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明治大正史(世相篇) (柳田 國男)

民俗学への興味

 先に宮本常一氏の本「忘れられた日本人」を読んだので、その流れで民俗学の関係の本に興味を持ちました。
 日本の民俗学といえば、やはり柳田國男氏の著作に触れないわけにはいきません。

 以前、氏の著作は読んだような漠然とした記憶があったのですが、どうも思い出せませんでした。
 数年前、何年かぶりに実家に寄った際、学生時代に買った本が並んだ本棚を眺めていると、この本が目に付きました。全く覚えていませんでしたが、やはり学生時代に読んでいたようです。あのころ、こういった本にも興味をもっていたのですね、私が・・・。わが事ながら意外な感じです。(ひょっとすると弟の本かもしれません・・・)

 柳田國男(1875~1962)は、日本民俗学の創始者とされています。貴族院書記官長、朝日新聞社論説委員をつとめた後、民間信仰や伝承等の民俗学の研究に専念、更には、民間伝承の会や民俗学研究所などを開設して、民俗学の普及・研究者の育成にも尽くしました。

 さて、この本ですが、「毎日われわれの眼前に出ては消える事実のみによって、立派に歴史は書けるものだという著者が、明治大正の60年間のあらゆる新聞を渉猟して、日本人の暮し方、生き方を、民俗学的方法によって描き出した画期的な世相史」と紹介されています。
 新聞をベースにしているのですが、その際の気づきを冒頭、以下のように記しています。

(上p5より引用) 生活の最も尋常平凡なるものは、新たなる事実として記述せられるような機会が少なく、しかもわれわれの世相は常にこのありふれたる大道の上を推移したのであった。そうしてその変更のいわゆる尖端的なもののみが採録せられ、他のとして碌々としてこれと対峙する部分に至っては、むしろ反射的にこういう例外のほうから、推察しなければならぬような不便があったのである。

 したがって、その思索の材料は、結局は「新聞から」というよりも、柳田氏の探求眼によって、まったく普段の営みである庶民の実生活の中から掘り出されたものでした。

(上p7よりより引用) 国に遍満する常人という人々が、眼を開き耳を傾ければ視聴しうるもののかぎり、そうしてただ少しく心を潜めるならば、必ず思い至るであろうところの意見だけを述べたのである。

 採り上げているテーマを目次から抜粋してみましょう。その多彩な視点が俯瞰できます。

第1章 眼に映ずる世相
第2章 食物の個人自由
第3章 家と住心地
第4章 風光推移
第5章 故郷異郷
第6章 新交通と文化輸送者
第7章 酒
第8章 恋愛技術の消長
第9章 家永続の願い
第10章 生産と商業
第11章 労力の配賦
第12章 貧と病
第13章 伴を慕う心
第14章 群を抜く力
第15章 生活改善の目標

都市の容認

 民俗学者は、庶民の正直な姿を記します。

(上p136より引用) いわゆる、鉄の文化の宏大なる業績を、ただ無差別に殺風景と評し去ることは、多数民衆の感覚を無視した話である。

 鉄の文化を賛美するというのは、ちょっと意外な感じもしますが、柳田氏の眼は、鉄道にも感歎の声をあげる多くの人びとを捉えています。このあたりが当時の事実としての正直な庶民感情であったのでしょう。

 同じような視点で、「都市景観」についてもこう記しています。

(上p136より引用) 都市は永遠にここに住み付こうという意気込みの者が、多くなっていくとともに活き活きとしてきた。一つ一つとしては失敗であった建築でも、それが集まった所はまた別に一種の情景をなしている。あるいは片隅に倦み疲れたような古家が残り、もしくは歯の抜けたような空き地に入り交じり、それから見苦しいものをしいて押し隠して、表ばかりを白々と塗り立てた偽善ぶりを、憎もうとする者もあるだろうが、同情ある者の眼にはこれも成長力の現れであり、かつこのうえにもなお上品なる趣向を、働かせうべき余裕である。

 これも実生活の正直な心持ちを感じさせる一節です。
 柳田氏は、こういった現実社会の「実感としての生活」をいろいろな視点から描き出していきます。
 その筆力にも素晴らしいものがあります。

 たとえば、以下のような一節はいかがでしょう。

(上p168より引用) 彼らが愛読していた雑誌国民之友は、夏休みで故郷に帰りゆく若い人に向かって、秋風に乗じて再び上京せよ、田舎を東京化するがために帰るなかれ、東京を田舎化するために帰れよ、と言ったことがある。しかもこういう気風も結局は無益であったのは、故郷は時として広い世間よりも早く変わっていたからである。町に寂しい日を暮らす人たちに、何の断りもなく田舎は進んだ。それが東京化ではなかったまでも、少なくとも心の故郷は荒れたのである。それを知らずに帰去来の辞は口ずさまれていたのである。

マーケティングの萌芽

 本書の「生産と商業」という章に、現在でいえば「マーケティング」に相当する当時(明治大正期)の風潮の記述があります。

(下p109より引用) 輸入には本来註文を取るという仕来たりがなかった。見本を送ってまず相手方の希望を問うということすら、遠い貿易ではそう容易には行われなかったのである。そこで当然に重きを置かれたのは、第一には輸入国民の嗜好を察知する技術、その次には刺戟に富みたる趣向によって、新たに相手方の嗜好を作り出す方法であった。

 前者は「ニーズの感知」ですし、後者は「プロモーションによるニーズの喚起」に相当します。

 この「ニーズ」に関しては、さらに以下のような記述があります。
 ニーズのトレンドをつかまえて、競争業者(外国製品)に先んじたアクション(製品供給)をとるべきとの趣旨です。

