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餃子に救われた元ミュージシャン。ダンジー餃子の店主が挑む世界進出

平田幹裕さん
福岡県出身。株式会社有名餃子代表取締役。大学卒業後に始めたバンド活動の傍ら、モノマネタレントとしても活動を始め「ダンジー」の芸名で活躍。所属していたバンドがデビュー目前に解散したことを機に、学生時代からの趣味だった餃子作りに没頭。自身が餃子に救われた経験から「餃子で人の役に立ちたい」と、2010年に「餃子BARダンジー」をオープン。2015年よりグルメ餃子専門店「ダンジー餃子」として新宿に店舗を構える。これまでに開発した餃子は90種類以上。TVや雑誌など数多くの取材を受け、2023年には大山鶏のだしを練り込んだ冷凍餃子「シンデレラ餃子」がジャパンフードセレクションで金賞を受賞。

夢を失い引きこもっていた日々。前を向かせてくれたのは餃子だった

――平田さんのプロフィールを拝見して、まず気になったのが「餃子に救われた」という部分でした。

私、若い頃にバンドを組んでいたんです。当時は珍しい、子供と一緒に歌って踊れるような曲を作っていました。

当初はなかなか売れなくて苦戦したんですが、いろんな幼稚園や保育園に行っては歌って、初めは興味なさそうにしていた子供たちも笑顔で一緒に歌ってくれるようになりました。人を喜ばせることが大好きなので、自分の作った音楽で子供たちの笑顔を見られることが嬉しくて嬉しくて。

じわじわと口コミで広がっていって、7~8年かけて「ようやくデビューできるぞ」というところで事務所のトラブルが起こり、デビューどころではなくなってしまったんですね。その後、バンドはやむを得ず解散しました。

――デビュー目前にして納得いかないまま、バンド活動を諦めざるを得なかったと。

私はバンドに人生をかけていたので、それ以来家に引きこもってしまって、うつ病になってしまったんです。毎日毎日、事務所のことを恨んでいて、最初はネガティブな自分を受け入れることすらできませんでした。「自分はこんなもんじゃないよね」って。そんな中でも毎日やっていたのが、“餃子を作ること”でした。

――なぜ餃子だったんでしょうか?

もともとラーメンが好きで、学生時代に色々なお店のラーメンを食べ歩いていたんです。でも、どんなにラーメンがおいしくても、餃子がおいしいお店に出会ったことはなくて、どうしても餃子が脇役的な立ち位置になってしまっているなと。じゃあ自分でおいしい餃子を作ってみようということで、その頃から餃子作りにのめり込みました。

落ち込んでいる日々の中でも、餃子のことを考えている時間だけが私の喜びでした。例えば「昨日はしょうがを50グラム入れたから、今日は60グラム入れてみたらどんな風になるんだろう」とかワクワクしながら実験していました。

半年ぐらいそういう生活をしていたんですけど、徹底的に人を恨んでいると“恨み疲れ”をするんですね。餃子を作ってる方が楽しくて、どんどん前向きになってきたというか。現実を受け入れられるようになってきて、「事務所を選んだのも自分じゃないか」って。

――ネガティブなことも受け入れて、前を向かせてくれたのが餃子だったんですね。

ネガティブな自分を責めてた時もありましたが、毎日餃子を作りながら自分と向き合ううちに「ネガティブな自分も自分だから、そんな自分を愛してあげたい」って思えるようになったんです。そうして私は餃子に生かされたので漠然と「餃子でどうにかして人の役に立ちたい、餃子を世界に広めたい」と思いました。

調べてみると、餃子って海外では“餃子”としての認知がほぼないんです。というのも、 寿司なら“SUSHI”、天ぷらなら“TEMPURA”という風にそれぞれ認知されてますけど、餃子は“dumplings”っていうんですね。そうではなくて、“SUSHI,TEMPURA,GYOZA”と言ってもらいたいなと思ったんですよ。

人生が反映された、こだわりの“だし餃子”で革命を

――平田さんはこれまで90種類以上の餃子を作られているそうですが、こだわりのひとつは「にんにくを使わないこと」だと聞きました。それはどんなきっかけだったんでしょうか?

実を言うと、20代の時はにんにくをバリバリ入れていたんですね。「餃子=にんにくだろ!」って思っていたので。でも30代に入って、デビュー目前でバンドが解散したことを機に、にんにくを一切使わなくなりました。

私も含めて8人のバンドだったんですけど、私が作詞も作曲もできるし、ギターとボーカルをやっていたので目立つポジションにいて、なんだかメンバーみんなを自分が動かしてるような感覚に陥っていたんですね。 でもバンドが泣く泣く解散して、否が応でも自分と向き合うようになった時に、はっとしたんです。「なんて私は傲慢だったんだ」と。メンバーが私のことを受け入れてくれて、自由にやらせてくれたから曲作りができて、前面に出てパフォーマンスができていたんだ、と。

にんにくの風味ってガツンと前面に出てくるので、主張が強いあまり他の食材の良さをかき消してしまうこともありますよね。でもにんにくの良さが際立つのは他の食材あってこそです。それで私自身がバンドにおいて、餃子で言うところのにんにくのような存在だったんだと気づいたんです。

