教育など南部スーダンの危機的状況を救うために作られた国連、NGOの複合救援組織だ。隣国ケニアから国境を越えて南部スーダン(スーダン共和国/当時は現在の南スーダン共和国が分離独立する前でスーダン共和国内の南部スーダンと呼んでいた)に入り救援活動を展開するという野心的、空前絶後の人道作戦だった。国連のWFP(世界食料機構)、UNICEF(国連児童基金)が主導するOLSの下には世界中から40前後のNGOが参加していた。
日本のUNICEF(国連)から紹介状をもらっていたわたしは、現地情報、フライトアレンジなどのため何度となくホテルとOLS本部を往復した。
ケビンとジャオの2人も何度となく往復したに違いない。
結局、南部スーダンのどの地域、どこの村に入るかはこのOLS、特にスーダン国境にある前線基地/ロキチョキオ・オフィスがアレンジするその日、あるいは直前のフライトによって決まると言っていい。ケビンが、戦闘と飢餓がもっとも激しい村Ayodアヨド(ハゲワシと少女が撮影された村)に飛べたのは最高?のラックluckだったかもしれない、しかし、その後起きた一連のこと(ピュリッア賞獲得から最後は自死を選択)を考える時、それは簡単に答えは出せない。
◾️my dangerous road
今回、南部スーダンのどこへ行くかについて、OLSのフライトアレンジに従うしかなかったが、一つだけ強い願望があった、それは陸路で南部スーダンに〝潜入〟することだった。ほとんどが空から現地に入るワケは、どこへ行くにもとにかく遠く道路もほとんど整備されてなく、雨季ともなればまったく使いものにならなず一度スタックしたり、川が増水すると1週間やそこらの野営はざらだと運転手は話していた、さらにゲリラの襲撃、地雷等々、とにかく陸路は危険でいつどこで何が起きるか分からない世界だ。救援食料を届けるという崇高な仕事にしては余りにも苛酷、そして給料も安く、途中で救援食料、物資を放置して逃げ出すドライバーも珍しくないという。
そんな陸路を使ってわたしは南部スーダンへの潜入を試みた。
ロキチョキオには、インターリアクという国連の救援物資運搬を請け負う輸送会社がありパキスタン人が経営、管理していた。
わたしは目的を説明してトラックを一台チャーターする交渉をした、初めは危険で難しいとか渋ってたが、金の交渉に入るや積極的になり、結局運転手、燃料他込みで1日350ドルで成立した、いざ出発の日になり、でかい交換用タイヤ、ジーゼル燃料満タンのドラム缶二本等などがフォークリフトで積まれていくのを目の当たりにすると、これからやろうとしていることが
紛争地取材である以上にアドベンチャーであることを実感した。
〝怖くはないのか?〟
百戦錬磨のパキスタン人がわたしに聞いた
いや、そうでもないけど、、、と答えたが内心不安は大きかった。途中襲撃もある政府軍系ゲリラ、さらに行く手をはばむ悪路、ディディンガ高地の山岳地帯、朝9時の出発予定が大幅に伸びて、結局ロキチョキオを発ったのは午後の3時をまわっていた、、、。
陸路での潜入をこれ以上書いていたらあっという間に紙数がいってしまい、ケビン・カーターの村/Ayod にたどり着けない、、、
2000m級の山道を越えたどり着いた最後の村には予想以上に厳しい光景が広がっていた。
ディディンガ山地の村への国連による食料輸送もその日が初めてだった。噂を聞きつけて集まったタポサ族の人びと、一塊りになってじっとトラックから食料が降ろされるのを待っている、食料袋が降ろされや、こぼれ落ちた食料(穀物)に殺到する子どもたち、抱えた瓢箪の容器に砂の混じった穀物を入れてゆく。
わずかに湧く水場には長い列ができひたすら自分の番を待っている、降り注ぐ灼熱の太陽、さらに朝晩の冷え込みは想像以上に厳しい。
村人に混じって他地域から逃がれてきた難民たちは、北のイスラム政府の空爆を恐れ、山ひだに張り付き隠れるようにして暮らしている。
2泊3日の難行を終え、わたしは無事ケニア、ロキチョキオのキャンプに帰った。
◾️奇跡のフライト
その後、はじめてフライトで入った村/ラフォンでの2日間の取材を終え、早朝6時半のフライトで7時半にロキ(ロキチョキオ)の飛行場に着くと、次の予定地Ayodに向かうセスナ・キャラバンのプロペラはすでに回転数をフルに上げ離陸寸前だった、友だちになっていたフライト担当でアメリカ人のサムが機転を利かせてわたしをうまく誘導し、かろうじてAyod行きの飛行機に乗れた。Ayod アヨドーーそこは、ケビン・カーターが〝ハゲワシと少女〟の写真を撮ったその村だ。
