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沖縄県国頭村への路線バスの歴史

沖縄県国頭村は、沖縄本島の最北端に位置する市町村である。村内には辺土名バスターミナルが設置されており、名護市からの路線バスが運行されているほか、国頭村による村営バスが運行されている。


1947年の公営バス時代には辺土名まで運行

沖縄本島における戦後の路線バスは、1947年8月18日に運行を開始した公営バスである。その公営バスが運行を開始する少し前の1947年7月28日時点で、公営バスの予定路線図が作成されており、その路線図には「HENTONA LINE(辺土名線)」の記載がある。

3.HENTONA LINE(20.1MILES)
  NAGO - SHIOYA ー OKUMA ー HENTONA

軍政府指令/Military Government Directive 1947年 第001号~第055号(琉球政府総務部)p.356

路線名にもなっている辺土名とは、国頭村南部に位置する地区の名称であり、国頭村役場も立地する村の中心地である。すなわち戦後すぐに、国頭村の中心部へ乗り入れる路線バスが運行されていたようである。
なお、記載されているルートを見る限りは、現在も運行されている67番・辺土名線と同じルートのようである。
ただ中心地である辺土名は、村の中では南側に位置しており、この時点では国頭村のほんの一部分のみを路線バスが走っている状況であった。

1947年時点の路線図
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

1949年には更に北上し宜名真まで運行

公営バスの運行開始の2年後である1949年11月23日現在のバスダイヤ案内にも「辺土名線」の記載はあり、この当時は1日3本(午前1本、午後2本)が運行されていたようである。またこの当時の国頭村を走る路線としては、辺土名線とは別路線である「宜名真線」が新たに誕生している。路線名になっている宜名真とは、国頭村のほぼ最北端に位置する地区である。よって、辺土名線をさらに国頭村の北部に延長した路線が宜名真線である。

1949年当時の国頭村内を走るバス路線一覧(抜粋)
(出典)沖縄民政府当時の軍指令及び一般文書 5-5 1949年(沖縄民政府)p.221を元に筆者が作成
1949年時点の路線図
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

新たに誕生した宜名真線は、週2日(火曜日・金曜日)でかつ1日1本のみの運行であったようだが、名護市内から直通で国頭村中心部を経由して、国頭村の西海岸沿いに位置する各地区を経由して、同村の宜名真地区まで運行されていた。
あと1地区北上すれば、本島最北端の辺戸地区であるのだが、この当時、宜名真トンネルは未開通(1983年開通)のため、辺戸へ向かうには、茅打バンタなどがある山間の狭い道路を通らなければならなかった。この道路は、かつて「戻る道」と呼ばれていて、人がすれ違えないほどの狭路であり、戦前には牛馬が通れるまでには拡幅がされていたようだが、戦後すぐの1949年時点では、バスが通るには時期尚早という判断からか、路線バスは確実にたどり着ける宜名真までの運行とされたのかもしれない。

1949年時点の路線図(宜名真・辺戸地区の拡大図)
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

ちなみに戻る道については、下記のサイトが詳しいので、興味がある方は参照いただければと思う。

なお「確実にたどり着ける宜名真まで」と書いたが、宜名真以南の整備が進んでいたかと言われると微妙なところで、この当時は、宜名真より南側に位置した与那地区や宇賀地区もトンネルが未供用であり、海岸沿いの旧道を経由しなければならなかった。

辺土名線・宜名真線は民間の沖縄バスに引き継ぎ

1947年に運行を開始した公営バスは、1950年4月1日より運行を開始した完全民営の沖縄バスに引き継がれた。辺土名線と宜名真線も沖縄バスに引き継がれたようで、1950年当時の沖縄バスのバス路線図$${^1}$$には「辺土名・宜名真線」として記載がある。
路線名からすると辺土名線と宜名真線は1路線に集約されたようで、翌1951年3月末当時の路線一覧$${^2}$$でも、「辺土名・宜名真線」となっており、名護~宜名真を結ぶ路線として1日4本が運行されたようである。

