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高瀬隼子 『うるさいこの音の全部』 : 作家は 不幸でなければならない。

書評:高瀬隼子『うるさいこの音の全部』(文藝春秋)

高瀬隼子、といっても「知らないなあ」という人の方が多いだろう。かくいう私もそうで、書店で本書を手に取った段階では、著者の名前には、見覚えも聞き覚えもなかった。ただし、帯に、

芥川賞作家が生々しく描く「作家デビュー」の舞台裏!

「芥川賞受賞、おめでとうございます!」
ペンネームで小説を書いていることが職場にばれてから、現実と小説の境界が崩れていく。
文学賞、名声、変わっていく同僚や友人たち一一一』

とあるから、著者が、たぶん最近の「芥川賞作家」だというのはわかった。

しかし、それだけなら買わなかったのだが、見てのとおり、本書は、著者自身をモデルにした「小説家小説」であり「メタフィクション」ということで、興味が湧いた。
しかしまた、それだけでは、「芥川賞作家の小説家小説」だとはわかっても、「海のものとも山のものともつかない若手作家」の新刊を、評判も聞かぬままに購入することはなかっただろう。

したがって、私が、本書の購入を決めるにあたっては、さらにもうひとつの要因があった。
それは、私が、その著書をすべて読んでいる「直木賞作家」小川哲の新刊『君が手にするはずだった黄金について』を、その時すでに私は手にしており、この小説もまた、作者自身をモデルにした「小説家小説」だったからである。
つまり、「芥川賞作家」と「直木賞作家」、両者の書く、著者自身をモデルにした「小説家小説」の「違い」を、読み比べてみようと考えたのである。そんな、われながら意地悪な意図を持って、この2冊を同時購入したのだ。

さて、本書『うるさいこの音の全部』だが、本書には、180ページほどの表題作長編(エンタメ小説なら「長めの中編」?)と、70ページほどの、主人公を同じくする短編が収められている。

総じていうなら、表題作は「面白かった」、短編の方は、純文学としては作りすぎの「凡作だった」ということになろう。

小川哲の『君が手にするはずだった黄金について』との比較で言うなら、小川作の方は、作者自身をモデルとしつつ、完全な「別人格」を「別人格」と感じさせないように作り上げているという点で、いかにも「エンタメ作家」であり「直木賞作家」だと言えるだろう。

一方、本書『うるさいこの音の全部』は、著者自身をモデルにしつつ、あくまでも「虚構の人物(小説家)」を構築しておいて、しかし、そこでおもむろに、自身の自意識を強く滲ませているところが、やはり「芥川賞作家」というべきか、いわゆる「純文学作家」というべきか。

したがって、両者を比較して「どっちが上」だなどということは言えない。目指すところが、まったく違うからだ。

小川作の方は「読者を楽しませるための作品」であり、作者自身をモデルとした「小説家小説」にしたのも、「読者を楽しませるための仕掛け」であると断じてよかろう。だからこそ、作中の語り手である「僕」は、周囲の人たちから「小川」と呼ばれており、作者が意図的に読者を、「実在の作者」と「虚構の僕」との「同一視」に誘導しているというのは明白だからである。
もちろん、多くの読者は、それが別物であることくらいは、頭では理解しているが、それでも、つい「重ねてしまう」ように、作者は誘導しているのである。

一方、本書『うるさいこの音の全部』の場合は、「現実の作者名(と本名)」と「作中の作者名(と本名)」が違っている。だから、形式として「作中の私」と「現実の私」は、年齢や経歴やデビュー経緯などが似ているようであっても、「別物」ですよ、ということが明示されており、だから「単純に同一視したりしないでくださいね」と、あらかじめ読者に釘を刺している。
また、表題作の方では「読者による、作者と作中人物の混同」の問題が「苦々しいもの」として否定的に描かれている。
「作者がどんな人間かなんて、どうでもいいことでしょう。そんなデバガメ根性ではなく、もっと素直に作品を読めないんですか?」という苛立ちが、単なる「作中人物の想い」としてではなく、「作中人物に託された、作者自身の想い」として、結構ストレートに描かれていると、そう断じてもいいだろう。
つまり「ストレートに描かれている」と見せかけて、実は「そんなことないんだよ〜ん(てへぺろ)」ということではないと、私は「素直」に読み取ったのだ。

『「へー、ナガイさんていい人だけど、小説なんか書いてたんだ」

ゲームセンターで働く長井朝陽の日常は、「早見有日」のペンネームで書いた小説が文学賞を受賞し出版されてから軋みはじめる。兼業作家であることが職場にバレて周囲の朝陽への接し方が微妙に変化し、それとともに執筆中の小説と現実の境界があいまいになっていき……職場や友人関係における繊細な心の動きを描く筆致がさえわたるサスペンスフルな表題作に、早見有日が芥川賞を受賞してからの顛末を描く「明日、ここは静か」を併録。