眼下にロキの国連基地を見て飛行機は高度を上げ北に機首を向けた。
ケビン・カーターがAyod の村に降り立ってから半年余のことだった。もし、わたしが仮に半年前に同じフライトに乗っていたらどんな景色が広がっていたのだろう、、、
時間が経つにつれ眼下の景色は茶色く渇いた大地の色から、次第に緑色に変わっていった、やがて機上から見えるすべてが緑一色に変わっていった、無限の草原が広がっていた。機がゆっくりと高度を下げ着陸体制に入った、眼下に迫る草原は風を受けてまるで海の波のようにうねり、揺れていた。
そこは牧畜民たちのkingdom王国だった。だが今そこは男たちの戦いの大地でもあった。
Wattoワットのairstrip(小さく簡易の飛行場)のまわりはすべて草だった、草しか見えなかった。数人のスーダン人を降ろし、直ぐに飛び立った後、機は最終目的地Ayodに向かった。距離にしても○○キロ足らず、あっという間だ。Wattoを飛び立つと眼下の景色にやや変化が見られた、Wattoの周辺を埋め尽くしていた草海原は消え、草原のあちこちにこんもりとした木々が見えて来た。次の瞬間、遠くにキラキラと光りを放つ1本の直線の〝川〟が視界に入って来た、それは川ではなかった、ナイル川周辺に広がる世界最大級の湿地帯Suddの水を引き込み灌漑するために掘られたJonglei運河だった。1978年にフランスが中心になって掘削が開始されたが、84年、南北内戦の激化とともに中止された、総延長360キロの内の240キロが掘削済みだった、今のところ掘削再開の話しは起きてない。
運河を越えると雲が湧く地平線の彼方に木々が繁る森が見えてきた。
と、思う間もなく機は下降を開始、森の中に真っ直ぐ伸びた薄赤茶色の滑走路目がけて着陸体制に入った、目の下に見えていた森の木々が近づきどんどん大きくなってゆく、次の瞬間ドンという衝撃とともにセスナは着陸した、Ayod に着いたのだ、南ア、ヨハネスブルクの飛行場であの写真を見てから半年余りが経っていた、わたしは来たのだ!
軽いエンジン音を響かせながら、セスナは滑走路をタクシーイング(taxing)していた、だが、思った以上に滑走路には砂が積もっていた、その中をよれながら進んでいた飛行機はついにコントロールを失って、砂山に突っ込むようにしてようやく止まった。
パイロットは、照れくさそうに笑顔でわたしの方を振り返った、〝Ok!安全確保の規則で、滞在時間はごく限られている〟〝○○時には離陸するからね!〟
いつ、北の政府軍の急襲、あるいは空爆があるか分からないのだ。
〝オッケー、グッド・ジョブ、キャプテン!
〟、同乗してきた救援センターで仕事をするNGO地球医師団(MDM)の2人の看護師も時間を惜しむようにして滑走路の近くにある救援センターに向かって走った。
わたしは直ぐに救援センターに行くことはできない、何故なら、あらためて取材の許可をもらわなければならないからだ、直ぐにRAAS(一帯を支配するSPLA統一派の人道活動部門)の担当者他数人の男たちが来た、わたしはナイロビの本部でもらったパーミッション(許可証)を見せた。救援センターの状況、とくに子どもたちの様子が気になったが、まずは司令部に行って司令官に会わなければならない。ケビン・カーターが来てから半年余経っているが、基本的にプロセスは変わってないはずだ。
(ただこの時、正直言ってケビン・カーターの足跡を追ってAyodに来たわけではない、自分のスーダン取材、レポートのことで頭は一杯だった)
◾️そして舞い降りた
内戦下、安全のため1、2時間という限られた時間しか与えられていなかったケビンとジャオの2人は直ぐに別々に分かれた、そんなに遠くにも行けない限られたエリアでの行動だった、2人は時折り会って情報交換をした。
救援センターには栄養失調からくる痩せて骨が浮き出た子どもたちが至るところにいた、みな戦争の犠牲者だった。
たしかに人間として見るに耐えない、モラルを刺激させずにはおかない惨状が目の前にあった、しかし、どれも彼らが求めていた、また契約元のメディア/The StarとThe NewsWeekが彼らに求めていた〝the strength of combat image(強い戦闘のイメージ)〟とは違っていた。
時間の経過とともに2人に焦りと失望感広がっていった。画(え)を求めて再び2人は分かれた。 以下『The Bang Bang Club』より
