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クリス・ヒルマン自伝『Time Between』から見る、カリフォルニア産カントリーロックの系譜(その4: 1980年代のソロ〜デザートローズ・バンド)

ザ・バーズ、フライング・ブリトー・ブラザーズ、マナサス、デザートローズ・バンドなどで活躍してきたクリス・ヒルマンの自伝『Time Between — My Life As A Byrd, Burrito Brother, And Beyond』(2020年刊行)から、彼の足跡を辿る連載の4回目。今回は80年代のソロ活動からデザートローズ・バンドとしてのカントリー界での成功とその周辺を取り巻く音楽業界の流れを見ていく。

ルーツ回帰のアコースティックアルバム『Morning Sky』

『Morning Sky』(1982年)

1970年代後半のディスコブームを経て80年代に入ると、ロックは巨大なビジネスと化していく。大物アーティストはスタジアムでのツアーが当たり前となり、稼げるアーティストとそうでないアーティストの棲み分けが進む。加えて、ロックと映像とを結び付ける動きが加速。猫も杓子もプロモーションビデオを制作する時代がほどなく到来する。そんなビジネス主導の音楽界においては、「時代遅れ」の烙印を押された末にドラッグやアルコールに逃げてしまうミュージシャンも数多くいた。バーズのオリジナルメンバーでは、ジーン・クラークマイケル・クラークがそうだったし(ともに90年代初頭に40代で死去)、奇跡的にその後復活することができたものの、当時は投獄されるほど最悪の状況だったのがデイヴッド・クロスビーだった。そんな中、クリス・ヒルマンがキャリアを長らえることができたのは、ひとつには、彼が80年代以降、いわゆる「ロック」のメインストリームと一定の距離を置くことができたからかもしれない。

そのきっかけとなったのは、フォークやブルーグラス専門の独立レーベルとして知る人ぞ知る、シュガーヒル・レコードだった。1981年、このシュガーヒルが、1963年にヒルマンが参加したブルーグラスバンド「ゴールデンステートボーイズ」(本連載の1回目で紹介)の音源の2度目の再発権を得る。そして、その一連の流れから、ヒルマンはシュガーヒルと新たにアコースティック・ソロアルバムを出す契約を結ぶことができた。プロジェクトに先立ってヒルマンはまず、マナサスやSHFバンド時代の同僚、アル・パーキンスに声を掛ける。ヒルマンのギターとマンドリン、パーキンスのギターとドブロというアコースティックデュオを組み、ミニツアーを行ったのだ。このツアーで得た感触は、過去数年のうちで最も音楽的な幸せを感じるものだったとヒルマンは回想している。

アルバムのレコーディングには、パーキンスに加えて、ハーブ・ペダースン、ケニー・ワーツ、バイロン・バーライン、エモリー・ゴーディ、バーニー・レドンといった西海岸ブルーグラス畑の旧友たちが参加。こうして完成したアルバム『Morning Sky』(1982年)は、アルバムタイトルとなったダン・フォーゲルバークの曲のほか、ボブ・ディラン、クリス・クリストファソン、J.D.サウザー、ダニー・オキーフ、グラム・パーソンズなどの曲をリラックスした雰囲気でカバーした好盤となった。(下は当時のテレビライブ映像より。バーニー・レドン(banjo)、アル・パーキンス(gu)がバックアップ)

アルバムの制作予算はわずか6千ドルだったが、ヒルマンにとってロックバンド時代には忘れていた純粋な喜びを感じられる作品となっただけでなく、弱小レーベルのシュガーヒルにとっても満足のいくセールスを記録した。ヒルマンによると、シュガーヒルの社長、バリー・ポスはレコードビジネスの中にあって珍しく正直で誠実な人物で、予算こそ小さいものの、十分な印税を支払ってくれたという。シュガーヒルと結んだ契約書は、細かい追加条項などほとんどない、わずか2ページのものだったという。

アルバム『Desert Rose』─西海岸カントリーサウンドの再現

『Desert Rose』(1984年)

