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自然・人間・社会/『アフォーダンスの心理学』と考える/2. スピノザの「一元論」

写真出典:AlainAudet @pixabay
自然の中の人間、そして、その人間が作る社会。その関わり合いを、エドワー・S・リード『アフォーダンスの心理学』を手がかりに考えていくシリーズ。第2回は、リードの発想をヒントに考えを深め広めていくときに参照すると役立つと感じているスピノザの哲学を紹介します。デカルト・ニュートンの流れとは正反対の「一元論」が彼の特徴です。

前回はこちら:


1.「二元論」の復習

 
 スピノザの考え方を紹介する前に、デカルト、ニュートン的な「二元論」がどのようなものであったかを振り返っておきましょう。

 デカルトとニュートンは、ザックリ言ってしまえば、世界を「神」と「神以外」の二つに分けたのです。

*「神」は永久不変の「原則」を適用して「神以外」を動かす。

*「神以外」は「神」に動かされない限り、動かない。

 
 私たちは、日常のなかで「心」が思い、決めたことに従って「身体」が動くと感じることが多いと思います。現代では、医学と科学が発達して人間の「心」から独立した「身体」の自律的な動きが知られるようになりましたが、17世紀にはそのような知見はありません。しかも、キリスト教の伝統では人間の「心」は「神」と強く結びついています。
 
 ですから、デカルト・ニュートンの時代の西洋人は「心」が「身体」の支配者であるという感覚を、非常に強く持っていたと思います。ここから、人間を二つの側面に分ける考え方が生まれてきます。

*「心」は「身体」を動かすから「神」に近い存在である。

*「身体」は「心」によって動かされるから「神以外」である。

 「心身二元論」の誕生です。「神 vs 神以外」の「二元論」と「心身二元論」は見事な相似形になっています。
 
ここで「心」を「神」の側に置いたため「心」を科学の対象にすると宗教と抵触する危険が生じ心理学は科学になり切れなかった、というのが、リードの考え方なのです。 

2.スピノザの「一元論」と個物の主体性


 デカルトとニュートンが活躍した17世紀のヨーロッパに、まったく違う考え方をした哲学者がいました。それが、スピノザです。

 スピノザも西洋の伝統に属していますから、彼にとっても「神」の存在は自明のことです。彼にとって「神」は次のような存在です。

定理14 神以外にはいかなる実体も存在しえないし、また考えることもできない。

工藤喜作・斎藤博訳 スピノザ『エティカ』
(中央公論新社、2021年)P25

 スピノザが言う「実体」は、「それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもの(上掲書P3)」です。分かりにくいですね。蛮勇を奮って、私流にザックリ言い換えます。《そのものが存在する原因を、そのものの外側に見つけることができないもの》のことです。
 
 私たち人間を含めて、すべての生き物は、外部の環境があるから存在できています。そして、その環境は地球という惑星があるから存在し、地球は太陽があるから存在し......というように、万物のひとつひとつ――個物とよぶことにします――は、必ず、その外側にある何かが原因となって存在していいます。
 
 しかし、全てのものを超越した「神」が存在する原因を「神」の外側に見つけることはできません。ここで「神」を万物の外側に置いて「神」が万物の窮極の原因だと考えたら、「二元論」と同じことになってしまいます。
 
 スピノザは、そうは考えませんでした。デカルト・ニュートン的な「二元論」と彼の考え方の違いについてのスピノザの説明はとても長くて分かりにくいので、代わりに國分 功一郎 氏の説明を紹介します。

スピノザは神なる実体とはこの宇宙あるいは自然そのものに他ならず、そうした実体がさまざまな仕方で「変状」したものとして万物は存在していると考えた。すなわち、あらゆる物は神の一部であり、また神の内にある、と。

抜粋:國分功一郎『中動態の世界』
(医学書院、2018年)P236/太字化は楠瀬

 スピノザは、「神」を万物の外側に置くのではなく、万物の方を「神」の内側に取り込んだのです。「神」は万物を内包しているから、それは自然そのもの、もっと広げて言えば、宇宙そのものということになります。「変状」とは、外からの力で変えられるのではなく、自らの内なる法則だけに従って運動し変化することです。

 では、「神」の内側にある万物はどういう存在でしょう? それは「神」が存在する仕方、「神」の存在様式です。

個物は、庭の樹木として、道ばたの石ころとして、あるいは身体をもった人間存在として、そのそれぞれが神すなわち自然が存在するにあたっての様式、存在の仕方としての様態である。

引用:國分功一郎『中動態の世界』
(医学書院、2018年)P23/太字化は楠瀬。

 私は、これを《個物は、それぞれが「神」のひとつの表現形態である》と言い換えても良いと考えています。こう考えると、万物は、「神」の多種多様な表現形態の集合です。

 ところで、「この世で変わらないのは、変わるということだけだ(スイフト)」という言葉があるように、万物はつねに変化しています。
 人間の目には変わらないように見える恒星も、内部では水素の核融合反応が続いていて、そこから生まれるヘリウムが蓄積していくと、白色矮星として収縮するか、超新星爆発を起こすかして、最期を迎えます。


 万物は「神」の表現形態ですから、「万物」が常に変化しているのは「神」が常に変化しているからだと考えてよいと思います。裏返して言うと、「神」が変化するから、その表現形態が変化し、それが万物の変化なのです。