「ジャオと再会したケビンは興奮気味に、片方の手をジャオの肩にもう片方の手で自分の目を覆いながら、〝信じてもらえないと思うけどスゴいショット撮ったよ〟と言った。手で目を拭いていたけど涙はなかった、あたかも今撮った写真の記憶を打ち消すかのようなそれは仕草だった。
ジャオはこうした〝やったぞ〟的反応は好きではなかった、ケビンはさらに〝地面に膝をついてうずくまっている少女を撮っていたんだ、それから位置を変えると突然一羽のハゲワシが少女の真後ろに入ってきたんだ!〟
ケビンは興奮から早口だった。
〝それからシャッターを押し続けたんだ〟
ジャオがあたりを見ても何もなかった。
〝たくさん撮った後、ハゲワシを追い払ったよ!〟、ケビンは自分を失いかけたように早口でまくし立てた。首に巻いた緑のバンダナで涙を拭いながら〝ずっとMegan(ヨハネスブルクに残してきた娘)のことを考えていたんだ〟
そう言って無造作にタバコを取り出し火を付けた、〝早く彼女を子の腕で抱きたい〟
ジャオは大きなチャンスを逃したことを強く感じた。
  ーーーーーーーーーーーー
わたしはRASSのセキュリティオフィサー、兵士らに連れられて司令部に行った、司令部は森の中にあった、緑の大木が空を隠すようにあたりを覆っていた、北のカルツーム政府による空爆を避けるためだ。静かな中に至るところに兵士と武器が溢れていた。
わたしは司令官のエリジャ・ホントップに日本から来たジャーナリストだと挨拶をしてインタビューをお願いした、エリジャは快く受け入れてくれた(内容は長くなるのでまた別の機会に詳しく書きたい、ただ北のカルツーム政府とだけでなく、ジョン・ガラン率いる別のSPLA主流派とも戦っていると話した)
その後、ゲリラたちの訓練を撮影。訓練とはいえ、真剣な眼差しからくる迫力に圧倒された、男たちは全員ヌエル族でディンカ族主体のSPLA主流と戦っている、若者がほとんどでみな全員熱い目をしていた。
滞在時間が限られているのでわたしは救援センターに急いだ、葦の塀に囲まれたコンパウンド(敷地)内に足を踏み入れると一面砂地だった、すぐに小屋があり中では先ほど飛行機から降りたMDM(地球医師団)の2人の看護師が具合の悪い子どもを診ていた、小屋を出てわたしは子どもたちに近づいた。
死と隣り合わせの、与えられた食べ物を口に運ぶだけの痩せ細り骨と皮だけの子どもたちが砂の上に転がっていた、そばには空っぽの大きな瓢簞の容器が置いてあった。時折聞こえるぐずった泣き声以外あたりは静まりかえっていた。
空腹とあきらめと放心がつくりだす子どもたちはどこか一見、悟りの境地にあるような雰囲気さえ漂わせていた。
こちらの撮ろうとする意欲とそれは対照的だった、死と背中合わせ、その言葉以外なかった。わたしはただカメラを回し続けた
5歳、7歳、10歳、、、子どもたちから出る諦念、それでもわたしはカメラを回し続けた、いや、そうする以外、目の前の現実に対してできることがなかった、ましてや理解など不可能な世界がすぐ目の前にあった、頭は説明を拒絶していた。
ケビンが来てから半年余、いくぶん事態は改善されたと聞いていたが、それは一つの〝ワレワレ〟の見方にすぎない。痩せさらばえ骨の浮き出た子どもたちの現実は圧倒的だ。インパール作戦(第二次世界大戦時、日本軍が強行したビルマ奥地インパール攻略作戦、補給、後方支援を無視した無謀な行軍、数え切れない数の兵士が飢えで命を落とした)で日本軍兵士が体験した飢餓と病いに5歳前後の子どもたちが直面しているのだ、その異常さに思考は停止したままだ。ただ、わたしもプロダクションから取材費をあずかってきたジャーナリストである、子どもたちを前にただ撮るしかなかった。
直ぐに昼食?が始まった、大きなプラスチックバケツに入ったユニミックス(栄養剤入りのカユ)が運ばれてきた、ボランティアのおばさんが子どもたちが差し出す瓢簞(ひょうたん)の容器に入れてゆく。骨と皮の子どもたちがゆっくりとスローモーション映画のように湯気の立つカユを味わうように口もとに運んでゆく、とにかく動作はゆっくりだ。
間違いなくこの中に半年前、ケビンが撮った〝ハゲワシと少女〟がいるはずだ。
しかしそれは後になって考えつくハナシだ。その時、ケビンのことも、ヨハネスブルクの待合室で見た写真(新聞)のこともすべてとんでいた、あるのはただ目の前のリアル、ひたすらカメラを回し続けた。
◾️ニューヨーク
3月、南部スーダンから帰ったケビンに1本の電話があった、ニューヨークタイムズからだった、Bang Bang Clubのリーダー、グレッグ・マリノヴィッチからケビンの電話番号を聞いたタイムズの担当は直ぐにケビンに電話した。