アルバムの発表に合わせてヒルマンは、新たに4人編成のアコースティックバンドを編成する。前述のアル・パーキンス(gu. dobro)、バーニー・レドン(banjo)に加え、エルヴィスのラスベガス・バンドにいたベテランベーシスト、ジェリー・シェフ(ちなみに、彼は、80年代にピーター・セテラに代わってシカゴに参加したジェイソン・シェフの父親)が参加。このバンドでの演奏に満足したヒルマンは、シュガーヒルからの新たなアルバム制作のオファーに際して、アル・パーキンスにプロデュースを任せる。2声ハーモニーを活かした古いカントリー作品をエレクトリック楽器も入れて演奏するというコンセプトがまとまり、前回の主要メンバーのほかに、やはりエルヴィスのバンドにいた(その後、グラム・パーソンズやエミルー・ハリスのバックも務めた)ジェイムズ・バートン(gu)やロン・タット(ds)、グレン・D.ハーディン(p)らが参加、さらに60〜70年代の西海岸カントリーロックの縁の下の力持ちだった、ボブ・ウォーフォード(g.)やジェイ・ディー・マネス(steel)らもこれに加わった。『Desert Rose』(1984年)と名付けられたこのアルバムでは、多くの曲でハーブ・ペダースンをデュエットパートナーに迎えてルーヴィンブラザーズやウィルバーンブラザーズなどの兄弟ハーモニー作品がカバーされていた。バック・オウエンズ(と彼のバンドのドン・リッチとのデュエット)にも通じる、西海岸カントリー(ベイカーズフィールド)サウンドの再現とも言える内容だった。

このエレクトリック編成のアルバム発表後も、ヒルマンは前述のアコースティック・カルテットでの演奏活動を続ける。そして、1985年にはこのバンドにデイヴィッド・マンスフィールド(fiddle)を加えた5人で『Ever Call Ready』というブルーグラスゴスペル・アルバムをマランサというクリスチャン音楽レーベルから発表。また、同じ年、ハーブ・ペダースンともども、ダン・フォーゲルバーグのブルーグラスアルバム『High Country Snows』のレコーディングとツアーにも参加している。

Dan Fogelberg『High Country Snows』(1985年)のジャケット中面見開き。下段左から3人目がクリス・ヒルマン

『The Desert Rose Band』

こういった流れの中から生まれたのが、前ソロ作のタイトルをバンド名に冠した、ザ・デザートローズ・バンドだった。70年代のロックバンド時代の苦い経験からエレクトリック編成のバンドを組むことに当初消極的だったクリスだが、バーニー・レドンに変わってギターとマンドリンで加わった野心溢れる若いメンバー、ジョン・ジョーゲンソンの強い進言によって、最終的にドラムスを加えたバンド編成に同意したのだ。1986年初頭、LAのカントリークラブ「パロミノ」での数回のショーで好評を博した彼らは、カーブレコードとの契約を勝ち取る。メンバーは、ヒルマン(vo. a.gu)、ペダースン(vo. a.gu)、ジョーゲンソン(vo. a/e gu. mandolin)に、70年代にブルーグラスグループ「ブルーグラスカーディナルズ」にいたビル・ブライソン(vo. b)、バーズの『Sweetheart of the Rodeo』にも参加していたベテラン・スティール奏者のジェイ・ディー・マネス、そして70年代にリック・ネルソンのバンドにいたスティーヴ・ダンカン(ds)の6人編成だった。

『The Desert Rose Band』(1987年)

こうして1987年6月にファーストアルバム『The Desert Rose Band』がリリースされる。その中からクリスのソロアルバム『Desert Rose』でも取り上げられていた、古いカントリー曲のカバー「Ashes of Love」がファーストシングルとしてカットされ、ビルボード・カントリーチャートのトップ20に入るヒットとなる。個人的な話になるが、その年アメリカのアイダホ州に留学していた私は、カントリーラジオ局から不意に流れてきたこの曲に驚いた。クリスのソロアルバム『Desert Rose』で聞き慣れた曲だったが、アレンジが微妙に異なっていたし、まさかカントリー専門局から彼の歌声が聞こえてくるとは思っていなかったからだ。しかし、その後まもなくしてクリス・ヒルマンが新しいバンドを結成したと知り、喜びいさんでアルバムを買いに行ったものだ。アルバムの内容は、前ソロ作『Desert Rose』で打ち出した伝統的な西海岸カントリーサウンドに、少しのブルーグラス風味とコンテンポラリーな要素を加えた、ハーモニーの美しい、まさに「カントリーロック」と言えるものだった。もっともその当時「カントリーロック」という言葉は完全に死語だったが。