分かんないだろおまえら、と相手も定かではないまま喚き散らしたい。』

上は、帯背面の内容紹介文だが、まさに、こういう小説である。

『 わたし「推し」で気持ちが分からないんだよね、というのが(※ 主人公・長井朝陽の古い友人の)帆奈美の考えだった。帆奈美は小説が好きで、漫画が好きで、絵本や児童書も好きで、とにかく活字で書かれたフィクション全般が好きで、だから書店員になったわけだけど、推しはいないのだ。好きな作家はいて、この作家の本を出たら、絶対に買って読む、ということはある。けれどもその作家自身の性別や年齢や出身地や生い立ちや、趣味嗜好やライフスタイルに全く興味がない。いっそ知りたくない、と思っている。活字フィクションではないが、映画やアニメも好きで、好きな俳優も好きな声優もいるらしいが、その俳優が出ている映画は演技がいいから見るだけで、俳優の私生活に興味はないし、新作アニメの配役が発表されて好きな声優の名前があればうれしいけれど、声優の顔はなるべく知らないままでいたいし、顔が見えなくても声優がラジオで自分のことを話すのは聞きたくないのだという。声優が歌って踊るイベントなどは論外だ、と以前真顔で話していた。帆奈美は書かれた言葉が、演技が、好きなのだ。アウトプットされた至高の部分だけを求める。それはなんだか、とても真っ当なことのように朝陽には思える。』(P70)

「小説を書いている」とか「文学賞受賞作家」だとかいうことで、作品の方ではなく、作家の方に興味を持ち、かつ作品の上っ面を撫でただけの「色眼鏡」を通して作者を見ようとするような(文学賞大好き・有名人大好き)ミーハー読者を相手にするのが嫌でたまらない朝陽は、だからこそ帆奈美のような読書好きなら、変な気を遣わずにつき合える、ということだ。

ちなみに、私は、自慢ではないが、この帆奈美に近いタイプである。
つまり、作品が全てであり、作者なんかどうでもいい。

ただし、作品が素晴らしければ、あるいは「嫌な作品」であれば、作者は「どんな人間性の持ち主なんだろう?」という興味の持ち方はする。
私の場合、夏目漱石『こころ』で、活字本を読むようになったような人間なので、最も興味があるのは「人の心」なのだ。良い面も悪い面も含めて。
だから、「こんな素晴らしい作品を描ける作者って、どんな人なんだろう?」とか、その逆に「こんな嫌ったらしい小説を、先生ヅラして書いているやつの正体って、どんなものなのか暴いてやりたいものだ」なんて思ってしまうのである(から、タチが悪い)。

だから、帆奈美と同様に、作家の『性別や年齢や出身地や生い立ちや、趣味嗜好やライフスタイル』自体には、全く興味がない。
しかし、それらの情報を参考にしつつ、その作家の「内面」を探ることには興味がある。
たしかに、作品がすべてではあるのだけれども、だからこそ、作者の表面的な「社会的属性」などではなく、その作品を生んだものとしての作者の「中身」には興味があるのだ。

まただからこそ、好きな俳優や声優がいたとしても、そっちの方は、「社会的属性」だけではなく、「中身」にも興味がない。
なぜなら、彼らの多くは「作家=創造者」ではないからである(大雑把に言って、作品の「スタッフ」であろう)。

『 バイトの男の子が、二つのトレーを器用に同時に運んできた。朝陽の前にチンジャオロース、ナミカワさんの前にホタテのエックスオージャン炒めが置かれる。「ありがとうございます」と声をかけると、男の子が笑顔で小さく会釈した。その子が席を離れて厨房の方へ姿を消すと、ナミカワさんが、
「大丈夫。あの子は日本人だから。大学生だよ」
 と小さな声でこっそりというふうに言ったので、慌てて、
「ナミカワさん、わたし中華料理好きですし、中国の人に悪い感情も持っていないですから。大学生の時、中国に遊びに行ったこともあります」
 と、これも小さな声で返す。ほんとうのことなのに、自分でも言い訳をしているみたいに聞こえる声だった。朝陽はもっと毅然とした声で話すべきだった。ナミカワさんは「そうなの」と頷いたが、今書いている小説をこの人が読んだらどんなふうに思うだろう、と朝陽は胃の中が冷たくなる。主人公の軽薄さを表現するために差別的な言動を書いているのだと説明したら、どんな反応が返ってくるだろう。「だけどその差別的な言動っていうのを考えて書いたのもあなた自身だよね」と言われたら、そのとおりだ。自分の中にないものは書けないはずだよね、って問うてくる人に「そんなことない」と言い返す気概が、朝陽にはない。ほんとうにそうだろうか、と疑う自分の方が強くいる。』(P106〜107)