その頃タイムズはスーダン内戦、危機を表すパワフルでインパクトのある写真を必死に探していた。縁のあるタイムズから連絡を受けたグレッグ(ヨハネスブルク郊外のアフリカ人同士の戦いTownship Warを撮った写真ですでにピュリッアー賞を得ている)は友人が南部スーダンから帰ったばかりだということ、ケビンの電話番号をタイムズの担当者に教えた。
3月26日、ケビンのスーダンで撮った写真がニューヨークタイムズに載るや、タイムズの電話が一斉に鳴り、ファックスが音を立て始めた。すべて、ハゲワシの前にうずくまり顔を地面につけた少女がその後どうなったのかという質問と関心だった。編集担当のナンシー・リー自身深い関心があったので、少女のその後についてヨハネスブルクのケビンに電話した。
ケビンは
〝彼女は立ち上がって救援センターに行った〟と答えた。
〝その時、手を貸さなかったの?〟
〝いや、近かったし、自分で歩いてセンターまで行った〟
さらにケビン・カーターの説明によれば、写真を撮って、ハゲワシを追い払ったという。
ここで問われたのは、命の危機に瀕している人間を前にしてジャーナリストがしなければならない最も大切なこと、それはなんなのか、ということだ。質問のほとんどもそこに集中していた。シャッターを押す前にそうした人間を助けるべきなのか、それともプロフェショナルとして仕事を優先させていいのかというシビアな問いだ。貴重な写真を撮ってスーダンの現状を伝えたことに対する称賛も多かったが、それ以上にほとんどが〝瀕死〟の少女を前にして、自分の仕事を優先させたケビンに対する非難だった、当然だが、非難の方が圧倒的に力を持つ。
写真を使った新聞社の編集者自身が強い疑問を抱いていた。
しかし、たとえば以前のベトナムでジャーナリストと呼ばれる人間たちは目の前で焼かれ、殺されていった人間をカメラを捨てて助けただろうか、そうした行動(シャッターをバシバシ押す)に対して、〝ハゲワシと少女〟の時のような非難の大合唱がわき起こっただろうか、最近のアフガン、シリアにしても同じだ、写真は普通に撮られ、普通にメディアに載った、あるいは流れた。
それでも、現実に一枚の写真〝ハゲワシと少女〟は世界中にセンセーションを巻き起こした。
ほとんどが少女のその後、運命に関してだった。〝少女はどうなりましたか?〟〝写真家は少女をたすけたのか?〟
当然ケビンも必死に説明をした。
救援センターまではごく近いし、ハゲワシを追い払ったりもした、、、
だが、読者を十分に納得させることはできなかった、質問はさらに来続けた。
◾️焦り
南部スーダンからナイロビに戻ったわたしは東京のプロダクションのボスに電話を入れた。
〝それなりに撮れたんではないかと思います〟
しかしボスは直ぐに反応した、〝なにを言ってるんだ〟〝本当の勝負は君が帰ってからだよ〟
、撮った画(映像)どう売るのか、売れる画なのか、ということだ。
電話の向こうのボスの声は厳しかった。
ケビン・カーターの戦いもまた、行く前からすでに始まっていた、どこのメディアに売るかだ、買ってもらうかだ。南アの地元紙はもちろん、ニューズウィーク、APなど海外の一流メディアに撮った写真を買ってもらいWar-Photographerとして世界的に認めてもらうこと、それによって自身を取り巻く金や人間関係のトラブルから解放されたいという強い思いから親友から旅費を借りてまでして飛んだ南部スーダン、ケビンは追いつめられていた。
それは細かい状況はちがうにしても、同じフリーのジャーナリストとして痛いほどわかる、いつも何かに追いつめられている、どこに、どうやって、いくらで売れるのか。
ケビンの渾身の一枚はしかし、すべてを吹っ飛ばすくらいパワフルだった。ニューヨークタイムズが買った一枚は世界中を巻き込んだ。
わたしが南部スーダンで撮ってきた映像(ビデオ)は、日本の夜の某有名ニュース番組でオンエアーされた、当時日本のどこを探しても、いや、世界中でもそれほど撮られてない映像だったと思っていた。遅れること半分余、ケビンが訪ねた同じ村、ゲリラ兵士、内戦による村々の破壊の後、未曾有の干ばつ、そしてケビンが撮ったのと同じような骨と皮だけになって転がっている子どもたち、記憶に自信がないが、視聴者からの数本の電話とfaxがあったらしいことは番組のデスクから聞いていた、しかしそれだけだった。ただ人気キャスターとして一世を風靡していたk氏が、非常に丁寧に気持ちを込めて、まったく馴染みのない南部スーダンの地名を一つ一つ地図を指しながら紹介されていたのには、頭が下がった。今の日本のテレビではまったく考えられない謙虚な姿勢、世界に対するリスペクトが全面に出ていた、これは強く断言できる。