続いて2枚目のシングルとしてカットされたヒルマンのオリジナル曲「Love Reunited」は、ビルボード・カントリーチャートのトップ10入りを果たした。自作の曲で商業的成功を収めたことがほとんどなかったヒルマンにとって、これは予想外の嬉しい出来事だったようだ。

ちょうどその曲がヒットしている頃、私は幸運にも彼らのライブに触れることができた。私がいたアイダホ州の町からグレイハウンドバスで2時間くらい北上したワシントン州第2の都市スポケーンに、ベラミー・ブラザーズの前座としてデザートローズ・バンドがやってきたのだった。フライング・ブリトーズ時代と似たようなヌーディ・スーツに身を包んだ彼らの演奏は、新しいバンドとしてのいききとした一体感もあり、期待に違わぬものだった。スポケーンという町は、バーズのオリジナルドラマー、マイケル・クラークの出身地で、今でも憶えているのは、ヒルマンが「マイケル・クラークに捧げます」と言って、バーズ時代の自作曲「Time Between」(デザートローズ・バンドのファーストでセルフカバーしている)を演奏したことだ。

80年代後半は、ロックからカントリーへの移行がある種のトレンドに

デザートローズ・バンドの快進撃は、その後も続く。もっとも、これはカントリーミュージックのジャンルでの話であって、一般のロックファン、特に日本のロックファンの間には、そういった動向はあまり伝わっていなかったのではないだろうか。不思議なことにアメリカの音楽業界において、カントリーというジャンルはメインストリームの「ポップ」のジャンルとは全く別のカテゴリーとして成立している。この点は「R&B」として区別されている黒人音楽にもある程度似通っていると思うが、カントリー系のアーティストの楽曲やアルバムがポップチャートにもクロスオーバーして全国区・全人種的なヒットとなる例は多くなかった。80年代当時であれば、ケニー・ロジャースドリー・パートンウィリー・ネルソンオークリッジボーイズくらいだろうか。それも、ケニー・ロジャースは元々純粋なカントリー畑の出身ではないし、彼やドリー・パートンの場合は、映画やテレビなどを通して、また、ポップス界の有名プロデューサーを付けるなどして、意識的にポップス市場に分け入って来たといった印象だ。やはり、ナッシュビルを拠点とするカントリー界は、メインストリームの市場とは業界構造的に棲み分けされているのだろう。

そういった観点から言うと、この1980年代中盤から後半にかけてのアメリカ音楽業界においては、興味深いひとつの動きがあった。それは、かつてメインストリームでヒットを飛ばしていた、今で言うアメリカーナ志向のアーティストたちの多くが、打ち込みのダンスミュージック全盛のポップチャートでは立ち行かなくなり、カントリー市場に「鞍替え」するという動きが進んだことだ。その成功例として代表的なのはダン・シールズニッティグリティ・ダートバンドだが、ほかにも、エグザイルサザンパシフィックニコレット・ラーソンジョナサン・エドワーズマイケル・ジョンソンなどがそうだったし、オーリンズですら一時期はカントリー市場に転出していた。また、職業作曲家としてナッシュビルで仕事をする道を選んだ、ウェンディ・ウォルドマンエリック・カズビル・ラバウンティのような人たちもいた。クリス・ヒルマンのデザートローズ・バンドも、いわばそういった流れに乗った形だった。演奏している音楽の内容は以前とさほど大きく違わないのに、市場の変化によって、戦いの場を移さざるをえなかったのだ(かく言う私もリスナーとして新しいポップス市場には付いていけずに、カントリー市場に軸足を移すようになっていた)。

2作目『Runnig』(1988年)

88年に発表されたデザートローズ・バンドのセカンドアルバム『Runnnig』からは4曲のカントリーチャートTop10ヒットが生まれた。そのうちの1曲はジョン・ハイアットの作品(「She Don't Love Nobody」)だったが、その曲も含め、彼らの曲がポップチャートにクロスオーバーヒットすることはなかった。