1950年当時の国頭村内を走るバス路線一覧(抜粋)
(出典)沖縄バス30年のあゆみ(1981年6月 沖縄バス発行)p.41を元に筆者が作成
1951年時点の路線図
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

辺土名以北からは沖縄バスは撤退し、昭和バスが参入

その後の1961年3月時点の沖縄バスのバス路線一覧$${^3}$$には、辺土名線は確認できるが、宜名真線は見あたらない。よって、1951~1961年の10年の間に、沖縄バスは辺土名以北から撤退したようである。
辺土名以北の路線バスが廃止になったのか・・・と思いきや、琉球バス交通の前々身である昭和バスの1961年3月時点のバス路線一覧$${^3}$$には、辺土名線のほかに、本島最北端の地である「辺戸」の名前が入った辺戸線の記載がある。よって、沖縄バスが辺土名以北から撤退する前後で、昭和バスが辺土名以北に参入したようである。

1961年当時の国頭村内を走るバス路線一覧(抜粋)
(出典)沖縄バス争議 1961年(1961年6月 琉球政府労働局中央労働委員会事務局)p.114~115を元に筆者が作成

この時点でも宜名真トンネルは未供用であるが、辺戸までの道路がバスが通れるほどには整備されたのかもしれない。なお、宜名真から辺戸までの間には、茅打バンダ、学校入口、辺戸岬入口の3つのバス停が設置されていた。

1961年時点の路線図
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

ちなみに現在の宜名真から茅打バンダへ向かう途中の道路が、Googleストリートビューで確認できる。かつてはこの狭い道路を路線バスが通行していた。

奥地区まで路線バスが開通

1961年時点では、辺戸地区までしか道路整備が進んでいなかったため、路線バスも辺戸が終点となっていたが、翌1962年1月29日に辺戸から先の国頭村奥地区までの道路が開通したことに伴い、同日より昭和バスによる奥線が運行を開始している$${^4}$$ $${^5}$$。奥地区への乗り入れに際しては、辺戸線を延長するのではなく、別路線である奥線として運行を開始したようである。

1962年時点の路線図(宜名真・辺戸・奥地区の拡大図)
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

国頭村内を走る路線バスは3路線に

奥線の運行を開始した約2年後の1964年8月1日に、昭和バスと沖縄青バスが合併し、琉球バスが誕生している。琉球バス誕生後の1964年12月末時点での国頭村内を走るバス路線一覧を以下に示す。


1964年当時の国頭村内を走るバス路線一覧(抜粋)
(出典)行政監察業務概況 1970年5月(1970年5月 琉球政府総務局行政部発行)p.75~76を元に筆者が作成

なお1961年時点で1日6本運行されていた辺戸線は、1964年時点では、1日5本に微減した一方で、新たに運行を開始した辺戸も経由する奥線は1日4本運行されており、辺土名以北でみると増便傾向(6本/日→9本/日)となっている。

名護~辺土名までの辺土名線は、琉球バスと沖縄バスの2社による運行となった。また辺土名以北へは、前述の通り沖縄バスは撤退し、琉球バスの辺戸線と奥線の2路線となり、国頭村内を走行する路線バスは3路線となった。

1962年時点の路線図
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

辺土名にはバス出張所が設置

ここで一旦、バス路線ではなく、バス営業所に関してとなる。
前述の通り1950年(昭和25年)4月1日に沖縄バスが辺土名・宜名真線の運行を開始しているが、それと同時に辺土名に出張所も設置されたようである。

昭和25年4月1日 那覇(牧志)、神里原、安里、糸満、石川、屋慶名、名護、本部、今帰仁、辺土名で営業開始。

沖縄バス30年のあゆみ(1981年6月 沖縄バス発行)p.52

この辺土名出張所の場所は不明だが、約16年後の1966年(昭和41年)5月28日をもって廃止されたようである。沖縄バス創立30周年記念誌には廃止と同時に「二社共用駐車場へ移転」とあるが、この二社共用駐車場とは、現在も琉球バス交通と共用使用している辺土名バスターミナルのことであろう。