◾️トレンディ・カフェ
タイムズに載ると同時に、鳴り続けた電話、吐き出せれ続けたfaxはすでに精神面、生活面で十分追いつめられていたケビンをさらに窮地に追い込むのに十分だった。
世界中の関心がアフリカ中部に位置するルワンダで起きた大量殺戮に移っていた翌94年5月、ケビン・カーターがスーダンで撮った一枚の写真がピュリッアー賞を獲った。これまで何度か賞を取っていたニューヨークタイムズだったが、実に写真部門での受賞ははじめてだった、写真が起こしたセンセーションと同時にタイムズにとってもインパクトは大きかった。
関心がルワンダ、ザイール(現コンゴ民主共和国)に移っても質問、ケビン自身への非難は続いた。
〝お前自身がハゲワシだ〟という酷いのもあった。受賞の知らせをうけ、ニューヨークに飛んだケビンはそれでも幸せの絶頂だった。南アの片隅で写真を撮ってがんばっていた無名の写真家が報道写真の世界でアフリカの仲間たちを引っ張っていける存在になったのだ。
表彰式は伝統的にニューヨークのコロンビア大学で行われる。ケビンの明るく繊細な一面に惹かれたタイムズの写真担当のナンシー・リーはケビンをランチに誘った。会話は弾んだ、賞金が入ったら新しいカメラを買うこと、できるだけ多くのメディアと契約を結ぶことや、さらに日常生活のことなど多岐におよんだ。夜にはもう一人のナンシーでタイムズの編集スタッフのナンシー・ブースキも加えて三人で夜のニューヨークの洒落たカフェで心おきない会話を楽しんだ。眼下にはイーストリバーからマンハッタンまで夜のニューヨークが広がっていた。ケビンはいつになく饒舌で最も親しく信頼していた仲間のケンの死について語り、いかに彼の死が自分にとってショックだったか話した。
受賞式に出るためにやって来たニューヨークの小旅行はしかし、一方では難しい旅でもあった。人びとは辛らつな質問をケビンに浴びせ続けた。シャッターを押す時の倫理観、感情そして行動それ自体に対する疑問と非難は収まらなかった。
ケビンにのしかかるプレッシャーは次第に重く大きくなっていった。そんな時、タイムズの二人はケビンを夜のニューヨークのカフェに誘ってくれたのだ。そこにはJ-burg(南アヨハネスブルクの略称)の高層ビルから見下ろすよりもはるかに洗練された夜の街が広がっていた、ケビンはその光り輝くネオンの向こうにいったい何を見ていたのだろう、、、
Ayod(南部スーダン)の救援センターで空腹に泣く痩せさらばえた子どもたちだったろうか、それとも南アに帰った後待ち受けている称賛、増えるに違いない仕事のことだったろうか。
夜の大都会に明滅するネオンの向こうに浮かぶ、いや消えることのない少女〟の姿ほどケビンの心を悩ませ揺さぶるものはなかった。
◾️アフリカーー完璧な一枚
ケビンの写真をピックアップし、ニューヨークタイムズの紙面に掲載、さらにピュリッア賞の受賞式にケビンを招いた立場上、ナンシー・リーは写真の真実にこだわった。
その時のethic倫理、感情、行動についてしつこくケビンに問いただした。
〝どうしたのか〟
〝どう思ったのか〟
〝シャッターが先なのか、少女を助けることが先だったのか〟
ケビンの答えは揺れていた、答える人によって少しずつ変化していた。
事実はーー
*シャッターを押した
*ハゲワシを追い払った
*目の前の現実に圧倒され混乱した
*木の下に座り込み、タバコに火をつけた 
*そして泣いた/何故泣いたのか、それはヨハネスブルクに残してきた娘のミーガンを思い出したからだ。
ーーーーーーーーーー
ケビンの前に現れた予想だにしなかった光景、、、、
「少女からふと目を移すとそこにハゲワシがいた、数秒前にはいなかった、ハゲワシの目線の先には少女がうずくまっていた」
ハゲワシは死肉をあさる生き物だ、直ぐに少女を襲うことはない。
その「画/え」はあまりにも現実ばなれしていた、すべてーー人間とアフリカのすべてを表していた。ケビンは興奮を抑えながらフレームに二つの生き物をfixした後立て続けにシャッターを押した。
他者が理解できるのはこのあたりまでだ。
問題はその時のケビンの心の中だ、でもケビン以外誰も知り得ない。
そして次々と疑問が湧いた
非難の嵐が襲った。
この写真のどこがすごいのか、なにが違うのか。たとえば、、、
〝兵士と少女〟
〝母親と少女〟