最後の部分は、たぶん「よくある葛藤」であろう。
つまり「差別的な人間をうまく描ける作家には、差別的な人間と同じ部分がある」わけであり、それを否定することは「嘘になる」という葛藤だ。

だが、この程度の葛藤は、私に言わせれば、ナイーブであり、初歩的すぎるとも思う。
つまり、いかにも「文学らしい」葛藤ではあるが、所詮は「素人だまし」である。作者が、本気で書いていればいるほど、なおさら「甘い」と言わざるを得ない。

どういうことかというと、「差別的な人間をうまく描ける作家には、差別的な人間と同じ部分がある」というのは、事実なんだから、否定することはできないし、また否定する必要もない、と私は考えるのだ。

自分を「いっさい汚れのない人間」だと思ってもらいたいなんて厚かましいことを考えるから、「差別的な部分」を否定したくなる。しかし、真の問題は「差別的な部分があること」ではなくて、それがあった上で、それを「乗り越えているか否か」であり、そこが重要なのだ。
つまり「差別的な部分」が、「経験」として残っていたとしても、それを「適切に処理して無効化している」のであれば、処理済みの「差別的な部分」というのは、むしろ善に転用できる「有効な経験」であり「武器」にさえなるものなのだから、それを恥じる必要はどこにもない、ということだ。

もちろん、こうしたことは「一般人」には理解しにくいことかもしれないが、仮に「だけどその差別的な言動っていうのを考えて書いたのもあなた自身だよね」とか「自分の中にないものは書けないはずだよね」と言われたら、それに対しては、ニヤリと笑って「そのとおり。悪をも知って、それを乗り越えた者こそが、善としても強いのだよ」と、冗談めかして言えば、それで済む程度の話なのである。
要は、主人公の「小心さ」というのは、思考の突き詰めの不十分さ、不徹底によるものでしかないのだ。だから「甘い」。

『 ナミカワさんが本をぱらぱらめくりながら、
「アドさんのモデルってあの人でしょ。メダルの競馬ゲームに週一ペースでずっと来てる人」
 と感心したように言うので、朝陽は慌てて否定した。
「えっ、モデルとかは別に、考えてなかったんですけど」
「えーっ、でもすぐあの人の顔が浮かんだよ。歳もそうだけど、存在は覚えているのに直接見てる時以外は顔立ちがはっきり思い出せない感じとか。まぁいいじゃんいいじゃん、わたしは読んでてそう思ったの」
 読んだ人にそう思ったと言われると、書いた者はなにも言えない。口をつぐんで俯いた。
「ねぇ、あれってさぁ、作り話なんだよね?」
 ナミカワさんが少し、声を小さくする。その分、隣のテーブルに座るアルバイトの男の子も耳の感度を上げたのが分かる。
「中国人と付き合ってたとか、就活で行った先で再会して、いなくなって多分死んでて、みたいなのって、嘘だよね? いやー分かってるんだけど、主人公の勤務先がゲームセンターだし、どうしてもナガイさんに重ねちゃって」
 嘘だと分かっているから、ナミカワさんは平気でわたしに抱きついたりするんじゃないのか、と朝陽は思い、わざわざ確認できてしまうナミカワさんのような人の方が恐ろしくて、当たり前じゃないですかあ、とわざとらしく彼女の腕を押すようにして叩いてみせる自分のことも恐ろしい。
「ほんとうなわけないじゃないですか。ないない。ないですって」
 ないにないを重ねて何重にも否定しながら、朝陽は「ほんとうなわけない」と自分が発した言葉に傷つく。小説はほんとうではないのだろうか。嘘だけど嘘じゃないのに、事実ではないけどほんとうではないと言ってしまっていいのだろうか。』(P180〜181)

『嘘だと分かっているから、ナミカワさんは平気でわたしに抱きついたりするんじゃないのか、と朝陽は思い、わざわざ確認できてしまうナミカワさんのような人の方が恐ろしくて、当たり前じゃないですかあ、とわざとらしく彼女の腕を押すようにして叩いてみせる自分のことも恐ろしい。』一一という部分が、たぶん分かりにくいだろうから、解説しておこう。

まず(※ わたしの小説が)嘘だと分かっているから、ナミカワさんは平気でわたしに抱きついたりするんじゃないのか、と朝陽は思い、わざわざ確認できてしまうナミカワさんのような人の方が』なぜ恐いのかというと、小説に書かれていることは「嘘」であり、作者は「そんな(嫌な)人ではない」とナイーブに信じているから、逆に、作者にはそういう部分もあるんだと「正しく理解する」と、途端に、朝陽を嫌悪するようになる蓋然性が高いためである。その、単純さが恐いのだ。