――メンバーがいたからこそ、平田さんの良さが生かされていたことを忘れてしまっていたんですね。

それからはにんにくを一切使わずに、食材同士が手を合わせて、にんにくに負けないパンチを奏でられたら素晴らしいよね、ということで研究を続けました。バンドでは、ベースやドラムがグループを支えている低音の部分なんですね。あとで説明しますが、それが私の作る餃子で言う“だし”なんです。だしがあるからこそ、しそ餃子だったらしそという“上物”、楽器で言うギターやトランペットが映える。要は私の人生が餃子に反映されているわけです。

――ちなみに、にんにく入りの餃子が恋しくなったことはないですか?(笑)

にんにく自体は好きなんですけど、他の料理で食べているので大丈夫ですよ(笑)自分が作る餃子はにんにくがなくてもしっかり味がありますから、物足りなさは感じません。

――先ほどお話しに出てきましたが、「ダンジー餃子」の餃子の特徴は鶏のだしが練り込まれていて、なおかつ無添加なことなんですよね。餃子にだしを入れるアイデアは、いつ頃からあったのでしょうか?

20代の頃ですね。学生時代に中華料理屋でアルバイトしていたのですが、そこの料理が感動するくらいおいしかったんです。店主に聞いたら、化学調味料に頼らずにだしを一からとって、料理に使っているとのことでした。

私はその話を聞いて以来だしの研究にハマって、試しにだしを入れた餃子を作ってみたら、 全くだしの味がしなかったんです。それが悔しくて、どうやったらちゃんとだしの味がするんだろうと試行錯誤していました。家でも鶏を丸々一羽買ってだしを炊いてたので、「獣の匂いがする」って警察に通報されたこともありましたね(笑)

――無添加で作られているということですが、もともと食や健康に関心をお持ちだったんですか?

初めはあまり意識していなくて、餃子の実態について研究していくうち、気づいたら無添加になっていた、というのが正直なところです。本当のうまみを追求していたら辿り着いたのが、だしを練り込む製法だったんです。

私は人に喜んでもらうことが好きなので、人に喜んでもらうためだったら、手間暇を惜しまない。 だけど手間をかけることは経営面で考えたら効率が悪いし、人件費もかかりますよね。なので、例えば大手企業で作られている冷凍餃子は、効率よく大量生産をするために化学調味料などの添加物やラードをたくさん使って、手早く旨味を感じられるような製法をしているんです。

でも私は、“子供からお年寄りまで、みんなが安心して食べられる餃子”を作りたかった。それを実現できるのは、やっぱりだしを練り込んだ餃子しかないと確信したんです。この“だし餃子”で餃子界に革命を起こしたいと、本気で思っています。

――平田さんの餃子にかける熱い想いは、やはりご自身の経験がモチベーションになっているんでしょうか?

間違いなくそうですね。私が餃子に救ってもらったから、他の人にも還元していきたい。自分の餃子で役に立つことができて、貢献できたら嬉しいなと思います。

だから、添加物だけでなくにんにくも使わない。それは私のかつての経験もありますが、食べる人のことも考えているので、ただの“だし餃子”じゃなくて、“想いやりだし餃子”と名付けました。

実は今、店舗以外に工場で製造する準備をしています。今まではずっと私が店舗に立って作ってきたんですけど、今後は発信する立場になっていきたい。そのために技術をレシピ化して、 私がいなくても作れるようなオペレーションをしていくために、私は店舗を離れて、工場を構える必要がありました。

「餃子は我が子」餃子と共に一歩ずつ歩む

――そんな“想いやりだし餃子”を発信していくために、これからやりたいことを改めて教えてください。

餃子を世界に羽ばたかせたい、というのは最初にも言いましたが、オーストラリアでお店を出したいと思っています。

2013年に、モノマネの仕事でオーストラリアに行ったときのことです。オーストラリアの人って愛想笑いや作り笑顔がなくて、良い顔で笑ってくれるんですね。ふくよかな体つきのおばちゃんなんかは、笑顔がキラキラしていて最高でした。その笑顔が、バンドをやっていた時に幼稚園や保育園で出会った子供の純粋な笑顔と重なったんです。その笑顔を見て「ここでお店を出したい」と直感的に思いました。

本当のことを言うと、飲食店をやるのはそんなに好きじゃないんです。それでもお店を出したのは、やっぱり自分を救ってくれた餃子をもっと広めたいから。わかりやすく言うと、餃子は自分にとって子供みたいな存在なんですよ。「可愛い我が子のためだったら、父ちゃん頑張るよ!」っていう想いで日々奮闘しています(笑)

――バンド活動をされていた20代の頃からひたむきに餃子と向き合ってきてこられましたが、今振り返ってみてどう感じますか?

「餃子が進化していく中で、自分自身もプラッシュアップされてるな」と常に思っています。なので「今あるのが自分の餃子」っていうんじゃなくて、まだまだ進化してるし、私の生き様が餃子にも反映されています。自分自身も成長していきながら、その中で少しでも貢献できればという想いでいます。

――今が完成形ではなくて、餃子もまだまだ成長過程ということですね。

人間は死ぬまで成長するものだと思っているし、私は死ぬまでワクワクしたい。ワクワクするにはやっぱり成長していかないといけないですよね。そのワクワクすることが私にとって餃子なんです。私は神様から「音楽」「餃子」「モノマネ」という3つのギフトを与えていただいたと思っているので、自分の役目を全うしたいし、これからも餃子と一緒に一歩一歩成長し続けていきます。

――“GYOZA”のオーストラリア進出、楽しみにしています。今日はお話しを聞かせていただきありがとうございました!

ダンジー餃子のHPはこちら

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