あるいは、〝ライオンと少女〟、たぶん〝ライオンと少女〟は想像力をたくましくする前に直に危険の回避の手立てに考えは行くのではないか、〝兵士と少女〟〝母親と少女〟は、言い方は良くないが、すでに巷に溢れ、読者は見飽きている。そういった意味で、ハゲワシと少女という組み合わせはバランス、位置関係、すべてが完璧だった。これ以上想像力を刺激する組み合わせ、構図はなかった。
予想だにしなかった一枚の写真に読者は完全にやられたのだ。
◾️少女は死なない
ナイル川が真ん中を貫き、内戦と飢餓、ゲリラたちが跋渉する南部スーダン(現南スーダン共和国)はわたしにとって取材地として憧れの地、どうしても行きたい場所だった。幸運にもその南部スーダンにカメラを持って何度も足を運ぶことができた、さらにケビン・カーターが写真を撮った村、Ayod アヨドに2度も行くことができた、時期もケビン・カーターが訪れてから半年余、ヨハネスブルグの飛行場待合室でのケビンの写真との出会い(93年3月)からそれほど時間は経ってなかった。それはニューヨークタイムズ版ではなく、地元紙ウィークリィメイル(Weekly Mail)版だった。堂々と一面トップ、写真の上には「I HAVE SEEN HADESわたしは地獄を見た」、そう書かれていた。
ケビン・カーターとのそれは偶然の出会いだった。その後さらにアフリカ内戦、紛争取材にわたしは引き込まれていった。アフリカ(当時)のすべてがそこにあるとの思いはさらに強まった。
当然2度も現地Ayod アヨド、ケビンが行き、ピュリッア賞を獲った写真が撮られた場所でわたしもまた、フツーでない、人間の世界を見た。一言で言ってそこは戦いと飢餓の大地だった、それがアフリカだった、ネガティブ論、ポジティブ論を軽々と超えたそれはリアルだった。
たった一枚の、それも刺激的過ぎる写真からすべてを想像し、考え、判断しなければならない普通の読者にとって、ケビンとケビンが撮った写真に対してあらゆる質問、疑問、そして怒りと非難が集中するのは仕方のないことだ。
〝何故、シャッターを押してる時間があったら、少女を助けない〟のかという疑問、非難も当然だ、読者は写真の情報以上にケビンのethic倫理に襲いかかった。現場を知りえない読者にとってあまりにも当然のリアクションだ。
だが、幸運にもピュリッア賞を獲った写真の現場に二度も立ったジャーナリストとして、非難の嵐に晒され、最後に自死を選ばざるを得なかった一人の男の名誉のために一言言わざるを得ない。
あの時あの場で少女は死ぬわけはない。
何故なら、緊張した紛争地を歩く時、誰であろうとよそ者が一人であたりを自由に歩くことは原則ありえない、当然ケビンとジャオの二人もそうだ。
Ayod アヨドでのわたしの場合もそうだったが、飛行機が着陸、降り立った直後から訪問者は誰でもゲリラ組織の網の目の中に取り込まれる。情報オフィサー、リエゾン(連絡係)、コーディネーター、そして兵士、、、いついかなる時でもよそ者への彼らの監視の目は光っている、訪問者が一人で自由に歩き回れる環境はそこにはない(国連、OLDスーダン生命線作戦からも事前に連絡は入る)。
わたし自身、飛行機から降りるや、すぐにそうした男たちに囲まれパーミッション(許可証)
を見せながらいくつかの質問を受けた。ケビンたちもそれは同じだ、ケニアから飛んで来た看護師たちはほぼ滑走路と救援センターの往復といっていい。
ケビンが撮った一枚、それはどこか遠くで撮られたのではない、それはごく近場で撮られた写真だ。
そうしたことすべては何を意味するか、それは〝ハゲワシと少女〟を撮った時、完全にケビンが一人でいたことを意味しない、ゲリラ組織等関係者、センター関係者、あるいは村人の目が必ずどこかに光っていたことを意味する。たしかにやや辛そげにうずくまってはいるが、それは必ずしも少女が一人で放置されていたとはちがう。
◾️男たち
さまざまな状況を考えると、それは必ずしもケビン・カーターがハゲワシを追い払わなくても、少女が襲われたり、ましてや食われたりするような状況ではなかったということだ。
〝ハゲワシと少女〟、たぶんそれは戦いに明け暮れ、空腹に追いつめられた南部スーダンの村、Ayodアヨドにとっては日常的風景の一コマに過ぎなかったにちがいない。
周りにそれなりに人がいて、直近に死ぬようなさし迫った状況でなく、だからシャッター/仕事を優先し、少女を助けなかったケビン・カーターに〝責任〟がないとしたら、いったい誰に、少女を放置し、助けの手を貸さなかった責任はあるのか、、、。無数の批判、中傷に追いつめられ、自死を選ばざるを得なかったケビンの自死を考える時、ここは問題の核心である。