カントリー界のショービジネス化加速とともに失速したデザートローズ・バンド

このようなカントリー界特有の構造に、クリス・ヒルマンは徐々にフラストレーションを溜めていったようだ。90年に発表された3作目『Pages of Life』は、幾分ロック色を強めた、「ウェストコースト・カントリーロック」と呼んでもいいような質の高い作品だったが、ラジオでのエアプレイを基にするカントリーチャートでシングル曲が上位にランクされても、それがアルバムセールスに結びつくことはなかったという。

左:3作目『Pages of Life』(1990年)、右:4作目『True Love』(1991年)
(私はここからCDになりました)

当時彼らが所属していたカーブレコードは中規模のレーベルで、大手のMCAと配給契約を結んでいたが、ヒルマンの自伝によると、カントリーのレコード(CD)はいかにスーパーマーケットの店頭に並ぶかで勝負が決まるという。そう言えば私もデザートローズ・バンドのファーストを買ったのは「K-Mart」という地元のチェーンスーパーだったと記憶しているが、カントリーのファンが多いアメリカの小さな地方都市には、レコード/CD専門店などあまりないケースが多かった。スーパーの一角にあるレコード/CD売り場にラジオで聞き馴染みのあるアーティストのアルバムがあれば、食材や日用品を買うついでにカゴに入れる。そんな感じなのだ。スーパーの棚にいかに商品を置いてもらうか──そこには純粋な音楽の良し悪しではない、ポリティックスが存在するのだとヒルマンは言う。このことは、彼によると、カントリー界でも恒例化している賞レースにおいても同じで、ヒットの数では完全に優っているデザートローズ・バンドが、当時一発屋的存在だったケンタッキー・ヘッドハンターズにカントリー・ミュージック・アワード(CMA)を持っていかれたのも、大手レーベルに所属していたケンタッキー・ヘッドハンターズとのレーベルの力関係の差だったことが後になってわかったとヒルマンは書いている。

こうしたカントリー界特有の市場構造に多かれ少なかれフラストレーションを感じていたクリス・ヒルマンにとって、さらに決定的だったのは1992年頃のガース・ブルックスの登場だったという。ヒルマンは必ずしもガース・ブルックス本人を批判しているわけでないが、彼の登場でカントリー界のビジネスモデルが完全に変わってしまったという。ヒルマンが「大学で広告を選考していたというブルックスは完璧なショーマンだった」と言うように、私もヘッドセットマイクを付けて登場したガース・ブルックスには、何か作られた存在のような違和感を抱いたものだ。

80年代後半から90年頃にかけてのカントリー界では音楽的に質の高いアーティストが続々と登場してきていたのだが、90年代になるとカントリーミュージックのショービジネス化が加速し、純粋に音楽で勝負するようなアーティストは行き場を失い始める。92年頃にはデザートローズ・バンドの活躍の場も大きなステージでのヘッドライナーから、「バドワイザーステージ」レベルに急速に落ちていったという。「バドワイザーステージ」というのは、ビール会社がスポンサーになるようなフェア会場で1日に複数のステージをこなさなければならないようなアクトだという。さらにこの頃までに、元々上昇志向の強かったジョン・ジョーゲンソンが独立、ドラムスやスティール奏者も交代し、バンドは徐々に失速していく。92年には熊本県阿蘇で毎年行われていた野外フェス「カントリーゴールド」で来日。私もそのステージを見たが、デビュー当時のような勢いは感じられなかった。

1992年「カントリーゴールド」野外フェスのパンフレットより。このときのトリはドゥワイト・ヨーカム。

レコード会社が彼らに対して手を抜いてきたことも明らかだったようだ。最後のアルバムとなった5作目(編集盤を除く)の『Life Goes On』(1993年)は、ヨーロッパ、アジアでは発売されたが、北米での発売は見送られた(日本では発売されたようだが、現在入手は難しそうである)。最終的にデザートローズ・バンドは、レコード会社やマネジメントにフラストレーションが溜まった状態のまま、1994年のカリフォルニアでのショーを最後に解散を選択する。クリス・ヒルマンにとっては、今までのどのバンドよりも長く在籍したバンドであり、ビジネス面でのフラストレーションはあったにせよ、バンドとしては素晴らしいことの方がはるかに多かったと言う。そして、ツアーの過酷さや家族と過ごす時間などを考えれば、ちょうどいい時期に解散したと彼は言う。

次回につづく

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