 ところで、「神」には外側がありませんから、なにものからの影響も受けずに、自ら変化していきます。

神すなわち自然は外部をもたないのだから、他のいかなるものからも影響を受けません。つまり、自分の中の法則だけで動いている

引用:國分功一郎『はじめてのスピノザ』
(講談社現代新書、2020年)P37/太字化は楠瀬。

 また、スピノザは、個物はすべて「神」の属性から生じると考えています。

定理25 必然的にそして無限に存在するすべての様態は、必然的に神のある属性の絶対的本質から生ずるか、それとも必然的にそして無限に存在する様態的変様に様態化した神のある属性から生じてこなければならない

工藤喜作・斎藤博訳 スピノザ『エティカ』
(中央公論新社、2021年)P47/太字化は楠瀬

わかりにくい表現ですが、私流に解釈すると、個物は「神」の属性を直接の原因として生じたものであるか、あるいは、「神」の属性から生まれた他の「個物」を原因として生じたものであるか、そのいずれかだと言っているのです。

 ここまでの検討で、デカルト・ニュートン的な「二元論」とスピノザの「一元論」は、個物の運動と変化を違った形で捉えていることが見えてきたました。

【デカルト・ニュートン的な「二元論」の場合】
[運動と変化]個物は「神」から命令されて初めて運動し変化する。
[その理由] 
個物は「神以外」の世界に属し、「神」から完全に切り離され、神との共通項は全くないから。(注)
(注)人間だけは「心」を持っているために、この切り離しができていません。

【スピノザの「一元論」の場合
[運動と変化]個物は運動変化することによって「神」の運動と変化を表現する。
[その理由] 
個物は「神」の内側にあって「神」の属性を備えているから。

 「二元論」は個物の主体性を全く認めません。すべては「神の御心のまま」なのです。

 では、スピノザの「一元論」はどうでしょう?

 個物の運動と変化は「神」の運動変化の表現形態です。もし、「神」が完全に静止している状態があるとしたら、個物も運動変化しません。この場合、個物に主体性があるようには思えません。

 しかし、実際には「神」は運動し変化し続け、その運動と変化の表現形態として個物も運動し変化しています。しかも、個物は「神」の属性を備えている。となると、個物が「神」と主体性を共有してみずから運動し変化するようにも思えます。

 スピノザの「一元論」がどこまで個物の主体性を認めているか?

この問いを《ビッグQ》と名付けることにします。正直に申し上げると、私は、スピノザ哲学の中に《ビッグQ》の答えを見つけることが出来ていません。

 ですが、私は、《ビッグQ》への回答になるかもしれない発想を『アフォーダンスの心理学』の中に見つけたのです。それが、私がスピノザをリードに結びつけて考えるようになった理由です。

 次に、私が『アフォーダンスの心理学』の中に見つけた⦅ビッグQ》への回答らしきものを紹介します。

3.リードにおける個物の主体性

 

 リードが考察の対象にしている個物は人間を含む動物に限られます。特に、これから紹介するの彼の議論は、その対象が、動物のなかでも人間に絞られています。

 前回ご紹介した「日本語版への序文」の中に次のような表現があります。

ヒトは自己を剪定する「盆栽」のようなものなのです――自分たちの運命を形づくることならできますが、それはあくまでも自分たちが発見する環境と自己の諸制約の範囲内でおこなわれるのです。

『アフォーダンスの心理学』Pⅲ

ここでリードが「自己の諸制約」と言っているのは、生き物としての人間の構造と機能のことです。これを「自然に起因する要素」と捉えても大きな間違いではないと思います。ところで、スピノザの「一元論」では「自然 即 神」ですから、スピノザ的に考えると「自然に起因する要素」「神」の属性と置き換えても、「当たらずとも遠からず」です。

 そして、リードは、本論のなかで次のように言います。

各々の有機体はその生存のために環境を必要とするが、環境はその存続のためにどの一個体も必要としない。環境が環境でありつづけるためには、おそらく、すべての動物が必要なのだろうが(楠瀬注:エコシステムのことを指しているのだと思います)、これはべつの(そして確かめることのできない)問題である

『アフォーダンスの心理学』P55/太字化は楠瀬

ぼくらがここにいることで、環境は変化している。それはそのとおりだけれど、ぼくらがここにいなくても、環境はやはりここにある。しかし、環境がなければ、ぼくらはここにはいない驕りたかぶった人類も、環境を選択的に改変する以上のことはできない。環境を創造してなどいないのである。ぼくらは多くのことを知っているかもしれないが、環境の創造のしかたは知らない。だから、もし、このまま、ぼくらのたった一つの環境を破壊し続けるなら、やがて最悪の事態が訪れるだろう。

『アフォーダンスの心理学』P57/太字化は楠瀬

 リードがここで論じているのは動物の中でも人間ですが、彼は、人間は主体性を発揮できるが、それは自然の制約の範囲内にとどまると言っているのです。自然の制約には次の2つがあります。

*人間を取り巻く自然感環境からくる制約

*人間自身の生き物としての構造と機能からくる制約

 スピノザ的に「自然=神」と考えた場合、人間は《周囲の環境が有する「神」の属性と、自分自身が有する「神」の属性からくる制約の範囲内で》主体的であると言い換えることができます。ここではリードは自然――スピノザ的に言えば「神」の属性――をかなり抑制的なものとして捉えています

 しかし、リードの考え方は、それだけではありません。彼は、自然が人間の主体性を喚起し促進することについても考えていて、むしろ、そちらが彼の論の主たる部分です。そもそもアフォーダンスという概念は、自然によって喚起され促進される動物の主体性と切っても切れないものなのです。

 次回からは、『アフォーダンスの心理学』の本論に入っていきます。本論をヒントに自然・人・社会を考えていくなかで、またスピノザに触れる場面も出てくると思います。

次回はこちら:





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