救援センターの砂地の上で生気をなくし、小便を垂れ流し、空腹に泣く幼い子どもたちのすぐそばで、喚声をあげ銃を振りかざし熱狂する男たち、アフリカの戦い、それは男たちの暴力(violence)と熱狂(zealot)である、そこに女はいない。ピュアで狂気のゲーム、それが男たちのアフリカ内戦、紛争だ。
男たち、兵士は決して助けない、たとえ泣き叫ぼうと餓死しようと男たちの関心は敵を襲い、略奪することだ。
わたしは救援センターを訪ねた、カメラを回した。痩せさらばえ砂に転がったたくさんの子どもたちがいた、忘れられない光景がフレームをを圧した、ハエがたかり泣きじゃくる(痛さとか眠いとかで泣いているのではない、どうしようもない、満たされない空腹、絶望に泣いてるのだ)幼子(たぶん弟か)を庇うように少女(姉)は膝の上に抱いていた、なにから弟をかばっていたのか、感性の麻痺したわたしは気づかなかった、それはわたしのカメラレンズからだった。
さらにそこからわずかにしか離れてない森の中からは男たちの喚声が聞こえてきた。
一枚の写真からは決して見えてこない、読者には見ることのできない世界、伝えきれない現実がそこに広がっていた、ケビン・カーターはその欠片のさらにカケラを撮ったにすぎない。
◾️栄光と挫折
子どもたちが泣き叫ぶ〝地獄〟を見た後、自らの倫理観、人間的価値観と戦いながらケビンは彷徨い歩いた。〝horrible pornography (恐怖のポルノグラフィ)〟目の前の終わりなき死と破壊の世界のことをケビンはそう表現した(「Bang Bang Club 」)。
ケビン自身にできることは何もなかった、しかし、仕事が先か人命が先か、衝撃的写真を前にして読者は待てなかった、たった一枚の写真から無数の読者がその場でのケビンの苦悩を読みとるのはほぼ不可能だった。
「Bang Bang Club」の著者でクラブのリーダーであるグレッグ・マリノビッチは、著書の中で、〝ハゲワシの写真〟は、常に内面的不安と戦い、ドラッグに救いを求めていたケビンにとって、自由と解放を手にした無垢な一瞬pure momentだった、と書いている。
終わりなき批判と栄光、クリントン大統領夫妻からも手紙が来た。
だが、〝I hate this photo 〟、その写真はひと時の安らぎと自信の回復の後、牙をむいた。常にケビンの中にはその写真があり、あの時を超えなければならない、もっと高く、そしていい写真を!
ストレスと落ち込みがケビンを襲った。
ケビン・カーターは作者として一人で無数の読者たちを相手に戦った。
一人で責任を負い人間的苦悩の限界を彷徨い続けているその時でさえ、しかし、遠く離れた南部スーダンでは何一つ変わることなく男たちの喚声がサバンナを駆け抜け森を揺らしていた、男たちの足下には、空の瓢箪を抱いた子どもたちが転がっていた。
少女は見捨てられ放置されたのではない、少女のまわりにはたくさんの人間たちがいた、命ある生き物をハゲワシが襲うことはない。
仕事(シャッターを切る)が先か人命が先かはそうした状況では問題ではない、少女は死なないのだから、わたしはそのことを知っている、2回もその場を踏んでるのだから
一羽のハゲワシとうずくまった少女を前にしたケビンに責任はない。
あらためて、ハゲワシと少女〟の責任は誰にあるのか。
それは空腹の少女、学校に行けない子どもたちを再生産し続ける男たちの暴力にある。
読者/世界は、心の問題を抱えながらもギリギリの暮らしを支えるためにアフリカに飛んだケビン・カーターを責めるべきではなかった、責められ、尋問にかけられなければならなかったのは、男たちの暴力、そして戦争だ。
本当にたくさんわたしは見てきた、感じできた、女たちの悲しく絶望的眼差しを、空腹に泣く無数の子どもたちの姿を、ケビン・カーターはそうした彼らの真実を伝えた、何故ならそれが彼の仕事であり、生きる証だったからだ。
だがそれは読者には通じなかった。
◾️別れ
ニューヨークから帰って2か月、高揚と絶望/ups & downを繰り返していたケビンにSygma (世界的写真配給会社)を通じてTIMEの仕事が入った、行き先はモザンビークだ。94年7月、白人支配の象徴だったアパルトヘイト(人種隔離政策)体制崩壊後、はじめての民主的選挙で選ばれたネルソン・マンデラが大統領としてモザンビークを訪問することになり、ケビンはTIMEの特派員としてモザンビークの首都マプトに飛んだ。