昭和41年5月28日 辺土名出張所廃止、二社共用駐車場へ移転

沖縄バス30年のあゆみ(1981年6月 沖縄バス発行)p.55

沖縄バスの辺土名出張所廃止とは前後するが、辺土名バスターミナルは1966年(昭和41年)1月に供用を開始している。住所的には現在の辺土名バスターミナルと場所は変わっていないようである。

1974年当時の辺土名バスターミナルの概要
(出典)昭和49年度 運輸要覧(1974年10月 沖縄総合事務局運輸部発行)p.116を元に筆者が作成

また、1980年当時の営業所一覧$${^6}$$によると、琉球バスは電話番号も設定された辺土名連絡所を設置していたようである(沖縄バスは設置無し)。辺土名バスターミナルは、3路線(辺土名線、辺戸線、奥線)を運行する琉球バスによって1966年1月に連絡所を併設する形で設置され、後に1路線(辺土名線)を運行する沖縄バスが自社の出張所を廃止して乗り入れてきた形かもしれない。

なお、名称に「バスターミナル」が入っており、旅客案内上も辺土名「バスターミナル」となっているが、現在はバス会社の職員が常駐する建物等は無く、辺土名駐車場と言った方がしっくりくる。事実、かつての琉球バス交通のWebサイトでは、辺土名「折返し駐車場」と案内されていた。

68番・辺戸線の廃止と68番・与那線の新設・休止

3路線体勢になった国頭村内の路線バスであるが、1975年3月31日時点$${^7}$$では、67番・辺土名線は1日39本、69番・奥線は1日5本と、1964年当時から比較すると微増しているが、68番・辺戸線は1日2本と減便されている。
奥まで行かずに辺戸止まりだった理由は、需要の問題では無く(辺戸までの需要が旺盛だったわけでは無く)、道路整備の問題(辺戸から奥までの道路が未整備)であったため、68番・辺戸線を包括し、延長も7kmほどしか違わない69番・奥線へ集約していく意図があったのかもしれない。

実際、1983年3月末時点のバス路線一覧$${^8}$$には、68番・辺戸線の記載があるものの、翌1984年3月末時点$${^9}$$のバス路線一覧には、68番・辺戸線は記載が無く、廃止されている。代わりに、新たに68番・与那線という路線が記載されている。

1984年当時の国頭村内を走るバス路線一覧(抜粋)
(出典)昭和58年度 業務概況(1984年8月 沖縄県陸運事務所発行)p.29を元に筆者が作成

「与那」とは、辺土名より約4km北上したところにあり、国頭村の東海岸地区への県道2号線(与那安田横断道路)の分岐点に位置する地区である。辺土名から奥までの区間うち、比較的需要が多かった与那地区の需要を引き受けるために、別系統として新設されたのかもしれない。

1984年時点の路線図
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

68番・与那線は、約4kmという短距離、かつ途中バス停も2箇所であり、この短区間では期待されるほどの需要は無かったようで、1993年3月末時点のバス路線一覧$${^1}$$$${^0}$$では「休止」となっており、後述の1993年12月のダイヤ改正時には廃止されていたようである。約10年間のみの運行であった。

1993年に北部支線は琉球バスと沖縄バスの共同運行に

琉球バスと沖縄バスにより単独で運行されてきた北部支線が2社の共同運行となったのは、1993年12月28日のことである。この際に、琉球バスが単独運行していた69番・奥線の運行に沖縄バスが参入し、2社で共同運行されることとなった。また繰り返しになるが、この時点で68番・与那線は路線名すら出てきておらず、既に廃止された後である。
共同運行化時の運行本数$${^1}$$$${^1}$$は、67番・辺土名線が25本/日、69番・奥線が8本/日であった。67番・辺土名線の1日25本は辺土名線では最多の運行本数であり1時間に1~3本運行されており、それと比較すると69番・奥線の1日8本は少なく見えるが、1~2時間に1本程度は確保されていたことになり、同じ1993年当時の瀬底島への路線バスである76番・瀬底線の1日5本よりも本数は確保されていた。