(下p110より引用) 趣味は流行が今のように急激でなくとも、以前から次々に移って行くべきものであった。国内製造の一つの大きな力は、この趨勢を早くから見て取ることであって、これが外国品に売り勝つただ一つの武器でもあったが、その代わりにはいつでも尖端に立って見廻していなければならぬ。人のし遂げた事業をいち早く倣うという以上に、むしろ多くの者の共に向かう生産に、ただ一足だけでも先へ出る必要があった。

 しかし、実際社会は、そのようには進みませんでした。
 ニーズに即した製品開発ではなく、「ただ今までと同じことを」という従来からの行動を繰り返したのでした。

(下p110より引用) 何が国民に入用かというほうから、製造を企てるということは流行しなかった。それよりも踏み明けられた一つの途を、速やかに進むのを安全と考えていた。

 そうは言っても、新たな取り組みへのチャレンジはなされていたようです。ただ、その多くは、残念ながら従来の枠を超えるようなイノベーションには育ちませんでした。

(下p110より引用) 発明の労苦は尊重せられているが、それもたいていはこの既定圏内の、少しの模様替えに働くものばかり多かった。

流行のからくり

 よく言われている日本民族の特徴としての「集団志向性」について、柳田氏は以下のように記し、評価しています。

(下p178より引用) 附和雷同は普通は生活の最も無害なる部分から始まっている。しかしいわゆるお附き合いはもうすでにかなりの不便を忍ばせ、次に、お義理となるとそこに時としては苦しいほどの曲従があるが、そういう程度の共同生活をしてでも、なお孤立の淋しさと不安とから免れたいというところに、島国の仲のよい民族の特徴もうかがわれるのである。

 明治大正期においても、この「集団志向」を活用した購買の動機付けが行われていたようです。非常に原始的な方法ですが、そのころの日本人マーケットには非常に有効だったようです。

(下p179より引用) 買い物の興味を普遍ならしめるがために、都市はあらゆる力を傾けて地方と個人との趣味を塗り潰した。その大きな武器はまた、他でも多数の人がこれを喜んでいるという風説であった。こういう点にかけてはもとはわれわれは気の毒なほど従順であった。

 こういう世間の趨勢を利用して「うまくやってやろう」と画策する輩は、いつの世にもいるものです。明治大正期の具体例として柳田氏があげたのは「ペット」の話でした。

(下p180より引用) 近年の西洋小鳥の流行などは、最初極めて目に立つ方法をもって、五度か七度法外な高値の取引をして見せるだけのことで、それから以上は世間で評判を作り、わずかな間にありうべからざる相場ができ、かねて用意している者を儲けさせてくれる。

 さて、日本人は、柳田氏がいうようなこういう「集団志向性」、別の言い方をすると「無主体性」を脱することができているでしょうか?

(下p181より引用) 無邪気で人の言うことをよく理解する幸福なる気質がわれわれを累わしている。人の多数の加担するような事業に、損を与えるような原因は潜んでおるまいという推測、もしくはいま一段と気軽に判断を他人に任せて、自分はこのいったんの群の快楽に、我を忘れて遊ぼうという念慮は、社会の今日までになる間に、ぜひ通って来なければならぬ必要な一過程であった。

将来(さき)への想い

 柳田氏は、明治大正期においても、現代的な視点で女性の社会的立場に注目していました。
 女性も男性と同じく職業をもち、対等の立場で相協力して社会的生活をおくるべきと考えていました。

(下p131より引用) 若い女性の職業意識は一段と目覚めてきた。専門学校生徒や女学校上級生が夏休みを利用して、何か仕事をしてみようという気風もようやく盛んになってきた。学校が婚姻の便宜を与え、ただ女大学式の良妻賢母を目的とした時代から見ると、その間の移り変わりは少しずつではあったろうが、今に至れば大いなる変遷といわねばならぬ。かくて・・・男女は共に世の仕事に当たり、愉快なる成果を挙げうる日も近き将来にあるであろう。・・・自主と協力の喜びがわれわれを訪るる時、われわれは必ずや幸福になるであろうと信ずるのである。

 反面、明治大正期の男性は、柳田氏の目から見ると甚だ心もとない様子だったようです。
 このような言い方で、女性への期待を表明しています。

(下p218より引用) 男は実際にみなあせっている。微細な人情の変化までに気づかぬほど情が荒び、もしくは、わざとそんなことは大まかに論じようとしている。政治の直接にわれわれの家庭と交渉する部分を、婦人の団体の考察に任せるはよいことである。

 こういった、旧態に拘らず先の進歩・改善を善しとする柳田氏の気概は、この著作のあちらこちらで認められます。

(下p88より引用) われわれの生活方法には必ずしも深思熟慮して、採択したということができぬものが多い。それに隠れたる疾があるとしても、すこしでも不思議なことはない。問題はいかにすればはやくこれに心付いて、少しでも早く健全のほうに向かいうるかである。これを人間の知術の外に見棄てることは、現在の程度ではまだあまりに性急である。

 本書は民俗学の名著のひとつとされているようです。
 この本には、明治大正期もしくはそれ以前の社会の実態・実情を民衆の情動との関わりの中で明らかにすることにより、それをもって将来への礎としようという柳田氏の強い想いがこめられているのだと思います。

(下p219より引用) 改革は期して待つべきである。一番大きな誤解は人間の痴愚軽慮、それに原因をもつ闘諍と窮苦とが、偶然であって防止できぬもののごとく、考えられていることではないかと思う。それは前代以来のまだ立証せられざる当て推量であった。われわれの考えてみた幾つかの世相は、人を不幸にする原因の社会にあることを教えた。すなわちわれわれは公民として病みかつ貧しいのであった。



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