マンデラ新大統領の行動、モザンビーク政府と反政府ゲリラRENAMOの間の停戦を監視する国連PKO軍など、1週間ほどの取材をなんとか終え、ケビンはヨハネスブルグに戻った。7月25日のことだ。
飛行場から車で友人のリドワン夫婦のフラットに向かった。
だがその時、ケビンを絶望の淵に突き落す出来事、いや〝あってはならない〝失敗〟が待っているとは知るよしもなかった、それはリドワンの家でディナーをとろうとしていた時だった。
ケビンは車に残してきたカメラ機材をとりに行った、そして戻って来るや青ざめた顔で何度も繰り返し叫んだ、〝fuck,big fuck up!〟〝compleatly fuck up!〟(最悪、大失敗)
モザンビークで撮った16本のフィルムがなかったのだ。
すでにハゲワシの写真への非難で精神的に崖っぷちまで追いつめられていたケビンを、さらに自分自身による〝失敗〟が奈落の底にケビンを突き落した、心底心配してくれるリドワンと飛行場に探しに行った、フライト担当者にも会いくまなく探した、だが16本の撮影済フィルムは出てこなかった。
このことがなにを意味するのか、それはケビン自身が誰よりも分かっていた、周囲の励まし、助けでなんとか生き抜いてきたケビンにとっての最後のそれはブロー(一撃)だった、ケビンにもう逃げ道はなかった。
モザンビークから帰って2日後の27日早朝、友人で一緒に南部スーダンに行ったジャオに1本の電話がかかってきた。
〝寝ていたジャオは電話の音に驚いて飛び起きた、シルバSilva(ジャオの姓)さんですね?
ジャオは何かと思いながら素早く起きた。「そうですが」、彼は答えた。「ケビン・カーターさんをご存知ですか?」、電話の声は尋ねた〟
(「Bang Bang Club」)
〝なんてこった!ジャオはまたケビンが酔っ払って警察にでも捕まったのかと思い、こんな朝っぱらからいまいましかった、たしかに電話の主は警察だった、だが、用件はちがった。
電話の主はそれらしい声で、〝昨夜、彼は自殺しました、ノートにあなたの連絡先があったもので〟(同)
そんなことがあり得るのか、今この時
ジャオは受話器を手に夢ではないのかと思った。しかしそれは現実だった。
ケビン・カーターは逝ったのだ。
自ら死を選び、人生を清算したのだ。
◾️さらばAyodアヨド
テープで密閉した車の中でドラッグと排気ガスを吸い込みながらケビンの頭の中をよぎって行ったのは何だったのか、もちろん誰も知らない。もしかしたらソエト(Soweto)での激烈な部族間争い、殺し合いだったかもしれない。でもわたしは思う、ケビンをピュリッア賞受賞という輝かしい世界へと導いたのは南部スーダンの死と破壊の世界だった、その地獄(Hades)の中で唯一彼を解き放ち、自由の世界(自己肯定)に導いたのは一羽の鳥と一人の少女だった。
混濁する意識の中でケビンの頭の中をよぎったのは、彼を栄光と地獄へと導いたハゲワシとともに、アフリカの空高く舞い上がって行く自分の姿だったかもしれない。
    ○○○○○○○○
◾️「絆」
90年代、世界はまだ世界に繋がろうとしていた
、人は人に関心があった。〝We Are the World" "Save Somalia" 、アメリカでさえ飢餓で苦しむ子どもたちの命について真剣に考えていた、飢餓に苦しむ人々を武装勢力の手から守ろうと3万人の完全武装の兵士たちがソマリアの海岸に上陸した。
〝シャッターを押してる時間があったなら何故、少女を助けなかった⁈〟
そうした、遠くにいる人たちの非難でさえ、一人の少女の命に対する熱い関心の表現に過ぎなかった。それは今失われつつある人間の絆が存在したことの表れである。みな少女の命に対して何かしたかったのだ。
人の人への関心は絆の土台であり、すべての始まりである。
しかし一方で、少女の向こうにある男たちの戦い、暴力には読者の関心は届かなかった。銃をかざし熱狂する男たちの写真には何の意味も感動も感じなかった。だが本当はその戦いこそが、空腹に泣き、飢餓でうずくまった少女を作ったのだ、生んだワケそのものだ。
命をかけて自分のすべてを注ぎこんでケビン・カーターはアフリカ、スーダン南部で一枚の写真を撮った。
死、地獄、弱さ、破壊、生活苦、失敗、、、あらゆるネガティブな状況を乗り越えて撮った、撮って人びとを動かした。
〝ハゲワシと少女〟を撮った一人の男への止むことのない非難ーー、もしかしたらそれは、孤独な人間たちの絆への強烈な願望だったのかもしれない。
ケビン・カーターは生きている。
一枚の写真を通して世界中の関心を巻き起こし、人間たちの絆を結びつけたという意味で。
    了