東海岸は村営バスが担当

1993年12月時点で民間のバス会社2社による2路線体勢となった国頭村内の路線バスであるが、両路線とも西海岸経由であり、東海岸側は路線バスが走っていない地域であった。
東海岸地区に路線バスが走り始めたのは1987年のことであるが、民間のバス会社ではなく、国頭村による村営バスとして1987年より運行を開始している。この経緯については、ウィキペディアの記事が詳しいので、そちらを参照していただきたいと思うが、1987年以降の国頭村内の路線バスは、民間のバス路線が2路線(67番・辺土名線、69番・奥線)、村営のバス路線が1路線(東線)の合計3路線となった。

1993年時点の路線図
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

2004年をもって奥線は廃止

国頭村内を発着する2路線のうち、需要が多かった67番・辺土名線は、北部支線の中では最も多くの運行本数が確保されていたが、69番・奥線は、赤字路線として1995年当時から廃止候補路線となっていた。

沖縄バスと琉球バスが北部地域で共同運行している奥線(系統番号69番)と運天線(71番)の廃止を通告してきたことから、北部市町村会(上間博安会長)は6日、県に対し路線存続を要請した。
両社は1995年2月、96年12月にも同路線は不採算路線だとし廃止を通告する文書を国頭、今帰仁両村へ送付。今年2月には廃止同意書も送っている。

奥、運天線の存続を/北部市町村会/「バス路線」で県に要請(1997年5月7日 沖縄タイムス)

同じく北部支線で廃止候補に挙がっていた71番・運天線は、2002年3月31日をもって廃止された$${^1}$$$${^2}$$たが、69番・奥線は2002年7月21日のダイヤ改正で1日8本から1日4本と半減はしたものの、路線自体は存続した。ただ利用状況が改善することは無かったようで、その約2年後である2004年9月30日をもって廃止されている。
代替として、国頭村営バスに奥線が新設されることとなった。村営バス奥線は、起点が辺土名バスターミナルより南側にある辺土名(国頭村役場近く)に変更されたほか、観光地でもある辺戸岬を通るルートに変更された以外は、69番・奥線のルートをほぼ踏襲している。

2023年10月現在の国頭村内の路線バスは、民間のバス路線が1路線(67番・辺土名線)、村営のバス路線が2路線(奥線、安田線)の合計3路線が運行されている。

2023年10月現在の路線図
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

脚注

  1. 沖縄バスFacebook 【沖縄バス/アーカイブスVOL.156】~設立当時の路線図☆~

  2. 沖縄バス30年のあゆみ(1981年6月 沖縄バス発行)p.41

  3. 沖縄バス争議 1961年(1961年6月 琉球政府労働局中央労働委員会事務局)p.114~115

  4. 琉球政府時代の道(1945年~1972年)(沖縄総合事務局北部国道事務所)

  5. 法人企業業務報告書 運輸・通信業 1962年度(1962年 琉球政府計画局)p.31

  6. バスルートマップ沖縄(1980年 運輸経済研究センター発行)p.48

  7. 昭和50年度 業務概況(1975年7月 沖縄県陸運事務所発行)p.26

  8. 昭和57年度 業務概況(1983年8月 沖縄県陸運事務所発行)p.29

  9. 昭和58年度 業務概況(1984年8月 沖縄県陸運事務所発行)p.29

  10. 平成5年度 業務概況(1993年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.26

  11. 沖縄バス 北部(北部支線)1 27.7.20 画像修正(金シャチてだこのブログ)

  12. 「運天線」バス廃止/規制緩和県内で初/利用者が減り赤字(2002年4月7日 沖縄タイムス)


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