で、『当たり前じゃないですかあ、とわざとらしく彼女の腕を押すようにして叩いてみせる自分のことも恐ろしい。』というのは、自分の中に、そんな「嫌悪を誘う要素」があるのを自覚していながら、気づかない相手の思慮の浅さにつけこんで、そういうもの(邪悪さ)など持たない「単純に良い人」を演じて見せる自分が、まさに「嫌なやつ」だと自覚されて恐ろしい、ということである。

だが、私に言わせれば、こんなものは、どちら(帆奈美も朝陽)もナイーブで、可愛らしいものでしかない。
もちろん、私はぜんぜん褒めていない。

『 人に嫌われたくないけど、人に嫌われるようなことを書くのは平気だから不思議だ。いい人に見られたいし、付き合いがいい方だと思われたいし、一緒にいて楽しいとか、気楽だとか、おもしろいとか思われたい。めんどうなやつだとは思われたくなくて、嫌なやつだとか恐いやつだとかも、絶対に思われたくない。そのことと、小説を書くことは、自分の中で矛盾したまま両立している。』(P127)

半分は同感で、半分は、少し違う。
『人に嫌われたくないけど、人に嫌われるようなことを書くのは平気だから不思議だ。』というのは、おおむね同感だが、突き詰めて考えれば「不思議」とも言い得ない。
なぜなら「書く」という行為は、普通、ワンクッションあるからである。つまり、読者の目の前で、それを読まれながら書くわけではないから、書けるのだ。
もしもそんな状況なら、なかなか本音は書きにくく、数段その敷居は高くなるだろう。

『いい人に見られたいし、付き合いがいい方だと思われたいし、一緒にいて楽しいとか、気楽だとか、おもしろいとか思われたい。めんどうなやつだとは思われたくなくて、嫌なやつだとか恐いやつだとかも、絶対に思われたくない。』一一これは、基本的には私も同じだけど、そう思われるための努力が面倒になるのと、良い人を演じていると、時にそれにつけ込んでくるやつや、舐めてくるやつもいるから、面倒なので、「本当は怖いんだぜ」ってところも見せておいた方が「一目置かれて、楽でいい」ということもあり、私の場合は、過剰に無理して「いい人」たろうとはしない。
つまり、私の目指すところは「普通につき合っていれば、いい人なんだけど、怒らせると怖い人」という線である。

したがって、『そのことと、小説を書くことは、自分の中で矛盾したまま両立している。』という朝陽とは違い、私の場合は、すでに現実的な線で、生活と文章は、それなりに折り合いがついている。

『 本の表紙の写真の方が、 朝陽の顔写真より何倍も大きく目立っていて、安心する。朝陽のことなんかどうでもいいんだから、本の話をしてほしい。ほんとうは、本だけを載せてほしいのだけれど、そういうわけにもいかないらしく、作者の話も合わせて載せられる。インタビューを受ける度に、もっとおもしろい人間だったらよかったと切実に思う。生まれも育ちも特筆することがない。大きな功績もない代わりに大きな不幸もない。凹凸の少ない平坦な人生を歩んできたのだ。取材に来る記者の人生の方がもしかしたらいろいろあるのではないかと思うし、取材を受けるときにいつも同席してくれる(※ 担当編集者の)瓜原さんは中学校を卒業する年齢まで、瀬戸内海にある人口三百人の島に住んでいたというから、絶対そっちの方がおもしろい。』(P152)

これなんかは、私が「自己紹介」で書いていることと、そっくりである。曰く、

『私自身など どうでもいいんだけれど、書いたものは読んで欲しいので、自己紹介します。』

これまでに何度も書いてきたことだけれど、私も凸凹のない実人生を歩んできた。
親兄弟とは、仲が良かったし、金銭で困ったことなど一度もない。大きな功績もない代わりに、人から羨まれるような幸運にも何度か恵まれてるし、けっこう好きなように生きてきた人間で、自分の人生に満足している。

もちろん、もっと男前(イケメン)に生まれたかったとか、モテモテでありたかったとか、広く世間の賞賛を浴びたかったというような気持ちがないわけではないけれど、それが満たされたとして、それで今のように幸せになれたとも思えないので、結論としては、これでよし、という感じになるのである。

で、ひとつ言えることは、このように「きっぱりと割り切れる人間」は、幸せではあろうけれど、作家にはなれないということである。
作家というのは、おおむね、解決できない矛盾をうじうじと抱えているものであり、だからこそ、作品が生み出せる。
悩みが解決されて、悟ったりなんかしたら、「別の世界」を求める創作なんぞできないからだ。


(2023年10月26日)

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